第8話 小太刀

 追捕ついぶの追手を振り払うのに、数日を要した。

 あの母娘の最期の刻に横槍を刺したくはない。

 冬の陽ながら初春を迎え、穏やかな木洩れ陽が差していた。

 この数日でまた新雪が積もっていて、記憶を辿り社を目指して登っていたが、まるで場所が分からなかった。

 そこに少女が現れた。

 漆黒の髪を靡かせて、瞳が悪戯っぽく輝いていた。着ていたのは単衣に細帯だが、まるで丈があってない。襟元から胸の膨らみが直に浮いて見えていた。

「其の方、まさか六花か」と問うと首を縦に振る。表情は童女のままだが、数日で明らかに年齢を重ねた面持ちだ。

 唇が紅葉のように紅い。

 目を奪われんばかりに紅い。

「風花は何処に」

「案内致しまする」と背を向けた尻にも肉が乗っている。

 女として実りつつある。しかも母とは違い、体温の火照りと水桃のような湿りを湛えたその尻に魅了されている。心さえ惑わされんばかりに。

 朽ちた鳥居にも雪の冠で飾られていた。

 結界でも張ってあったのだろう、数度も迷い抜いた雪上の足跡の向こうに見覚えのある本殿が見えた。灌木から音を立てて、ざっと雪が落ちてきた。

 荒ら屋の軋む扉を開けると、むっと死臭がした。

 生き物の肉が腐乱していく臭いが鼻腔を貫いた。拝殿の板間は綺麗に拭われており、血痕は残ってはいない。骨のようなものもない。

 だがそこには三宝が置かれ、生首がそこに据えられていた。

 それがこの臭いの根源だとわかった。

「風花か」

 三宝の上には布が敷かれ、染みてきた血と体液でどす黒くなっていた。蝋のような肌はささくれて、血が血脈に凝固して、黒い網の目をその下でうごめかせていた。

「真に、あはれなり」と口をついて洩れた。

 彼女の黒髪が三宝から垂れていて、そこには生気がまだ保たれていた。震える指先でそっとそれを撫でて持ち上げようとした。

 その瞬間だった。

「待ちましたえ」とその風花の生首がひび割れた唇を開き、かすれた声を発した。それにびくりと仰け反って後退した。

「お、お主、生きておるのか」

「もう永眠につく寸前でございましたが、貴方様にはまだ真名を伝えておりますなんだ。それで無常無念でこの身に成り果てましたが、お待ち申しておりました」

「無念とは」と尋ねながら正面に座った。

 風花は瞼を持ち上げようと挑んでいたが、諦めた。体液によって貼りついているようだ。

「お渡しした白鞘でございます。わらわの全智能を封じ、念じ込めておりまする」

 六花も隣に正座して聞き入るようだ。

「いずれ良きときが参ります。その良きときに白鞘に命じて、その六花めに妾を呼び入れてくださいませ。さすれば全ての能力がその娘に受け継がれます」

「良きときとは何時じゃ、見ればこの娘はもう年頃に近い。教えてくれ、それは何時じゃ」

「さあ幾十の年月が経りますやら。人の身では、良き時まで生き永ら得るのは、とても叶いませぬな。そもそも妾共は長命でしてな。転生なさったときにお使いくだされ」

「転生であるか、輪廻はあるのか」

「いずれ貴方様にもお判りになり申す」と言葉を切った。

 それから厳しい相貌となって、六花に席を外すように促した。

「情のない母と思って下さいますな。今のあの娘に真名を知らせる訳にはいきませぬ。まだまだ未熟。受け止められますまい・・」

「貴方様、近う寄ってくださいませ」

 膝でにじり寄って、その乾いた唇に耳を寄せた。

「この白鞘の真名は・・・夢枕」

 魂魄を込めた真名なのだろう。声に艶やかな響きがあった。そして満足したように、その首は永遠に沈黙した。


 目が醒めた。

 何かの柔らかい荷重を感じていた。そして鼻腔をつく芳香。甘ったるい湿った空気がしっとりと羽毛布団の中にあった。身じろぎをすると、吐息が脇で何事かを呟いた。

 はっと気がついた。

 この柔らかさは女体のもの、この黒髪はと指先で手繰って目線に持ち上げた。この黒髪をかつて持ち上げた記憶が蘇る。

 風花のものか。

 肌が粟立ってがばりと跳ね起きた。

「・・寒いわ。何を寝ぼけているの」

 細い声で六花が小言を挟む。彼女は糸屑すら身につけていない生白い背を丸めた。

「なんで裸なんだ」

「昨日のことも覚えてないの。嫌だわ」とくすくす笑う。

「いや、俺は何もしていない」

「そりゃそうよ、私の白鞘にアテられただけよね」

「あれは何だ。何を仕掛けていた」

 ふふと、微笑して布団の中の足で僕の脛を小突いた。

「あれを持っていると魍魎が見えるのよ。どんなに霊感がなくともね。見えないと魍魎を斬れないでしょう」

 ね、というので再び布団に潜り、並んで羽毛に包まった。ん、と睦言のような声で六花は寝返りをうち、肩に頭を寄せてきた。

「貴方は面妖鬼ですら、本気で斬りにいけなかった。鬼相手に手心を加えていた。それで白鞘を渡したの。あれをそばに置くと、いずれは血闘をしたくなるのよ。そういう毒気があるの」

「ああ、確かにそうだった。嫌な夢も毎晩見たよ」

「嫌な夢?」と怪訝そうに六花はいう。

「侍に追われる夢とかな」

「浮遊霊でも見たのでしょう。そんな無粋な躾はした覚えがないわ。あの凶刃は形のない魍魎さえ斬り結ぶことができるの」

 風花の、と言い掛けた言葉を呑み下した。

 六花はあの白鞘の本来の真名を知らない。

 

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