2. 講義、開講、意志実行

 一度勇気を出して踏み出せば、あらゆることは容易く進行する。最も、それを理解し実行するのは、容易いことでは決してない。


 狭い石造りの部屋で、リトスは目を覚ました。彼の傍らには、心配そうに彼を見守っているアウラがいた。


「あっ……。大丈夫、ですか……?」

「うう、ん…。ここは…」

「あっ、まだ起きないほうが……」


簡素な寝台から起き上がろうとするリトスをアウラが制止する。それでも起き上がろうとしたリトスは、自らの首の痛みに気付き、思わず手を当てる。


「いっ、た……」

「そりゃあ痛いですよ……。直撃だったんですから」


アウラはリトスを再び寝台に寝かせ、首に白い切れ端を貼る。透き通るように爽やかな香りのそれを剥がそうとするリトスの腕を掴んで止める。


「ああっ、剥がさないで!大丈夫。変なものじゃないので」

「……これは?」


「それは俺特製の療布だ。剥がすのはもう少し我慢してくれたまえ。そうすれば痛みが引くからね」


壊れかけている木のドアを開けて、空色の片眼鏡をかけたスクラとセレニウスが入ってくる。


「セレニウス様! それにスクラさんまで!」

「やあ二人とも! 怪我の様子は大丈夫? 特にアウラ。腕の傷は相当深かったよね?」

「心配いりませんセレニウス様。スクラさんが治癒魔術を使ってくれたのでかなり回復できました」


そう言うとアウラは腕の包帯を解いてセレニウスに見せた。そこに獣人によって付けられた深い裂傷は無く、その痕が僅かに残っているだけだった。


「ほら、この通り痕だけです。またすぐに戦えるようになる、はずです……」


そう言う彼女は僅かに震えていた。先ほどの戦いで振るい立てた勇気も、とっくにしぼんで無くなっていた。


「まあなんにせよ、2人とも安静にしていたまえ。精神的な傷というのは時間を掛けて癒していくものだからね。それよりも、だ」


アウラへの言葉も程々に、スクラはリトスの目を見る。


「率直に言う。少年よ。俺の下で生きてみないか?」


彼の言葉に、言われた本人であるリトスではなく、傍にいたセレニウスが驚いた顔をしていた。そんな彼女の顔を、アウラは不思議そうに見つめていた。一方でリトスは、スクラから目を逸らして俯いた。


「い、いきなり何を言っているの!?」

「すみませんセレニウスさん。プロド殿の指示に背いていることはわかっています。でも俺はやっぱり少年を見捨てたくないんです。それに……」


そこまで言いかけて、彼は言葉を止めた。そして再びリトスに向き直ると、改めて問い直す。


「まあともかく少年よ。君はあの戦いで生き延びて、今ここにいる。本来ならば今頃追放されていただろう君が、だ。これはきっと運命だ」


「だから少年よ。君のその運命を、俺に預けてくれないか?」


真剣な眼差しでリトスを見つめるスクラ。それを傍らで見守るセレニウスは、長年の付き合いである彼の真剣さを理解していた。故に、何も言うことはなかった。それでもリトスは俯いたまま、黙り込んでいる。


「……あの、君は、どうしたいんですか?」


この状況に耐えかねて、アウラがリトスに声をかける。突然の言葉に、リトスの視線が僅かに彼女の方を向く。


「……私は、私たちは強制しようとは思いません。でもここで、君の意志を示してほしいんです。ここから去って、他の場所に行くにしても、今の君では生きていけるとは思いません。だから、これが最後になるとしても、君の確かな意志を見せてほしいんです」


そこまで言うと、荒い息が彼女の口から漏れる。どうやら相当無理をして言っていたようだ。ここに残って欲しい、とは一言も言っていなかった彼女だが、その言葉の裏はその感情が溢れんばかりに煮えたぎっていた。


「私も、貴方にはここに残って欲しい。今の貴方を追放するのが不安っていうのもあるけど、何よりも知っておくべきことが山ほどあるの。だから、私たちにできることが全部終わるまでは、せめてここにいてくれないかしら」


先の二人に触発されたのか、セレニウスの口からも同じような言葉が発された。もはやこの空間に、リトスを追放しようと考える者は誰一人としていなかった。それでもリトスは俯いていた。しかし先ほどの暗い顔から打って変わって、彼の意志に明確な何かが現れ始めていた。


「リトスで、いいよ」


そして彼は口を開く。


「……え?」

「呼び方。少年、とかだと何か変だから……」

「ま、まさか……」

「正直僕に何ができるかはわからない。みんなの期待には応えられないかもしれない。でも…、こんな僕にできることが、できるかもしれないことがあるのなら、僕は自分の意志で、ここに残るよ」


路傍の石のように何も言わず、無彩色だった彼はこの瞬間に解き放たれた。そこにいたのは、まだ拙いながらも確かな『意志』を持った1人の人間だった。


「そうか。……少年、いやリトス。俺の我が儘に応えてくれて、ありがとう」

「やった……。やりましたスクラさん! セレニウス様!」


アウラたちは、この状況に喜びを隠せないでいた。そんな彼女らを見ていたリトスの表情は、心なしか希望を湛えているようだった。


「……まあ、早速始めようと言いたいところなんだが、今日はもう遅いからな。それに忘れそうになっていたが君は一応怪我人だ。今日のところはもう寝るといい。アウラも、もう休みたまえ」

「……うん。じゃあ明日から色々よろしくね。スクラさん」


リトスはそれだけ言うと、起こしていた上体をゆっくりと倒す。それを見届けたアウラたちは、開いたままのドアから出ていったのだった。


 自身の寝床に戻るアウラを見届けたセレニウスとスクラは、彼らが先ほどまでいた石造の建物の2階にある少し広い部屋にいた。そこは4脚の椅子と雑多な物品が雑に置かれている部屋だった。そんな部屋に彼ら以外の姿はなく、そしてここに他の誰かが入ってくることはない。


「それにしても、スクラがあんなに必死になるなんて。あんなスクラを見たのは随分久しぶりだったな。確か前は……」

「セレニウスさん、そのことはもういいじゃないですか。あの頃は俺も必死だったんです。若かったんですよ。俺も、貴女も。……あの人も」

「ふーん……。あ、そうだ」


もう帰って来ない過去を振り返るスクラに、不意にあることを思い出したセレニウスが何かを尋ねようとする。


「どうかしましたか?」

「そういえばさっき何か言いかけたじゃない。何を言おうとしたの?」

「さっき? 言いかけた? 一体何のことです?」

「『プロド殿の指示に背いていることはわかっています。でも俺はやっぱり少年を見捨てたくないんです。それに……』だったっけ? それに、の後よ」

「何で一言一句違わず覚えているんですか…。ああ、そのことですね。まあそれについてはあの場では言う必要が無かったことですからね。……というか、セレニウスさんも気付いているんじゃないですか?」

「まあ……、そうとしか考えられないからね」


セレニウスは部屋の隅に置かれている、傷だらけの盾を見る。そこには小さな無数の傷と、大きな4本の傷があった。


「……キュクロス製の盾でも、あの爪の前ではこの通りだからね。防具もない生身で無傷っていうのは、普通じゃあり得ない。普通じゃ、ね」

「セレニウスさんがリトスを引き留めた理由もそれなんじゃないですか?」

「まあそういうこと。何も知らない彼が利用されるのを防がなきゃ」


セレニウスの右腕が何かを担ぐように動くが、すぐに何もないことに気付き腕を元の位置に戻した。


「……まだ慣れてないんですか? 3ヶ月は経ってますよ。」

「そりゃあね……。何年も使っていたから、それぐらいじゃ慣れないよ……」


セレニウスは寂しげな右腕が、部屋の隅に立てかけてある石材に触れる。


「しばらくは柱でも持って戦おうかな……」

「ダメですよ……。こういう資材は消耗品以上に貴重なんですから」


だよねぇ……、と呟いたセレニウスは、部屋の片隅の椅子に腰かける。スクラも同様に、空いた椅子に腰かけた。彼らが座ったそれら以外の空いた2脚は埃をかぶっていた。永きに渡って座る者がいないその椅子は、隙間から微かに差し込む月光を浴びていた。そして、長い夜が明ける。


 日が昇り始め街が紅い光に包まれた頃、既に目を覚ましていたリトスは、昨晩いた部屋とは別の場所に呼ばれていた。彼が扉を開けると、そこは簡素な石造りの部屋であることに変わりはないのだが寝台は無く、代わりに椅子が置かれていた。そして椅子の正面の壁に、もう1つの椅子に座るスクラがいた。彼の手には、彼の身長ほどの陶器の棒が握られており、その先端には親指ほどの大きさの水晶がはめ込まれていた。更に彼の座る椅子の横に、彼の持つ物よりも少し短い杖や小さい壺、円盾などが置いてあった。入ってきたリトスに気付くと、彼は椅子から立ち上がった。


「こんなにも早い時間によく来てくれたな。さあ座りたまえ。講義を始めるぞ」


言われるがまま、リトスは中央の椅子に座った。


「さて、講義を始めるとは言ったがその前に確認しておきたいことがある。」

「……何?」

「リトス。君は魔術についてどれほど理解しているのかな?」


姿勢よく座るリトスに、スクラは尋ねた。しかしそれにリトスが答えることはなかった。いや、正確に言えばできなかった。未知の何かに触れたように、不思議そうな顔をして彼は首を傾げた。その様子を見たスクラは、リトスに与えるべき物事を瞬時に定めた。


「……まあ、そういうことだろうと思ったよ。じゃあまずは、基礎の基礎から教えてやる。少し長くなるがちゃんと聞くように」


スクラはそう言うと、手にしていた水晶の付いた杖の先端を、何かを書くように空に滑らせた。するとその軌跡に蒼白い光が集まり、その場所に留まった。そして浮かび上がった蒼光の軌跡は、規則的な文字列のようであった。そして彼が杖を地面に突き立てると、ぼんやりとしていた文字列がはっきりとした姿となった。そこには『魔術講座』と題されており、更にその右下には小さな字で『入門編』と付け加えられていた。


「まずは魔術について基本的なことを知っておいてもらう。魔術というのは、まあさっきやった通りこういうことができる。大気中に満ちた『天素』を使って起こす小規模な現象のことだ。天素について説明すると……、まあ今は詳しいことは知らなくても良い。取り敢えず『そういうものがある』と思ってくれればいいだろう」


そこまで言ったところで、先ほどの軌跡の文字列が虚空に溶けて消えた。しかしスクラが杖を床に突き立てると、蒼光、天素が再び集合し、先ほどと同じ文字列を構成した。


「詳細について知りたければ、後日追加で教えてやる。何なら俺の本を貸してやるからそれで学ぶといい。予め必要な箇所も教えておく。……ここまではわかったか?」

「……まあ、どうにかわかったよ」

「よろしい。それでは次に行ってみよう」


リトスは適当な返事をする。スクラは小さく頷き、彼の横に立てかけていた杖を手に取る。


「魔術の行使にはこういった杖を使う。先端に付いているのは、見ればわかるだろうが水晶だ。そして本体。これは粘土を練って作った。要するに陶器だ」

「……ねえ、聞いてもいい?」

「おっ、質問か? 何でも聞いてくれたまえ。」


何かを尋ねようとするリトスに、スクラは少し声色を変えて答える。初めてされた質問に、教師らしいことができそうな彼は少し嬉しそうであった。


「どうして陶器? ……壊れやすいんじゃないの?」


何の他意も無いリトスの質問に、スクラはニヤリと笑う。


「良い質問だ。確かに陶器は壊れやすい。だがこれにはちゃんとした理由があるんだ」


彼はそう言うと、色々と置かれた物の中から小さな壺を取った。


「見ていろ。答えは、こうだ! オラァ!!」


そう言ってスクラは壺を思い切り床に叩きつけた。これにはぼんやりとした顔のリトスでさえ目を見開いた。しかし壺が割れることはなく、代わりにそこにあったのは傷一つない壺と、少しヒビの入った床だった。壺を拾い上げると、スクラは話を続ける。


「見てのとおりの頑丈さだ。これには特殊な加工法があってな、杖にはこれと同じような加工がしてある。まあ加工といっても単純なことだ」


そう言うとスクラは懐から蒼い粉の入った小瓶を取り出した。その色は、空に浮かぶ文字列と同じ色をしていた。


「……それ、天素?」

「その通り。これは天素の粉末だ。これを形成段階で粘土に混ぜ込むと、強度が上がる。更に言えばこれが芯となることで、天素の制御がしやすくなる。というわけで、陶器の杖というのは実戦使用において最も理に適っているということだ」


そこまで言った彼は、小瓶を懐にしまう。


「まあこれには他にも様々な使い方があるが……。今は言うべき時ではないからね。これはまた次の機会にとっておこう。さあ、講義を続けるぞ」


彼らは知る由もないが、街を紅い光で照らしていた太陽は既に昇り、青い空の下では人々が変わらない営みを繰り広げていた。そこから切り離されたように、たった2人の講義は続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る