第七章

       一


「とりあえず、様子を見に屋敷に戻りましょう」

 別働隊が屋敷を襲撃しているかもしれない。


 屋敷に着くと門番に頼んで信之介を呼び出してもらった。


「花月さん、光夜殿、どうされました?」

 信之介の様子だと屋敷では特に変わったことはないようだ。

「さっき、若様のところで守り袋を落としたかもしれねぇんだ」

 光夜はあらかじめ花月と打ち合わせていたとおりのことを言った。

 最初、花月が扇子を落としたことにすると言っていたのだが、ちょうど光夜がいつも持ち歩いていた守り袋が無くなっていることに気付いたのでそれを口実にしたのだ。


「守り袋?」

「ああ、もし拾ったら捨てないでくれって頼んでおいてくれ」

「分った」

 信之介は訝しげな表情を浮かべながら頷いた。


「なぁ、花月。なんであいつらのこと屋敷に報告しねぇんだ」

 西野家からの帰り道、光夜が訊ねた。


「うん……」

 花月は考え込むような表情を浮かべた。

「悩むようなことか?」

「篠野様は私達が来ることには乗り気じゃなかったでしょ。特に私は」


 そういやそうだったな……。


「あんたは来るなって言われないかもしれないけど……もし、私は来ないでくれって言われたら、さっきの連中、あんたと信之介さんだけでなんとかなる?」

 確かに花月と二人でも苦戦するのだ。

 花月が居なければ間違いなく負けるだろう。

 これは試合ではない。

 敗北は死を意味するのだ。

 それも命を落とすのは光夜や信之介だけではない。

 狙いは文丸なのだから文丸まで命を奪われる事になる。


「まずはお父様に報告しましょ。それで篠野様に伝えるようにって言われたら明日言えば良いわ」

 花月の言葉に光夜も同意して帰途にいた。


「そうか」

 弦之丞は花月と光夜の話を聞き終えると頷いた。

「不覚でした。離れるなと言われていましたのに」

「引いたのがせぬな。光夜を足止めすることも出来たであろう」

 弦之丞の言う通りだ。

 あの時、背を向けた光夜にあの男が斬り掛かってきていたら応戦しないわけにはいかなかったし、そうなれば花月のところに駆け付けるのが遅れていた。


 確かに訳が分かんねぇ……。


 光夜は首を傾げた。


 翌日、西野家から桜井家に戻ると稽古場には誰もいなかったので花月と二人で稽古をすることになった。

 花月と光夜は対面して座り、光夜だけ右に刀を置いている。

 花月は丸腰で膝の前に扇子を置いていた。


「いつでも仕掛けてきて良いわよ」

 花月の言葉に刀に右手を掛けた途端、顔に向かって扇子が飛んできた。

 咄嗟にける。

 次の瞬間、首に刀の刃が突き付けられていた。

 扇子を投げ付けると同時に光夜の横の刀を取って抜刀し、そのまま首に突き付けたのだ。

 刀は抜ききっていないが、首の血管ちくだを切るだけならこれで十分だ。


 花月が光夜に扇子を手渡すと自分の右に刀を置いた。

 同じようにやってみろという事だろう。

 光夜が扇子を投げ付ける。

 花月は右手で刀を取ると柄頭で扇子を弾きそのまま光夜の眼前に突き付けた。


「同じ手、喰らっちゃダメでしょ。しかもけなかったわね。実戦なら死んでるわよ」

「いや、稽古だか……」

「普段止めてるのは真剣だからよ。門弟がいる場所での稽古ならともかく、そうじゃない時は真剣じゃなきゃ止めないからけなきゃケガするわよ」

 そう言えば稽古で使っているのは刃引きをしていない真剣だ。

「あんたの前にいた内弟子、割と長く続いてたんだけど腕と鼻折って出ていっちゃったのよ」


 マジか……。

 容赦ようしゃねぇな……。


「私だって何度もあざが出来たし。顔にも付いた事あるのよ」

「花月の顔でも殴るのかよ!?」

「そりゃ、一瞬の躊躇ためらいで切っ先が鈍ったらられるから相手によって変えるとなると判断が遅れるし、例え身内でも迷わず攻撃出来ないと死ぬから」


 いくらなんでもそこまで荒んだ世じゃねぇだろ……。

 竹光たけみつしてる奴もいるんだぞ……。


 竹光というのは偽物の刀のことである。

 主に中間など差しているが、金に困った牢人などが鞘と柄だけ残して本物の刀身を質入れする場合も多かった。

 このとき偽の刀身を竹で作ることがあったので竹光と言ったのである。


「ちなみに長くって、どんくらい?」

一月ひとつきちょっと……」


 それで長い方なのか……。

 まぁ稽古はかなりキツいからな……。


 その上で鼻や腕を折られたりしたら付いていけないと思って出ていくのも無理はないだろう。


「ケガしてる時の戦い方の稽古考えてたのに」


 ケガしてても休めねぇのかよ……。


 光夜は呆れた。


 そりゃ出ていって当然だな……。


「じゃ、今度は木刀持って。今、言ったように木刀は止めないからね」

 その言葉に木刀を持つと花月と向き合って立った。

 互いに青眼に構える。

 睨み合ったまま向かい合っていると、不意に花月の切っ先が僅かに動いた。

 咄嗟に光夜は大きく踏み込んで突きを放った。


 誘われた!


 そう気付いた時には打ち込んでいた。

 花月が光夜の木刀を弾く。


 二の太刀が来る前に……!


 逆袈裟に振り上げようとしたが花月の方が早かった。

 喉を狙って木刀が突き出される。


 ホントに止めねぇ気だ!


 光夜は咄嗟に首を傾ける。

 首の横を通り過ぎたと思った木刀が袈裟に振り下ろされる。

 光夜は背後に倒れ込んだが、けきれずに木刀の切っ先が僅かに肩に当たった。

 思わず痛みに顔をしかめながら素早く身体を回転させて足払いを掛けた。

 花月が床に木刀を立てる。

 思い切り振り抜いた足のすねが木刀に激突した。

 木刀が弾き飛ばされて転がる。

 だが光夜が足に受けた痛みはそれどころではなかった。

 衝撃が全身に伝わったかと思うと、次の瞬間、脛を中心に激痛が走った。

 光夜が脛を抱えてうずくまる。

 花月は足が当たると同時に木刀から手を放してくれたが、そのまま押さえられていたら勢いの付いた力がそのまま自分に跳ね返ってきていた。

 そうなっていたら本当に骨が折れていたかもしれない。


「大丈夫?」

 まだ酷く痛むものの、ようやく光夜が動けるようになると花月が声を掛けてきた。

 なんとか身体を起こしたものの、足の痛みに顔をしかめる。

「ちょっと座ってて」

 花月は道場の隅から小さな箱を持ってきた。

 稽古でケガをしたときの手当のために常に置いてある薬などを入れた箱である。


       二


「足、見せて」

 光夜が裾を持ち上げると脛が腫れ上がっていた。

「今のは悪手だったわね。真剣だったら足が無くなってたわよ」

 花月がそう言いながら慣れた手付きで腫れているところに塗り薬を塗って布を巻いた。

「次、肩」

「え?」

「肩に布を巻くのは自分じゃ難しいでしょ」

 そう言われて初めて脛は花月にやってもらうまでもなく自分で出来たのだと気付いた。

 光夜が片肌を脱ぐと花月が肩の手当を始める。

 この家に来るまで、こんな風に手当てをしてもらった事は無かった。


「はい、おしまい」

 光夜が道着を整えている間に箱を戻しにいった花月が戻ってきた。

「立てる?」

 花月が手を差し出した。


 そういや、こうやって手を貸してくれたのも花月が初めてだったな……。


 立ち上がる時に握った花月の手は温かった。


 翌朝、花月と光夜が西野家に赴くと、屋敷内の様子がいつもと違った。

 一部の家来が殺気立っているようだったが文丸は特に変わった様子はない。


 花月と光夜は何も言わずに文丸と稽古をした後、信之介と共に夷隅の元に向かった。


「あの……」

 文丸の部屋から十分に離れたところで信之介が声を掛けてきた。

 花月と光夜が視線を交わす。

「なんかあったのか?」

「やはり気付いておられたか」

 信之介はそう言って昨日、二人が帰った後のことを話し始めた。

 と言っても大して長くはなくて普段文丸の近くに控えている家臣の一人が食中しょくあたりで亡くなったという事だった。


「なんだよ、食いもんあたっただけかよ」

「御毒見の人でしょ」

「毒見くらい居るって分かってるだろうに毒入れるなんてバカか」

「拙者も知らなかったのですが、内密の毒見役だったのです。なので表向き、その者は若様のお食事は口にしていないことになっています」


 一部の者がいつも以上に警戒していたのは文丸の側にいた者が急死したからだったのだ。

 毒のことを知っているにしろ知らないにしろ、死んだこと自体は耳に入るはずだし、昨日まで元気だった者が突然亡くなったと聞けば不審に思うのは当然である。

 ましてや今は家中が二つに分かれて対立している時なのだ。

 皆、疑心暗鬼になっているのだろう。


「けど、そうなると……」

 毒見役が買収されていたか、毒見の後に毒を入れられたことになる。

 毒見の後なら文丸にかなり近いところにいる者だ。

「若様はご存じありませんので口外無用に願います」

「側に控えてた家来が突然いなくなったことは若様にどう説明したんだ?」

「西野様から国元に書状を届ける役を仰せつかったと。しばらくしてから届けたあと病に倒れたという知らせが来ることになっています」

 信之介の言葉に花月が考え込んだ。


「奥も油断ならないとなると私が奥女中として……」

「ダメです!」

 信之介が物凄い形相で叫んだ。

 花月と光夜が呆気に取られて信之介を見た。

「大名家に行儀見習いの為に奥女中として仕えるのは旗本の娘でも無くはないだろ」

 旗本の娘の行儀見習いなら大奥に行くのではないかとも思うが、ゆかりのある大名家ならおかしくはないだろう。


「奥は妻子が住むところです!」

「だから私が……」

「あっ!」

 信之介の言わんとしてることに気付いた光夜が花月の言葉を遮るように声を上げた。

 信之介は花月に文丸のお手が着くことを心配しているのだ。

 文丸の好みは知らないが、花月は男の姿でも美人なのだ。

 女の格好なりをしたら相当な美女だろう。

 好みでなくてもつい魔が差すと言うことは十分有り得る。


「花月、ここは信之介を信じてやろうぜ!」

「そうです! 拙者が十分気を付けます故!」

「毒のこと知らねぇ花月がいても役に立たねぇよ!」

 光夜と信之介が畳み掛けると、花月は二人の勢いに気圧された表情で思い付きを取り下げた。


 夜、光夜が学問を教わる時間になり花月は自室に引き上げていった。

 居間には光夜と弦之丞、宗祐だけが残った。


「光夜、西野家からの帰りに襲ってきた者は撒菱まきびしを投げてきたと言ったな」

 弦之丞が訊ねてきた。

「はい」

 光夜はもう一度あの時の事を話した。


「やはり伊賀者か」

 話を聞き終えた弦之丞が呟く。

「問題はどちらに付いたかですな」

 宗祐が言った。

「どちらって、俺達を襲ってきたなら若様の敵では……」

「あっさり引いたのであろう。ならば試したのかもしれぬ」

「試した?」

「警告されて大人しく引き下がったり力の差を見せ付けられて屋敷に行くのをめるならそこまでと言う事」

「その後、何か不審な事は」

 宗祐の問いに光夜は、昨日秘密の毒見が死んだらしいと話した。


「確か、屋敷内で襲撃された時、茶を出されたと言ったな」

「はい」

「手は付けてたか?」

「いえ、まだ……」

「では狙いは若様のお命ではなく、毒入りの茶菓子を食べるのを防ごうとしたのかもしれぬな」

「なら味方という事ですか?」

「それはなんとも言えぬ」

「仮に今は味方だったとしても、今後裏切らぬとも限らぬからな」

「十分気を付けるように」

「はい」

 弦之丞と宗祐の言葉に光夜は再度気を引き締めた。


 朝日が差す中を花月と光夜は西野家に向かって歩いていた。


「元服?」

 光夜が聞き返した。

「うん、そろそろ領地からササゲ豆が届く頃だから丁度いいんじゃないかって、お父様が。元服するなら仕度したくるし」

 江戸の武家は赤飯を炊く時、小豆ではなくササゲ豆を使う。

 小豆は長時間煮ると皮が破れやすく、それが切腹に通じると言われて忌避きひされている。


「仕度って月代さかやきるだけだろ」

 大名や大身の武家なら派手なお披露目をするのかもしれないが、居候の内弟子に大袈裟な祝宴はしないだろう。

いみなはあるの? 育ての親はまさきさんから聞いてる?」


 諱とは本名のことである。

 弦之丞なら紘空ひろあき、宗祐なら紘陽ひろたかが諱だが、諱を呼んではいけないとされていた為、官位・官職がある武士は官職名で、それが無い者は通称とか呼び名と言われる名前を使っていた。

 弦之丞、宗祐というのも呼び名、通称である。

 元服までは幼名、元服してからは諱と通称を使うようになる。

 号を名乗った場合は号で呼ばれた。

 例えば柳生宗矩の父、宗厳むねよしは(柳生)石舟斎せきしゅうさいと呼ばれているがこの『石舟斎』は号である。

 諱を呼んでいいのは親や主など目上の者だけだが、親や主でも大抵は通称で呼ぶ。

 通称を使うのは呪詛するのには本名を知る必要があったので知られないようにするためでもあったからだ。


       三


「いや、聞いてねぇ」

「付けたい名前ある? 信綱のぶつなとか高幹たかもととか」

「信綱って……」

「上泉信綱」

「剣聖じゃねぇか! じゃあ、高幹って……」

「塚原卜伝ぼくでん

「恐れ多いだろ!」

「なら宗厳むねよしとか宗矩むねのりとか」

「名前負けすんだろーが!」

「負けないくらい強くなれば良いだけでしょ。宗矩と言えば柳生宗矩じゃなくて菊市宗矩って言われるくらいになろうとか考えないの?」

流石さすがにそんな大それたこたぁ考えねぇよ。も少し謙虚にいこうぜ」

 光夜は呆れながら答えた。


「せっかく自分で諱付けられるのに」

「あんた、自分で付けられるんなら信綱にしてたのかよ」

「まさか」


 だよな……。


三厳みつよしよ」

 花月が真顔で言った。


 そんなに十兵衛好きか!


 三厳とは柳生十兵衛の諱である。


「お父様に女の名前じゃないからって言われちゃって……」


 当たり前だろ……。


 もっとも女は皇族や公家くげに嫁ぐ時以外は諱は付けないが。


「お父様もあんたの諱、考えてはいるらしいけど、私も手伝ってあげられるわよ。武蔵とか景久とか」

「景久?」

「伊東一刀斎」

「剣豪から離れてくれ……」

 光夜はそう言ったが花月は次々と剣豪の名前を挙げていった。


 剣豪って沢山いるんだな……。


 光夜は花月の言葉を半ば呆れながら聞いていた。


「光夜、行くわよ」

 花月が光夜に声を掛けた。

 夜の稽古が終わり、これから湯屋へ行くのだ。

 手には手拭いや桶など湯屋で使うものを持っていた。

 二人は家を出ると近所の湯屋へ向かった。

 空にはわずかに欠けた月が輝いていた。


 人気ひとけの無い道を歩いていると、不意に前方の曲がり角から二人の男が飛び出してきた。

 黒い羽織袴に大小を差している。

 黒い覆面を被っていて顔は分からない。

 同時に花月達の背後からも足音が聞こえてきた。

 やはり羽織袴で覆面をした男が二人、足早に花月達に近付いてくる。

 花月と光夜は荷物を地面に放ると、刀の柄に手を掛けながら互いに背を向けた。

 刀を振るっても邪魔にならないくらいの距離を取る。


 男達は無言で抜刀すると、四人同時に斬り掛かってきた。

 正面の男が花月に刀を振り下ろす。

 花月は一拍遅れて抜刀すると振り下ろされる刀の鎬に、自分の刀のしのぎを敵の鎬に当てて切っ先をらし、振り上げたところで横に払った。

 皮一枚で繋がった敵の頭が後ろに倒れ、切り口から血が噴き出す。

 そのままもう一人の敵を袈裟に斬り下ろした。

 腹を割かれた男が絶叫を上げながら倒れる。


 光夜は振り下ろされた刀をけながら抜刀しざま腹を斬った。

 もう一人の男の懐に踏み込むと腹に刀を突き立てる。


 花月と光夜は息のある者にとどめをすと懐紙かいしを取り出し刀身を丁寧に拭った。


「身に覚えは?」

 花月が訊ねてきた。

「ありすぎて分かんねぇ。もっとも真っ当な武士は仇にねぇはずだけどな。花月は?」

「私も普通の武士の仇は居ないはずだから西野家絡みかもしれないわね」

 花月が首を傾げた。

「あーあ、また刀をぎに出さないとな」

 人を斬ると人の油が付くし刃こぼれもするのでそのままだと斬れなくなってしまう。

 刃こぼれしたら研ぎに出さないと斬れないままだ。

 辻斬りを斬っていた頃は研ぎに出す金などなかったので血が付くと捨てて倒したヤツの刀を代わりに使っていた。

 しかし今は弦之丞から渡された刀を使っている。

 辻斬りが持っているような安物ではないからそう簡単には使い捨てには出来ない。

 と言っても僅かな逡巡が命取りになるので投げ付けるのを躊躇うような名刀でもないが。


 二人は道に放り出した桶などを取り上げると、何事もなかったかのように湯屋に向かって歩き出した。


 花月と光夜が家に戻り、弦之丞に戻ったと報告をすると、

「何があった」

 と訊ねられた。

 風呂に入ってきたが、弦之丞は着物に付いたかすかな返り血の匂いを嗅ぎ付けたらしい。

 花月が事情を話した。


「今回は武士だったのだな」

「はい」

 花月が頷いた。

 そう言えば腕は大した事なかった。

 この前の忍びらしき者と同じ雇い主が二人を本気で殺そうとしたならもっと強い者をこすはずだ。


 となると別口か……。


 翌日、光夜と信之介は屋敷の庭で文丸と共に素振りをしていた。

 花月が指導しているが文丸は明らかに素振りに飽きているらしく、振り方がいい加減になってきている。


「夷隅先生、素振りだけでは腕がなまります。特に村瀬は護衛も兼ねてます故、二人に稽古を付けて頂けませんか?」

 花月が夷隅に申し出た。

「そうだな」

 文丸が飽きているのを見て取った夷隅はすぐに承知した。

「では村瀬から」


 夷隅に指名された信之介が木刀を持って向かいに立った。

 礼をして木刀を青眼に構える。

 隙が全く無い。

 信之介が攻めあぐねていると、不意に夷隅が殺気を発した。

 その瞬間、信之介は前に踏み込みながら木刀を振り上げていた。

 信之介の木刀が振り下ろされる前に夷隅の木刀が胴の前で止まっていた。


 速い!


 若先生と同等か、それ以上だな……。


 信之介に変わって光夜が夷隅の前に立った。

 木刀を青眼に構える。

 光夜も木刀を構えたまま動けずにいた。

 止まったままの光夜に夷隅が殺気を放った。

 信之介はこれで誘われたのだ。


 光夜が動かずにいると、

「若様、ほら、今からで御座います」

 花月の声が聞こえた。


 文丸の方に視線を走らせると、文丸がこちらを向いたところだった。

 花月がさっさとやれと目顔で言っている。

 信之介の時は、いつまでも動かない二人に飽きて別のところに目を向けているうちに勝負が付いてしまったのだろう。

 これは稽古だが文丸の興味をくためでもあるのだ。


 なら、また余所見よそみをしてしまう前に――。

 光夜は一気に踏み込んで小手を放った。

 木刀が弾かれた刹那、額ぎりぎりのところで夷隅の木刀が止まっていた。


 全くかなわねぇ……。


 文丸が感心したように息を漏らした。

 光夜は木刀を降ろすと夷隅に礼をした。


       四


「儂もやりたい!」

 文丸が頬を紅潮させて言った。

「構いませぬが、若様も指示されながらなさるより御自身の意志で打ち合ってみたくはありませぬか?」

 花月が穏やかな声で訊ねた。

「無論じゃ」

「ではどうぞ。光夜、相手を」

「え、花月は指示してくれぬのか?」

「ご自分でなさりたいのでしょう」

「そうじゃが、儂一人では無理じゃ」

「その通りで御座います。村瀬も菊市も何年もの間、毎日稽古をしてようやくここまで来たのです」

「う……」

 花月にさとされた文丸が肩を落とす。


「ですが、素振りだけではまらないのも事実です。素振り百本が終わったら最後の仕上げとして菊市と試合をするというのはいかがでしょう」

「百本!? 花月達は毎日そんなにやっておるのか!?」

「朝の稽古前だけでそれくらいやっております。稽古の後も暇があれば素振りをしています故、一日百本どころではありませぬ」

「そ、そんなにせねばならぬのか」

 文丸の顔が引きった。

「若様は剣士になるわけではありませぬ故、そこまでなさる事はないでしょう」

「そ、そうか」

 文丸は花月の言葉にホッとした表情を浮かべた。

 素振り百本が終わる頃には文丸は肩で息をしていて、一、二度光夜に打ち掛かるのがやっとだった。


 剣術の稽古が終わると文丸は学問を学ぶために部屋に戻った。

 入れ違いに奥女中の一人がやってきた。


「先日、守り袋を落とされたとのことですが、これでしょうか」

 と言って守り袋を差し出した。

「えっ……!?」

 思わず声を上げてしまった光夜は、

「あ、いや、汚れてるし、てっきり捨てられたかと。まねぇな」

 と言い取りつくろって受け取った。


 ホントに屋敷の中で落としてたのか……。


 光夜はそんな事を考えながら守り袋を懐に入れた。


「で、これから俺達はどうすんだ?」

 警護の者達が控えているはずだから花月と光夜は必要ないかもしれないと思って訊ねた。

「まずは夷隅先生を探りましょ」


 あっ、そうか……。


 刺客は腕が立つ人間なのだから当然夷隅も除外出来ねぇし、違うとしても夷隅に稽古を付けてもらっている誰かかも……。


「もしかしたら柳生新陰流からそれほど変わってないかもしれないし」

「そこかよ!」

「夷隅先生に教わるためなら私達が屋敷に残っててもおかしくないでしょ」

 教えをうための口実に聞こえるのは気のせいか?

 光夜は花月に疑いの目を向けた。


「あの、花月さん、光夜殿」

 夷隅の元に向かおうとした二人に信之介が声を掛けてきた。

「拙者もご一緒してよろしいですか?」

 信之介の言葉に光夜は花月を見た。

「いいわよ」

「いいのか?」

「屋敷にいる時に影武者は必要ないでしょ。それより外出中に襲撃を受けるかもしれないんだから腕を上げておいた方が良いと思うわ」

 確かに文丸が学問をしている間、ただ座っているだけでは腕がなまる。

 誰が信用出来るのか分からないのだから自分の身を守れないと命を落とすことになりかねない。

 と言っても夷隅や夷隅並みの者の襲撃を受けたら花月と光夜が一緒でも勝ち目はないだろうが。


 その夜、花月と光夜は弦之丞、宗祐と共に稽古場にいた。

 いつもの夜の稽古である。


「花月、右に刀を。光夜は抜いたままで良い。正面から花月に斬り付けてみなさい」

 刀は右手で抜くものだから左に差しているのだ。

 右側にあると抜きにくいため敵意が無いことを示すときなどえて右に置くことがある。

 振り上げて下ろすという動作をしていては遅いだろう。


 光夜は思い切り踏み込みながら、下ろしていた刃先を持ち上げて片手で突き出した。

 次の瞬間、花月の切っ先が光夜の脇腹の直前で止まっていた。

 光夜の刀は花月の肩の上を通り越している。

 花月は僅かに状態を倒して光夜の刀をけながら右に置いてある刀を左手で抜いてそのまま斬り上げたのだ。


 左で抜いてもこの速さかよ……。


「光夜、左手でもすぐに抜けるようにしておきなさい」

 弦之丞が言った。


 翌朝の朝餉の後、西野家に出向く前の僅かな一時ひととき、光夜は花月に言われて手裏剣術の稽古をしていた。

 木に吊した小さな板に棒手裏剣を投げるのだ。

 一投目は当たるのだが、二投目、三投目となると板が揺れてしまって上手く当たらない。


「あんた、手裏剣術ももう少しなんとかした方がいいわね」

 確かに光夜が花月の掩護のために投擲とうてきしなければならないこともあるだろう。

 そのとき外してしまったり、いわんや花月にぶつけてしまったりしたりした目も当てられない。

「ま、とりあえず、そろそろ西野家に行きましょ」


「百本、終わったぞ」

 文丸が肩で息をしながら言った。

「大分上達されましたね」

「まことか?」

「はい。ですから今日から私がお相手します」

「そうか」

「若様もただ打ち込んでくるだけでは面白くないでしょう」

「う、うむ」

「ですから菊市の手裏剣術の稽古も兼ねさせて頂きます」

「え!?」

 光夜と文丸が同時に声を上げた。


「光夜は私に石を投げなさい。手裏剣術の稽古故、確実に当てるように」

「お待ちください! 若様に石が当たっては……」

 警護の武士が慌てたように言った。

「その通り。若様には当たらないように私だけを狙う事」

「そ、そう言う意味では……」

 青ざめた武士を意に介した様子もなく、

「石を払い落としている隙になら若様の木刀が私に届くやもしれませぬ」

 花月が文丸に言った。

「もし届いたら……」

「無論、明日は素振り無しで御座います」

「まことだな!」

 文丸が花月と夷隅を交互に見ながら確かめる。

 夷隅はあっさりと頷いた。

 光夜の石はともかく、文丸の木刀が届くわけがないと考えているのは明らかだ。


 夷隅の読み通り、文丸の木刀はかすりもしなかった。

 花月が木刀を振るのは石を払い落とす時だけだった。

 石をけるついでに一、二歩動いてるだけにも関わらず、文丸の木刀は全く届かない。

 というか、光夜の石も全てけられるか木刀で振り払われて一つも当たらなかった。

 何度か文丸に当たりそうになってしまったが花月が全て払い落としてくれたのでぶつけずに済んだ。


 やっぱもう少し手裏剣術の稽古が必要だな……。

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