シュレディンガーのヤンデレ

空殻

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 10月にもなると、夜7時には日が落ちて真っ暗だ。

 社会人一年目、定時を少し過ぎて会社を出た僕は、一時間ぐらいかけてアパートに戻ってきた。白色の薄暗い電灯がチカチカと少し瞬く通路を抜けて、2階の突き当りにある、自分の部屋のドアの前に立つ。

 鍵穴に鍵を差し込み、回す。ロックの解ける感触と共に、普通に回った。安堵する気持ち九分九厘、しかし残り一厘は落胆。

 今日も何事もない一日だった。このままドアを開ければきっと、今朝出た時と変わらない部屋が待っている。当たり前のことだ。

 ただ、僕は心のどこかで、当たり前でない結末を待っている。僕の妄想は、異常な出会いを願っているのだ。

 さらに詳細に言えば、『家に帰ったらヤンデレの女の子が上がり込んでいる』、そんなシチュエーションを求めているのだ。


『ヤンデレ』。僕の定義で言えばそれは、特定個人への執着と独占欲が強い、精神のバランスを欠いた女の子。時に好意を向けた相手を束縛し、時にそれ以外の他者を排斥しようとする、攻撃性の高い女の子。

 漫画やアニメで描かれるそんな属性を持ったキャラクターが、僕は好きだ。


 何故と聞かれても、趣味嗜好の問題だから、簡単には答えられない。少なくとも、二次元で描かれるそれらのキャラクターは外見がとても可愛らしく、そういった魅力的な外見が前提条件になってはいるのだろう。それでも、見た目以外で、確かに彼女らの内面性に僕は惹かれるのだ。

 使い古された一般論だが、人は、自分が持たないものを持つ存在に、好意を抱くという。その理論が当てはまるとしたら、僕はヤンデレの、その誰かに対する執着に、関心を抱いているのかもしれない。その執着心は、間違いなく僕に足りないものだから。人間関係にそれほど熱を持って取り組んだことが無い僕は、彼女たちのその刃物のような恋愛感情と行動を、無意識に羨ましく思うのかもしれない。

 刃物と言えば、ヤンデレのキャラクターはよく刃物と一緒に描かれる。包丁だったり、ナイフだったり、鉈だったり。僕は流血は苦手なので、刃物とセットであることは必須だとは思っていない。可愛い女の子ではあって欲しいけれど、それ以外の外見的特徴は求めない。やはり、内面的な特徴にこそ、ヤンデレの魅力はあると思うのだ。

 とは言え、実際にヤンデレの女の子と遭遇する可能性があるかというと、それは皆無と言っていいだろう。親密な人間関係を構築していない僕に、そこまで執着を抱くような人物はいないだろうから。そもそも、誰かが熱烈な好意を持ってくれるという仮定自体が、とても都合がよい話で、ともすれば傲慢だとすら思う。


 そんなくだらない思考をぐるぐるとさせながら、僕はドアノブを握る。ドアを開ければ、そこにヤンデレがいないことは確定するはずだ。逆に言えば、開けるまでは確定しないという事象の不確定さに縋って、僕の非日常への願いは成立していた。でも、それは半生半死の猫と同じく、どこまでも仮想的な願いに過ぎない。

 ドアを開ける。果たして、そこは真っ暗な玄関。僕は靴を脱いで廊下を抜け、ワンルームの明かりを点けた。

 

 部屋の中には誰もいない。今朝出た時と同じ光景。

 いや、違う。部屋の隅に、見慣れないカバンが一つと、畳まれた上着。どちらも女性向け、僕のものでは絶対にない。


「おかえり、待ってたよ」


 背後から甘い声が聞こえた。

 僕はどうやら、非日常の方を引き当てたらしい。

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