オブリヴィジョン

@engage46

1. 捨石、閉心、意志開花

 ここは吹き溜まりだ。誰かが勝手に不必要として、棄てられ忘れ去られたモノで溢れている。棄てた者たちは、やがてそれを忘れていくだろう。しかし、棄てられたモノたちは、それを永遠に忘れず、抱えていくのだろう。


 誰もいない何処かの劇場で、一人の青年が舞台に立っている。


「在らざるもの。それはどのようなものでしょうか」


「猫の立てる足音? 岩が張る根? 更に更に骨の心臓? ええ。ええ。確かにそれらは存在しない。かつてはあったかもしれないが、今はどこにも無い」


「あったとしても、確たる証拠はどこにも無い。では、ではでは記憶はどうでしょう? 親に褒められた! 恋人と愛を育んだ! 幸福を得た! 或いは……、憎い誰かを害した! それらは貴方に、染みついて離れない! 結果がそれを、示している! ……ように見えるだけ。過去など誰にも証明できない。太古は、実はついさっきかもしれない。その逆も然り!」


「確たる証拠が揃っていようとも、記憶の絶対性を証明することは出来ないのです! 更に、更に更に更に! 記憶とは脆弱なものです。いつの間にか何処かに流れてしまう。いつも歩く道に落ちている石、昨日吹いた風の感覚、夜空の星屑の瞬き。貴方はそれを、覚えているでしょうか?」


「消えた記憶に裏付けられたそれが事実であろうとも! 最早それは在らざるものではないか!」


「捨て石が! そよ風が! 今日も忘れられ吹き溜まりへ流れ着くのです! ……今宵はここまで。どうぞ、帰りは路傍の石に躓かぬようお気をつけて……」


それを最後に、青年は舞台の上から姿を消した。


 石造りの薄暗い牢の中。粗末な布の服を着た少年が横たわっている。年齢は17歳ほどだろうか。しかしその歳に見合わないほどに彼の腕は細く痩せていた。そんな彼の手からは、浅葱色の石の破片がこぼれていた。


「少年、出るんだ。ついて来たまえ」


薄い空色のレンズの片眼鏡を付けた背の高い男が声をかけて、牢の鍵を解錠する。すると少年は力なく立ち上がり、よろよろと扉へと向かっていった。男は灰色の双眸で少年を見つめている。そこに浮かぶのは少年に対する哀れみか、或いは侮蔑か。それを知るのは彼のみであった。


 少年が入っていた牢と同じように、薄暗い石造りの廊下を男と少年が並んで歩いている。男の手には火のついた陶器の棒が握られており、それがこの薄暗い廊下を仄かに照らしていた。少年の歩みは重く、不確かに。まるでそれに付随する意識が希薄であるかのように。一方で男の歩みはこれまた重く、しかし確かな意思が付随したしっかりとした歩みで、少年に合わせて歩いていた。


「……なあ少年よ」


足音と炎の燃える音だけが響く廊下に、新たな音が響いた。その音は、その声は男の横を歩く少年に向けて発せられたものであることは言うまでもない。


「君は怖くないのか? このままだと十中八九……」

「……どうでもいい」


僅かな心配を孕んだ男の言葉を、少年の弱々しくも、異常なまでに信念の籠った一言が遮る。その力のない立ち姿から発せられたとは到底思えないその一言に、男は僅かに浮かべていた心配の表情が、一転してある種の諦めのような表情に変わった。


「……まあどうでもいいならそれでいいさ。俺も君のことが心底どうでもよくなってきた」

「……」


呆れたような男の言葉に返答はない。それはただ空しく虚空に溶けていくだけだった。


 これは少し前のこと。荒廃した街にて、一人の少年が保護された。薄汚れてはいるものの、目立った外傷はない。彼は保護されたのちに、この街の被害が少ない一画に連れてこられた。


「どうでもいい」


その言葉通りに至極どうでもよさそうに、少年は差し出されたパンと干し葡萄を突っぱねた。少年が保護されて3日経った日のことである。


「……またか。これで何度目だ?」

「もう見てられないよ……。日に日に痩せていくし」


この3日間、少年は水以外の一切を口にしていなかった。唯一口にしたその水でさえ、一般的な人が1日に摂取する量と比べれば、圧倒的に少なかった。更に言うのであれば、その水は彼が自らの意志で飲んだのではなく、彼を発見した男の手によって飲まされたものであった。彼の言動もまた妙なものだった。彼に素性を聞いても、何も答えないか「どうでもいい」と繰り返す。そしてずっと、彼にあてがわれた部屋代わりである牢の中で横たわっているだけだった。最初は彼のことを心配していた者たちも、一人、また一人と離れていき、遂には発見者の男だけとなっていた。少年が唯一発していた「どうでもいい」は皮肉にも、彼自身に返ってきていた。彼は何処かで捨てられた結果気をおかしくした、彼は何かをして精神を壊してしまった、などのあらぬ噂が広がった結果、いつしか男と一部の者以外の者は少年のことを、『捨てイシのリトス』と呼ぶようになっていた。


「例の少年、いつまでここに置いておくつもりかな?」


少年が保護されてから1ヶ月が過ぎた頃、この街の司政者の口から出た言葉は、事実上の追放令とも言えるものであった。


「しかしプロド殿!彼をここに置いておくことに、何の問題も無いはずです!どうして今更……」

「何の問題もないって君ねぇ……。彼が毎日微量とはいえ摂取している水だって、我らの貴重な資源じゃないか。ごく僅かとはいえ、無駄になっていることには変わりないんだよ?」


言葉を詰まらせた男に、司政者プロドは更に言葉を続ける。


「そもそもどうして君はあの子供を気に掛けるのかな? 君のしていることはこの街の損失に繋がっているんだよ。それとも、君も追放されたいのかなスクラ君」


詰るようなプロドの言葉に、スクラと呼ばれた男は何も返すことができなかった。


 追想を巡らせた後に、スクラは苦虫を噛み潰したような顔で俯いた。1ヶ月もの間、彼にとっては短い間であったとはいえ、ここまで人のことを気に掛けたのは随分と久しぶりなものであった。それ故に、司政者からの命令とはいえこの少年を何があるとも知れない街の外に追放するのは気が進まなかった。彼は今後生きていけるのだろうか。自分がいないとすぐにでも死んでしまうのではないか。口では呆れた言葉を発していた彼も、その頭の中では少年への心配が渦を巻いていた。そんなスクラとリトスは、薄暗い廊下の先に見える仄明るい場所へと足を進める。


 そこは白い空間だった。先ほどまでの薄暗く重苦しい雰囲気であった廊下から打って変わって、多少の崩壊の兆しを見せながらも荘厳さを残す、そんな空間だった。そしてそんな空間の中央には、腰に細身の刀を帯びた一人の女が立っていた。いつの間にか火が消えていた陶器の棒を手に提げ、スクラが女のもとに歩み寄る。その足取りは、廊下の時のそれ以上に重かった。


「セレニウスさん。例の少年を連れてきました。……お願いします」

「ええ」


女が短く返事をすると、スクラは一礼して先ほどの入り口の反対側、外への出口へと進んでいった。しかしその歩みは途中で止まり、彼は後ろを向いた。しかしそれも刹那のこと。すぐに向き直ると、先ほどよりも少し速度を速めて出ていった。振り返った時、彼の表情は落胆の色を浮かべていた。


 出ていくスクラの方からリトスの方に向き直った女、セレニウスはリトスへと鋭い視線を向ける。


「さて……。スクラから聞いているかどうかは知らないけど、貴方にはここから出ていってもらうわ。理由はまあ、知っても仕方ないだろうから言わないでおく」

「せめて生きてここから出てもらうために、私が街の外まで連れていく。でもそこまで。そこからは貴方1人で行くの」

「いい?貴方がここまで生きてこられたのは幸運といってもいい。ここにいるほとんどが貴方のことを『捨てイシ』なんて呼んでいるの。だからみんな貴方のことなんて気にも留めていなかった。でもスクラを含めた何人かは貴方のことを本気で心配していた。『もし彼が生きる意思を見せたら私たちの預かりでいいから置いてやってほしい』なんて言うくらいには貴方のことを心配していたのよ。でも貴方は彼らの思いを踏みにじってしまった」

「スクラの様子を見ればわかるわよ。本気で残念がっていた。恐らく他もそうでしょうね。こちらからの善意も踏みにじったからこそ、貴方には出ていってもらう。そもそも、生きる意思が無い子に構っている余裕なんて、本当は無いんだけどね……」


ここまで話し、セレニウスは大きくため息をついた。鋭かったその目つきは、いつの間にか哀れみと諦めの色に染まっていた。


「まあ、おしゃべりもここまでね。さあ行くわよ。ついて来なさい」


彼女は出口の方に向き直り、出口に向かって歩き出す。それに続いて、リトスも出口へ進んでいった。


 セレニウスとリトスは夕暮れの街を進んでいた。空は鮮やかな紅色と紫色の混ざったような色をしており、それは見る者を惹きつけるほどの美しさであった。しかし、ここにはそれに目を向ける者は誰一人としていない。更に妙なことに、セレニウスたちが出てきた建物以外は、そのほとんどが半壊していた。それらをどうにか補修しようとする人々、何か大きな怪我を負った人々と、それを看護する人々。そこにあったそれら全ては、本来あるべき人の営みから遥かにかけ離れていた。


「ああ、痛い……苦しい……」

「待っていろ! すぐ手当てするから! それまでどうにか……!」


ふと、誰かの声が2人の耳に入った。それはリトスにとっては知らない誰かの異質な営みである。しかしセレニウスにとってそれは、少し前から繰り返され『普通』になりつつある営みであった。リトスは表情を変えず、セレニウスは悔いるような表情で街を進む。


 ゆっくりと歩みを進めていた二人は、この街を囲う壁、そこにある小型の門の前へとたどり着いた。それはつまり、リトスの追放の時が目前に迫っているということを示していた。紅色と紫色に彩られていた空も、この頃には紺色一色となっており、空には異常に大きな月が浮かんでいた。その月に大きく雲がかかり、地上に届くはずの月光を遮っていた。


「取りあえず、無いだろうけど言いたいことがあれば聞くよ?」


セレニウスがリトスに言葉を投げかける。


「……どうでもいい」

「また……。結局、最後までそれなのね」


最後まで調子の変わらないリトスの言葉に呆れたような溜め息をついて門に手を当てた。そして彼女が力を込めて門を押すと、ギギギと重い音を立てて開かれようとしていた。この門が完全に開かれた瞬間から、リトスは1人となる。そのことを理解してか否か、彼の表情が少し曇った。それと同じように、セレニウスの表情もまた曇っていた。それは門の重さによるものではなく、他の何かによるものであった。


「き、緊急! セレニウス様、緊急報告です!」


門が半分ほど開きかけた時、それは突然舞い込んできた。セレニウスは即座に門から手を放し、声が聞こえた方向に振り向く。


「……どうかした?」


曇りはいつの間にか晴れており、代わりに巨大な月が世界を淡く照らしていた。セレニウスの眼前にいる男は、額の汗を払うと、言葉を続ける。


「北東から敵襲です! 奴ら、壁を壊して入ろうとしています!」

「……! 一斉伝令を。戦闘要員は直ちに北東に向かって。あと簡易的でいいから補修の準備もさせておいて。少ししたら私も現場に向かう。さあ、行って!」


セレニウスが冷静に指示を出すと、男は何処かへと走っていった。それを見届けると、彼女は腰のベルトに留めてあったナイフを1本抜くと、リトスに手渡す。


「貴方はここで待っていて。ほら」


セレニウスはリトスの後方を指さす。そこには多少粗末ながらも、壊れていない家屋があった。


「もし何かあったらあそこに隠れて。すぐに戻るから」


早口にそれだけ言うと、彼女は走っていった。彼女の姿が見えなくなったころ、それは突然に響いた。


『敵襲! 敵襲!!戦える者は直ちに北東の門へ!! 戦えない者はすぐに何処かに身を隠せ!』


突如として声が、街中に響いた。それが響いた瞬間に、街を巡っていた異質な日常は、正常な非日常に塗り替えられた。喧騒はどよめきと焦るような声が幾重にも折り重なった騒音に変わった。武装した者たちが同じ方向へ走り、怪我を負った者が誰かの手を借りながら何処かに向かっていく。そして気づけば騒音は静寂に変わり、街から人の姿はすっかり消えていた。ただ1人を除いては。


「…………」


この状況においても、リトスはその場から動こうとしない。セレニウスから渡されたナイフを握りしめたまま動かない彼は、まさしく路傍の石であった。


 北東門の前には張り詰めた雰囲気が漂っていた。そこには数十人の人だかりがあり、その全てが武器を構えている。そして彼らの目の前には、ミシミシと音を立てる木製の大門があった。異音が立つたびに、武器を握る手に力が入る。彼らの持つ剣が小刻みに震え、彼らの羽織る外套が微かに揺れ、僅かに布の擦れるような音が聞こえる。


「来るぞ。気を引き締めろ」


先頭に立つ屈強な男の低い声は、この静寂において全員に声を届けるには十分であった。そして彼の声が聞こえた直後、門からバキバキという音が立ち、門を構成する木材の一つがへし折れ、地面に落ちた。それを皮切りに、門の木材が次々に壊れていき、そして最終的に門を抑え込んでいたかんぬきが、重い音を立てて少しずつ折れたのであった。そして門が強引に破られ、襲撃者たちの姿が露わになった。


「襲撃だ! 迎え撃て!!」


男の号令と同時に、襲撃者の1体が走ってきた。その速度は常人離れしており、誰も横を通り過ぎるそれに反応はできても、対応できずにいた。それは先頭で号令をかけていた男の横を通り過ぎ、集団の後方にいた少女に狙いを定めている。皆が激しい戦闘を警戒しており、それは彼女も同様であった。しかし彼女は動けずにいた。この状況においては愚かと言えることであるが、それと同時に仕方のないことであった。

彼女はこれが初陣である。今までに積んだ訓練は確かなものであったし、同期たちの中でも上位の実力を持っていた。しかし彼女は同時に臆病であった。今までは同期たちが、教導者が相手であったため戦えていた。しかし彼女の過去の記憶、何者かに無残に引き裂かれ、食いちぎられた母を見た時の記憶が、その襲撃者を目にしたと同時に強烈に浮かび上がった。それの持つ鉤爪が、覗く鋭い牙が、それらを持つ獰猛な狼のような姿の獣人が、かつて彼女の母を裂いたそれであると理解するにはそう時間はかからなかった。そしてその爪は、彼女をあの時と同様にしようとしていた。そしてその屈強な腕が、彼女の首筋に狙いを定めた。

しかしそれが、何かを裂くことはなかった。何者かにより彼女は後方に投げ飛ばされ、そして先ほどまで彼女が立っていた場所から放たれた剣閃が、獣人の腕を斬り飛ばした。それに獣人が気付く前に、刃が翻り、その首を容易く切り落とす。


「無事? さあ立って」

「セ、セレニウス様……。私、私……」

「大丈夫。訓練通りにやればどうにかなるから」

「わ、わかりました…。私、やってみます…」


すっかり腰が抜けていた女の手を取り立ち上がらせると、セレニウスは刀を左手で構えた。


「怯むな! 相手はただの獣だ! かかれ!!」


セレニウスの号令と共に、戦士たちは突撃体勢に入った。それと同時に、獣人たちも一気に攻勢に入った。微かな月光が降るこの都市で、獣と人の戦いが始まった。


 鋭く硬い鉤爪と、鋼鉄の剣がぶつかる鈍い音があちこちで響く。ある者は渾身の力で獣人の爪を振り払い、空いた胴に剣の一撃を叩きこむ。またある者は組み付いてきた獣人の胸部を思い切り蹴り飛ばし、少し距離ができたところを、槍で貫いた。こうして数十人の戦士たちは、彼らの倍以上の物量で攻めてくる獣人たちを次々に倒していった。それはまた、彼女も同様であった。


「やああああっ!!」


細身の剣とその小柄な体躯から放たれる、流れるような剣閃が、獣人たちを正確に捉え、無力化していった。剣に付いた獣の血を払う彼女の表情は未だ怯えを払いきれずにいたが、それでもその体は動かせていた。


「言ったでしょ?訓練通りにやればどうにかなるって」

「はい……。でも私、まだ少し怖いです……」

「初陣はそんなものよ。そのうち慣れるわ」


かなり仕留めたのだろう。血で真っ赤に染まった刀を提げたセレニウスが少女に声をかけた。


「それにしても何か妙ね……」


血を振り払ったセレニウスが、ポツリと呟いた。


「妙、ですか?」

「奴らはいつもなら全部の門を狙ってくるものなの。でも今回は北東だけ」

「まさかこれは、陽動ということですか?だとすると他の門が!」

「大丈夫。そういうことも予想して他の門は補強してあるから。私が全力で押さないと開かないように……」


と、そこまで言いかけた時、何かに気付いたようにハッとして、その直後にセレニウスの顔が青ざめた。


「……セレニウスさん?」

「……ちょっとまずいかもしれない。…ここは任せた! 一時離脱する!」


彼女はそれだけ言うと、物凄い速さで東へ走っていった。


「ちょっと! どこに行くんですか!? …すみません私も離脱します!」


驚いた声色で叫んだ少女も、かなりの速さでセレニウスに続いた。


「え!? お、おいアウラ! お前までどこに行くんだ!?」


近くにいた男が驚いたように叫ぶ。そんな彼の声は、戦いの喧騒に溶けて消えていった。


 東に向かって走るセレニウスに、少女、アウラが追いつく。高速で走る彼女らは、纏っている外套も相まって、まるで黒い風のようだった。


「セレニウスさん! まずいって、どういうことなんですか!?」

「アウラ…。まあいいか。結論を言うと東門が開きっぱなしになっているの」


並走しながらも必死そうなアウラに対して、セレニウスは余裕そうに返事をする。


「開きっぱなしって、まずいじゃ、ないですか!」

「ええ。しかもそれだけじゃないわ。…その門の近くに戦えない子がいる」

「戦えないって……、みんな隠れているはずじゃ……」

「……そうだったらいいんだけどね」


言葉を交わす2人の前に、開いている扉と二つの人影が見えた。そのうち一方は地面に両膝を付いており、俯いていた。対してもう一方は、獲物でも見るかのようにそれを見下ろしていた。俯いている少年を目にしたセレニウスの表情が変わる。


「…もしかして、あれですか?」

「ああ……、やっぱりダメだったか……」


そんな二人をよそに、もう一方である獣人は、腕を振りかぶった。それが振り下ろされれば、俯く少年の、リトスの首は即座に地面に落ちるだろう。


「あっ……。……ダメ!」

「アウラ! よしなさい!」


セレニウスの制止よりも僅かに早く、アウラが少年に駆け寄る。そしてリトスの前に立つと、彼を後ろに突き飛ばした。そして次の瞬間には、アウラの腕には深い傷が付いていた。


「……!」

「ぐ、うぅ……」


膝から崩れ落ちたアウラは、腕を抑えてうずくまる。不機嫌そうにグルルと低く唸った獣人は、邪魔を排除するとばかりにアウラに狙いを定めた。突き飛ばされた少年はその光景を見ていた。しかし今までと違い、その眼には明確な何かが宿っていた。今までのようにこれをどうでもいいと切り捨てれば、目の前でアウラは彼女の母と同じようになってしまうだろう。

しかしこの瞬間、リトスの中で何かが変わった。否、正確には変わってはいなかったのだろう。『どうでもいい自分』が死ぬことで、目の前の誰かを救うことができるならば。そう思った彼の目には、明確な決意が宿っていた。リトスは立ち上がり、力なく駆け出す。そしてその腕が振り下ろされる寸前に、獣人の前に立ちふさがった。急に目の前に現れたリトスにアウラは驚愕し、それを見ていたセレニウスは、自身が駆け寄ることも忘れて呆然と見ていた。獣人はそれに構わず、リトスの首を狙って腕を振り下ろす。セレニウスは刀を構え、二人を守るべく駆け寄った。しかしそれと同時に、鋭い鉤爪がリトスの首を刎ね飛ばす、かに見えた。


 それはこの場にいた誰もが想像もしていなかったことであった。何か硬いもの同士がぶつかり合うような鈍い音がしたかと思えば、そこにはリトスの首で止まっている獣人の腕と、傷一つない彼の姿があった。アウラは信じられないものでも見るような目でリトスを見つめており、セレニウスは大いに驚きながらも疾走を止めることなく、次の瞬間には獣人の首を切り落としていた。倒れた首のない死体に見向きもせず、セレニウスは2人に駆け寄った。


「2人とも大丈夫!?」

「わ、私は無事です……。それよりも、この人のことを……」


アウラは自身の血で塗れた手で、目の前で立つリトスを指さす。


「ねえ、大丈、夫……」


セレニウスはリトスの顔を覗き込み、何かに気付いたような顔をした。


「セレニウス様……?」

「……この子、立ったまま気絶してるわ」


白目を剥いて立ち尽くすリトスをおぶって、アウラを立たせたセレニウスは、そのまま2人を連れて、中央の建物へ向かうのであった。

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