第八章

       一


 西野家を後にした花月と光夜が人気の無い道を歩いていると、

「おい、そこの烏賊イカ野郎共」

 と言う声が聞こえてきた。

 二人がそのまま歩いていると、

「逃げる気か! 腰抜けめ!」

 男が怒鳴った。


 花月は立ち止まると、わざとらしい表情で辺りをゆっくりと見回してから振り返る。


「我らのことかな?」

「他に誰がおる!」

 その言葉に花月がうっすらとわらった。

「何がおかしい!」


 じゃねぇからだろ。


 光夜が言葉に出さずに突っ込んだ。


「お高く止まりやがって! サンピンが!」

「サンピンでもねぇよ」

 光夜が小さく呟いた。

俸禄ほうろく貰ってないもんね」

 花月が光夜にだけ聞こえる囁き声で答えた。

 三一サンピンとは一年間の報酬が三両一人扶持として与えられる者のことで、それが転じて貧しい武士の蔑称としても使われる。

 桜井家は間違っても貧しい部類には入らないし、光夜も金は持ってないとは言え桜井家の厄介になっているから寝食には困ってない。


「失敬。我らの事とは思わなかった故」

 花月の言葉に男達がたじろいだ。

〝イカ〟と呼んだと言う事は、花月(桜井家)が直参じきさんだと知っているということだ。


『直参』とは将軍直属の家臣――旗本と御家人――を指す言葉で、主が将軍ではない者で大名以外の者は陪臣ばいしんである。


 直参は陪臣より格が高い。

 篠野などが花月や信之介に対して礼儀正しく接するのは、石高は向こうの方が遙かに高くても西野家当主の家臣――つまり陪臣なので、直参の子である花月や信之介より格下だからである。

〝イカ〟とは御目見得おめみえの武士を侮辱する言葉である。

 御目見得の者が御目見得の御家人を侮辱するときに『以下イカ』と呼んだからだ言われている。

 つまり御目見得に対しては使えないのだ。

 直参と言うだけでも格上なのに、御目見得以上となるとその中でも更に上という事になる。

 花月や弦之丞達はそんな事を鼻に掛けたりはしないが、『イカ』などといって相手をあなどってくるようなやからにはこの程度のあしらいで十分だ。


 花月が暗に〝イカ〟ではないと言ったのだから桜井家は御目見得以上という事である。

 男達は誰かに雇われている――主が将軍ではないということだから直参ではない。

 陪臣か牢人だろう。

 つまり花月――と言うか桜井家より格下なのだ。


「と、とにかく、あるお方が話があるそうだ」

「話とは?」

「イ……貧乏侍には目玉が飛び出るような金の話よ」

「当然、一両や二両ではないのだな」

 花月は冷笑を浮かべたまま言った。

「無論だ。サンピンでもその程度は貰っておるであろう」

「まずここで何の話か聞こう。出向くあたいせぬ話のために時をついやす気はない。暇無しなのでな」

 花月が薄笑いを浮かべたまま当てこするように言った。


 男がむっとした表情を浮かべたが、それでも、

「我々の雇い主は今回の件から手を引くならそれ相応の謝礼を出すそうだ」

 と言った。

「ほう。で、その方らはどれくらい金を積めば寝返る?」

「そんな金は持ち合わせてないであろう」

「無論」

「貴様! 我らを愚弄ぐろうする気か!」


 とっくにバカにされてんだろ……。


 光夜は白い目で男達を見た。


「我らは持ってないが、その方らの雇い主は持っているであろう。無いとすればこの話は偽りという事になるからな」

 男達が怪訝そうな表情を浮かべた。

「その方らが欲しいだけの金額を雇い主に言って出させよ。その金をくれてやる」

「なっ……!?」

「私の元に金を届けるように指示されたと言えば良い。受け取ったらその金を持ってどこへなりと行け」


 男がなおも口を開こうとしたが、

「我らは味方を売って公方様のお顔に泥をるような真似は出来ぬが、その方らは金の持ち逃げくらいどうということはあるまい」

 暗に男達の事を破落戸ごろつきほのめかしているのだ。

 花月の嘲りに男達の顔色が変わった。


「話は済んだ。そこを退いてもらおう」

 花月はそう言って鯉口を切った。

 それを見た男達はすぐに立ち去った。


 花月の実力を聞いてるってことか……。


 つまり今までり合ったことのある者の雇い主が送り込んできたのだ。


 しかし……。


「あんた、敵の金で手先ろうなんて汚ぇな」

「あんたこそ、きれいとか汚いとか考えてたら死ぬわよ」

 泰平たいへいの世になってから大分っているはずなのだが、花月や弦之丞達と話していると未だに乱世の時代が続いているような気になってくる。


 これでも死ぬか生きるかの生活してきてたつもりだったんだけどな……。


「使えるものはなんでも使わないと……けど、釣ってないわよ」

「そりゃ、奴らに金を渡したりはしねぇだろうけど……」

「そうじゃなくて」

「え?」

「ま、いいわ。帰りましょ」

 花月はそう言って光夜を促して歩き始めた。


「あんたや俺はともかく、師匠はイカじゃねぇんだよな?」

「お父様もお兄様もタコ」


 師匠や若先生をタコって言うなよ……。


「てことは若先生も拝謁はいえつ済みなんだな」


 御目見得以上の者に『以下イカ』とバカにされた御目見得以下の者が『以下イカ』と『烏賊イカ』を掛けて、御目見得以上の者に『タコ』と罵り返したと言われている。

 当然これは悪口なので面と向かって言うのは論外である。

 今は他に聞いている者がいないからシャレとして使っているのだ。


 旗本とは普通、御目見得以上の者を指すから〝イカ〟ではない。

 ただ旗本と御家人をどこで分けるかはっきりとした決まりがない。

 線引きが明文化されてなかったためである。

 御目見得以上とか二百石以上が旗本と言われていたが二百石以下の旗本や二百石以上の御家人もいたし、同様に御目見得以上の御家人もいたから数百石前後の直参はどちらなのか判別が難しい。

 花月は〝イカ〟ではないと言っていたが念のため聞いてみたのだ。


「向こうは陪臣だし、うちは小普請組だからイカだと思ったのかもね」


『陪臣』とは直接の家臣ではないと言う意味なので、例えば大名家の家臣が雇っている家臣も大名から見たら陪臣だし、大名の家臣でも他の大名から見たら陪臣である。

 つまり陪臣とは自分の直接の家臣ではない者を指す。


 ちなみに旗本が出世して石高が一万石を超えると大名となり直参とは呼ばれなくなるが、領地を子供達に分割して譲ったりして一万石以下になると旗本に戻る。

 柳生宗矩は旗本から出世して一万二千五百石の大名となったが三人の息子に領地を分割して譲ったので一万石以下になったので柳生家は旗本に戻り、その後、宗冬の代でまた一万石以上になって大名に復帰している。

 牢人は誰の家臣でもないので、大名とは別の意味で直参でも陪臣でもない。


 ふと、花月が考え込むような表情になった。


「どうかしたか?」

「もしかしたら若様が公方様に拝謁する前に次丸様を跡継ぎにしたいのかも」

 将軍は忙しいので大名や旗本の子息が元服する度に一々謁見などしていられない。

 そのため旗本や小藩の大名の子息への謁見は一括して行われる。

 大勢を集めたところに将軍が来てまとめて謁見するのだ。

 直参でも御目見得以下の者や陪臣、牢人などはそれすら叶わないから光夜には無縁の話なので拝謁済みかどうかで何が違うのかよく分からないが。


       二


「向こうは陪臣だし、うちは小普請組だからイカだと思ったのかもね」


『陪臣』とは直接の家臣ではないと言う意味なので、例えば大名家の家臣が雇っている家臣も大名から見たら陪臣だし、大名の家臣でも他の大名から見たら陪臣である。

 つまり陪臣とは自分の直接の家臣ではない者を指す。


 ちなみに旗本が出世して石高が一万石を超えると大名となり直参とは呼ばれなくなるが、領地を子供達に分割して譲ったりして一万石以下になると旗本に戻る。

 柳生宗矩は旗本から出世して一万二千五百石の大名となったが三人の息子に領地を分割して譲ったので一万石以下になったので柳生家は旗本に戻り、その後、宗冬の代でまた一万石以上になって大名に復帰している。

 牢人は誰の家臣でもないので、大名とは別の意味で直参でも陪臣でもない。


 ふと、花月が考え込むような表情になった。


「どうかしたか?」

「もしかしたら若様が公方様に拝謁する前に次丸様を跡継ぎにしたいのかも」

 将軍は忙しいので大名や旗本の子息が元服する度に一々謁見などしていられない。

 そのため旗本や小藩の大名の子息への謁見は一括して行われる。

 大勢を集めたところに将軍が来てまとめて謁見するのだ。

 直参でも御目見得以下の者や陪臣、牢人などはそれすら叶わないから光夜には無縁の話なので拝謁済みかどうかで何が違うのかよく分からないが。


「光夜、諱は考えたか」

 夜、学問を教わるために居間へ行くと弦之丞が訊ねてきた。

「いえ、まだ……」


 そういや考えとけって言われてたな……。


 ササゲ豆が届くまでに思い付かなければ三厳にされかねない。


「では、この中から選ぶと良いだろう」

 弦之丞が光夜に紙を渡した。

「私もいくつか書き出してみた」

 宗祐もそう言って紙を出した。

流石さすがお父様とお兄様!」

 紙を覗き込んだ花月が、はしゃいだ声を上げる。


 えっ……。

 なんか嫌な予感が……。


 再度紙に目を落とすと弦之丞と宗祐が書き出したものは重複しているものが多かった。


 しかも、いくつか聞き覚えのある名前が……。


「この名前って……」

「全員名だたる剣豪よ」

 花月がにこやかに答えた。


 やっぱり……。

 てことは義輝って、もしかしなくても足利将軍……。

 牢人風情が付けてい名前じゃねぇだろ……!


「本当は宗祐も剣豪にあやかった名前にしたかったのだが、うちの通字つうじである紘の字を使っている剣豪が見付からなくてな」

 弦之丞の表情も声音もいつもと変わらないが無念さは十分に伝わってきた。


 花月の剣豪好きは師匠の影響か……。

 てか、若先生も……。


『通字』というのは一族で共通して使う字である。

 武士の名前が似通っているのは通字を使うことが多いためである。

 一族に通字がある場合、もう一字は既に居る者と被らないようにけた。

 これを『偏諱へんき』と言う。

 徳川家なら『家』が通字で、『家康』の『康』が偏諱である。

 家康以降は同じ『家康』という名前にならないように『康』の字がけられた。

『光』なども同様に偏諱である。

『綱吉』の場合、兄の『家綱』が通字である『家』の字を使い、弟の綱吉は兄・家綱から偏諱である『綱』の字をたまわったから『綱吉』となった。


 つまり『宗』が通字だったら若先生は宗厳か宗矩だったかもしれないのか……。


 いくら滅多に使わないとは言え秘密ではないのだ。

 そっと様子を窺うと花月が期待に満ちた表情で紙の一点を凝視している。


〝三厳〟


 そうか、目上の者なら下の者を諱で呼べる。


 つまり光夜の諱が『三厳』にした場合、花月は堂々と呼べるのだ。

 町人ならいざ知らず、武士で三厳が柳生十兵衛の諱だと知らない者はいないだろう。


 花月には悪いが人前で『三厳』などと呼ばれるのは御免被ごめんこうむる。


 しかし、ここには剣豪の名前しか書いてない。

 弦之丞も宗祐も揃って剣豪の名前だけしか書いてこなかったのだから二人に任せたら剣豪の名前にされるのは目に見えている。

 しかも二人揃って花月に弱い。

 花月が『三厳』が良いと強く言ったら通ってしまうかもしれないのだ。

『三厳』などと付けられたらこの家を出奔しゅっぽんするしかなくなる。


 どうすりゃいいんだ……。


 光夜は頭を抱えた。


 そう言えば……。


「あの、師匠か若先生の名前の一字を頂けないでしょうか?」

 紙に書かれた名前の中に『空』も『陽』もいない。

 紘空か紘陽の偏諱を賜れば剣豪と同じ名前はけられる。

「そうか」

 弦之丞は頷くと、

「では『紘』の字を使いなさい」

 あっさり言った。

「えっ! 『紘』は桜井家の通字では……」


 偏諱でいいんだが……。


「通字を与えてはいけないという決まりはない」

 確かに織田信長は通字である『信』を与えている。


 いや、それはそれで恐れ多いし荷が重いんだが……。

 藤孝辺りを選んでおけば良かった……。

 細川幽斎で知られてるから剣豪にあやかったって分かる人は少ないだろうし……。


「じゃあ『紘』に『や』って言う字を付ければ今まで通り『こうや』って呼べるのね」


 あっ……!

 そうか……。


『紘』は『ひろ』だけではなく『こう』とも読む。

 桜井家では『紘』を『ひろ』と読んでいると言うだけである。

『紘也』なり『紘矢』なりにしてしまえば『こうや』のままだから声で聞く分には今までと同じだ。


「じゃあ『紘』に『夜』で『紘夜』ね」


 え……。

『や』は夜のままなのか……。

 まぁ、剣豪と同じ名前じゃなきゃいいか……。


 なんだか物凄く適当に決まってしまった気もするが、どうせ普段は使わないのだからと自分を納得させた。


「では、後は通称を考えておきなさい」

 弦之丞が言った。

 そうだった。

 基本的には上の立場の者以外は諱では呼べないから通称が必要なのだ。

 諱の音が「こうや」のままだから花月や弦之丞、宗祐はいいとして、他の者に対しては通称を名乗らなければならない。


「はぁ、面倒くせ……」

「なら十兵……」

「兵蔵!」

「えー、せめて弥五郎とか助九郎とか……」

「頼むから剣豪から離れてくれ……」


 通称まで勢いで決まっちまったじゃねぇか……。

 普段他人ひとから呼ばれる名前なんだぞ……。

 信之介に『兵蔵』って呼ばれるのか……。


 光夜は肩を落とした。


「光夜、通称は元服の時までに考えておきなさい」

 弦之丞がそう言ってくれたので『兵蔵』はまぬがれることが出来た。


       三


 翌日。


「公方様への拝謁?」

 篠野が聞き返した。

 花月があらかじめ篠野に面会を申し入れていたらしく、西野家での稽古が終わると二人は篠野のいる部屋に通された。

「次丸様の御母上が焦って刺客を放ってくるのは若様が拝謁される前に跡継ぎになりたいという事は……」

「ああ、いえ、そうではありませぬ」

「事情があるのでしたら無理に伺いませぬが……」

「いえ、これは内密でもなんでもありませぬ故」

 篠野は文丸に縁談の話が来ていると語った。


 確かに縁談なら秘密ではない。

 大名同士の縁組は御公儀の許可がいるから内緒にはしておけないのだ。

 大名同士の縁組みというのは同盟を結ぶのと同義と見做みなされるから無断で決めたりすれば謀反を企んだとして御家取り潰しになりかねない。


「問題は縁談の相手です」

 縁組により縁戚になる相手が有力者のため、次丸の母親の一族より文丸の母親の一族の方が優勢になるらしい。

 つまり縁組が決まってしまったら跡継ぎを変えさせる事は出来なくなる。

 まして文丸と正妻の間に男子が生まれれば次丸が跡継ぎになる目が無くなるだろう。

 これは単に次丸が跡継ぎになれるかどうかだけの問題ではない。

 今は次期当主になるかもしれないからという理由で次丸の一族に便宜をはかっている者もいるだろう。

 だが、それも次丸に見込みがある間だけだ。

 跡継ぎになれそうにないとなればそう言う恩恵は受けられなくなるだろう。

 今、甘い汁を吸っている者にとっては死活問題なのだ。


「じゃあ、若様の縁談がまとまれば狙われなくなるって事か?」

「全く無くなることはないであろうが敵は大分減るであろう」

 花月が答えた。

「まぁ今ほどの警護は必要なくなるでしょうな」

 篠野が花月の言葉を肯定するように言った。


 その日の夕方、花月と光夜はかごの後ろを歩いていた。

 偶々たまたま同じ道を通っている、というていで付かず離れずの距離を保っている。

 籠に乗っているのは文丸(の振りをした信之介)である。

 文丸が西野家当主の代理として見舞いの挨拶に行くのだ。

 本来なら西野家当主が出向かなければならないのだが、急用が出来たので文丸が代わりに行くことになったのである。


 文丸が代理としていくことで跡継ぎだという事を周囲に知らしめる意味合いもあるようだ。

 だとすれば西野家の当主は文丸が跡継ぎになることを望んでいることになる。

 面識のない相手なのと、当人は寝込んでいて出てこられないから代理の者に口上を述べるだけなので信之介が行くことになった。

 最近、文丸の身辺が物騒なので大事を取ったのである。

 文丸の警護は花月と光夜の仕事ではないのだが念のため一緒に行くことにしたのだ。


「で、なんで縁談がいつまとまるか分からないんだ?」

 光夜は歩きながら訊ねた。

「縁組はまず御公儀の許可を得て、その後、祝言の打合せとか色々仕度をしないといけないから話が来てすぐって訳にはいかないのよ」

 花月の言葉に光夜はげんなりした。

 正直、西野家で文丸の稽古に付き合わされるのには閉口へいこうしているのだ。

 とっとと終わりにして今まで通り桜井家の稽古場での稽古に戻りたい。

 手裏剣術の稽古を兼ねて、などと言って石を投げさせているのも、今のままでは花月も光夜も腕がなまるから少しでも実戦に近付けるためだろう。


 人気のないところに差し掛かった時、不意に銃声がした。

 同時に籠の警護の一人の胸に矢を受けて倒れる。

 花月と光夜は籠に向かって駆け出した。


 銃があるのに矢?


 光夜は走りながら眉をひそめた。

 前方から籠に向かって黒い羽織袴の覆面で顔を隠した男達が駆け寄ってくる。

 背後からも近付いてくる複数の足音が聞こえてきた。

 光夜は籠のから少し離れたところで立ち止まり抜刀した。

 花月はそのまま籠の前まで走っていく。


 再び銃声がした。

 花月は籠の前方で再度飛んできた矢を刀の鎬で叩き落とした。

 男達が籠を取り囲む。


 男が斬り掛かってくる。

 光夜は右足を後ろにずらしたいを開いて切っ先をけると刀を横に払った。

 男の腹から臓物が溢れ出す。


 別の男に向き合おうとした時、一間ほど離れたところにいた警護の武士が叫び声を上げて倒れた。

 警護を倒した男がそのまま籠に向かおうとする。

 光夜は咄嗟に刀を男に投げ付けた。

 男の背に刀が突き立つ。


 光夜の近くにいた男が斬り掛かってくる。

 脇差を抜いて斬り上げ首をねる。

 男が血を吹き出しながら倒れた。

 別の男が刀を突き出してくる。

 それを鎬で弾く。

 男は弾かれた刀を下から逆袈裟に斬り上げてきた。

 光夜は素早く男の懐に踏み込んで腹に刀を突き立てた。

 槍を持った男が籠の前方から突進してきた。

 花月が抜刀しながら男に向かっていく。

 男が立ち止まって槍を突き出す。

 槍の穂先ほさきけた花月を見た男はそのまま籠に槍穂やりほを突き立てようとした。

 槍が伸びきり、槍穂が籠に届く寸前、花月が刀の柄頭つかがしら槍柄やりえはじく。

 穂先ほさきが籠をれた。

 男はすかさず槍柄を手繰たぐり寄せる。


 速い!


 刀の間合いに入る前に引き戻された槍穂が突き出される。

 槍を何度も素早く繰り出され懐に飛び込む隙がない。

 穂先が花月に届かないとすぐに引いてしまう。

 そして近付く間もなく即座に突き出される。


 槍柄が伸びないと穂先をやり過ごして刀の間合いに踏み込むことが出来ない。

 柄の長さを利用して突くだけとか、重量を利用して勢いを付けて叩き付けるだけというような素人ではない。

 かなりの槍の遣い手だ。


 敵は他にもいるから槍の相手だけをしているわけにはいかない。

 花月は懐に手を入れて扇子を取り出すと、それを開いて上に放り投げた。


 扇子がひらひらと宙を舞う。


 敵は構わず槍を繰り出してきたが、扇子で出来た一瞬の死角から花月が投げた刀に気付くのが遅れた。

 男の胸に刀が突き立つ。

 左胸に刀を受けた男が倒れた。


 別の男が大太刀で斬り掛かってきた。

 花月は脇差を抜いて大太刀の切っ先を弾きながら後ろに跳んだ。

 男と花月が向かい合って立つ。

 脇差は刀身が短い。

 普通の太刀より長い大太刀と脇差では間合いが違いすぎる。


 大太刀の男が刀を振り下ろす。

 脇差で受けようとしたが、細身の刀身は簡単に折れてしまった。

 花月は咄嗟に後ろに跳んだが切っ先が僅かに花月の肩の下を斬り裂く。

 白い小袖の胸に小さな真紅の染みが出来る。


 男が突進してくる。

 花月が懐に手を入れた。

 棒手裏剣を男に向かって二投、三投と放つ。

 目を狙っているのだが、どれも頭を軽く傾けただけでけられてしまう。

 かと言って身体を狙っても棒手裏剣では大した痛手は与えられないから勢いを付けて突っ込んでくる男を止めることは出来ない。

 折れた脇差では投げ付けても大した威力はない。


 無刀取りが出来るほど近付かれたら大太刀が籠の中に届いてしまうかもしれない。

 大太刀の切っ先が花月に迫る。

 刃渡りが長いから花月ごと籠の中まで突き通すつもりなのだ。

 花月は真正面に立ったまま折れた脇差を構えた。


       四


 敵と戦いながら花月の様子をうかがっていた光夜は息を飲んだ。


 つばで受ける気か!


 それで脇差を投げ付けずに持っていたのだ。

 だが鍔では一度は切っ先を籠から逸らすことは出来ても、その後はまともに遣り合えないだろう。

 折れた脇差だけで戦ったら花月も無事では済まないはずだ。


「花月!」

 光夜の脇差を投げようにも花月の影に隠れてしまって男の姿はほとんど見えない。

 光夜では針の穴を通すような正確な投擲とうてきは出来ない。

 男に脇差を投げられる位置に移動しようとした時、別の武士が斬り掛かってきた。


 こんな時に……!


 光夜が体を開いてける。

 武士が二の太刀を放つ。

 それを鎬で弾く。


「どけ! どいてくれ!」

 武士と斬り合っていたら間に合わない。


 このままじゃ花月が……!


 光夜が焦って刀を振り上げた時、再び銃声が響いた。


「花月!」

 光夜は武士の懐に飛び込んで胸に脇差を突き立てて花月の方を見ようとしたが、武士の身体が邪魔で見えない。

 光夜は脇差から手を放して武士の腹を蹴った。


 武士が倒れて視界が開ける。

 花月は脇差を構えたまま辺りをうかがっていた。

 大太刀の男の姿は見えない。


 光夜は急いで籠を回った。

 地面に男が倒れている。

 側に大太刀が転がっていた。

 男が絶命しているのは明らかだ。

 頭から流れ出す血が広がっていく。

 傷は右耳の上辺りだから花月がったのではない。

 おそらく今の銃声はこの男が撃たれた時のものだろう。

 花月は無事のようだ。


「花月……!」

 駆け寄っていく光夜の方を振り向いた花月が折れた脇差を投げた。

 脇差が光夜の横をかすめて飛んでいく。

 背後で叫び声と地面に何かが倒れた音がした。


 振り向くと警護の者が敵を倒したところだった。

 倒れている敵の近くに花月の脇差が落ちている。

 警護の者と戦っていた敵に花月が投げた脇差が当たったのだろう。

 脇差をぶつけられて隙が出来たところを斬られたようだ。

 周りから遠ざかっていく複数の足音が聞こえた。

 残っていた敵が銃撃を恐れて逃げ出したのだろう。


 光夜は花月の左胸の上の方に小さな赤い染みがあるのに気付いた。


「花月、それ……」

「これくらい、かすり傷よ」

 そう言って肩をすくめようとして顔をしかめた。

「おい……」

 光夜が更に言葉を続けようとしたが、花月は籠に近付き片膝を突くと、

「若様、おケガはありませぬか」

 籠の中に声を掛けた。

「大事ない」

 信之介がくぐもった声で返事をした。

「桜井様、菊市殿、我らはここを片付けてから追い掛けます故、お二人は若様をお願い致す」

 警護の武士を指揮している者が花月にそう声を掛けてきた。


 敵味方関係なく道端に死体を転がしたままにしておく訳にはいかないので草むらに移動させる必要がある。

 警護の武士の遺体はとむらうために屋敷に連れ戻さなければならないが、かついでいくわけにはいかないので後で籠を連れてきて屋敷に運ぶのである。


 指揮をしている者が六尺ろくしゃく達に合図をすると、彼らは戻ってきて再び籠を担いだ。

 籠が再び進み始める。

 光夜と花月は並んで歩き出す。


「手当てしなくて良いのかよ」

 光夜が小声で訊ねた。

 血の染みが少しずつ広がっている。

 ついさっきまで染みは半寸もなかったはずだが今は一寸以上ある。

「ここで脱ぐわけにはいかないでしょ」

 花月が囁き返す。


 そうだ……。


 花月はケガをしたからといって場所を選ばすに手当をするわけにはいかない。


 確かにここで肌を見せるわけにはいかねぇけど……。


 光夜は不安を振り払うように、

「あの銃声は味方だったって事か?」

 と訊ねた。

「今回はそうだったみたいね」

 花月が答えた。

 敵なら最初から籠を狙っていただろう。

 銃でいきなり狙撃されたらまず防げない。

 一発目を外したというのでもない限り。

 それに敵は矢を放ってきた。

 おそらく銃をった者は弓使いを狙撃したのだろう。

 矢を払いながら籠を守りつつ槍や大太刀と渡り合うのは難しい。

 銃による掩護えんごのおかげで命拾いしたのだ。


 西野家に着くと花月は奥の部屋で手当てしてもらって光夜と信之介がいる部屋に戻ってきた。


「花月さん! 大丈夫でしたか!?」

 信之介が心配そうな顔で訊ねた。

「大したことないわよ」

「危ういところでしたな。あと少し踏み込まれていたら命を落とされていたかもしれませぬ」

 医師の言葉に顔から血の気が引くのが分かった。

 信之介も顔面蒼白になっている。

「実際には何事もありませんでしたし」

 花月が笑って手を振ったが、

「笑い事じゃねぇだろ!」

「何かあってからでは遅すぎます!」

「死なねぇことが活人剣の教えだろ!」

 光夜と信之介に口々に言われて花月は決まり悪そうに肩をすくめた。


 夜、光夜が布団に横になると猫が隣に来た。

 光夜の身体に自分の背中を押し付けるようにして寝転ぶ。

 脇腹に当たっている猫の背はあたたかくて柔らかくて少し重い。

 これが生き物のぬくもりだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る