みなしご少女と幼き不死鳥
最上 虎々
燃える心臓
2005年、某日。
所はイギリス連邦、イングランドは霧の街ロンドン。
「オラ!立て!早くメシ買って来い!」
「アタシの酒もよろしく。いつものやつね~。あ、無駄遣いしたら殺すから」
「は、はい……へ、へへへ」
「ハッキリ言え!返事は『はい』、それだけだ!」
「はいっ!」
「うるさいねぇ~。早く行ってきてよ」
10歳の少女エレナ=オズボーンは、今日も母親に背中を蹴られて家を出る。
学校に通う事も無く、頼まれたものさえも満足に買えないであろう僅かなコインを握りしめ、ロンドンの街を歩くエレナ。
しかし、この街でエレナに手を貸す者はいない。
……例の両親が狂った二人組というのは有名な話である。
「旧市街のオズボーン家には近付くな」、ロンドンでは当たり前に聞く話だ。
何でも禁術に手を出しているとか、儀式の生贄とするためにドブネズミを捕まえているのだとか。
道が怖い。
人が怖い。
車の音が、店先の光が。
喋り声が、足音が。
その全てが怖い。
常に幻を見ているように虚ろな目で下を向きながら、自分の命が崩れ落ちていく音を挿入曲に足を前へ出す。
彼女はもはや、死を望むことさえもやめてしまっていた。
数十分後。
エレナは一人、小さな食パンを抱えて家へ戻る。
「ア?これがメシだぁ!?ふざけんじゃねぇ!」
しかし、家に戻るなり父親はパンを床に放り投げ、エレナの首元を掴んで壁に身体を叩きつけた。
「がはっ……」
「エ~レ~ナ~。お酒買ってきてって言ったじゃ~ん。右腕に切り傷一つ追加ね~」
父親の腕から解き放たれたエレナの側に、すぐさま包丁を持った母親が迫る。
「や、やめて……」
「いいじゃ~ん。いつもの事だしぃ~。それにぃ~。新しい模様ができてカッコいいでしょ~?」
「い、嫌……」
「アァ~……!?いいから腕出せって言ってんだよォッッ!」
そして、生傷と傷跡だらけの右手首に、まるで当然であるかのように突き立てられる包丁。
「きゃああああああああっ!!」
「騒ぐんじゃねぇ!」
「ごばっ」
叫ぶエレナ。
右腕の皮膚を包丁が裂いた、その瞬間。
エレナは父親によってサッカーボールのように首を蹴り飛ばされ、そのまま壁に激突した。
突き立てられた包丁は、首ごと身体が吹き飛ばされた衝撃でエレナの皮膚と肉を裂いていく。
「フン、使えねぇガキめ」
「お酒も買って来れないんだもんね~」
「う、うう……あ……」
気を失いそうになるエレナ。
しかし、母親による頬への平手打ちがそれを許さない。
「ま、どうせもうすぐこんな生活ともオサラバだからねぇ~」
「ああ。……俺達は、じきに『学院』さえも放っておけないような存在になるさ」
こうして、エレナの一日は終わる。
「今日も、ご飯……食べられなかったなぁ」
食べ物も水も与えられず、奴隷のように家事をさせられ、暴力を振るわれるだけの日々。
ボロ布を身に纏い、まともな教育も受けず、川の水を啜ったり飲食店裏のゴミ箱を漁ったりしては、親の視界に入らない家の玄関前で眠る、そんな生活。
エレナは、そんな生活を当然のものだと思っていた。
外で親と幸せそうに過ごしているどこかの親子は、きっと別の世界に住む存在なのだろうと、そう思っていた。
自分と目の前を歩く子供が同じ人間であるとさえ、彼女は知らなかったのだ。
しかし数週間後、エレナにも転機が訪れることとなる。
「ねぇ、君!さっきからそこに固まって……どうしたの?」
名も知らぬ少女が、大通り沿いの壁にもたれかかったまま動かないエレナに興味を示した、ただそれだけであった。
しかし、エレナにとっては初めてになる、親以外との会話。
「ひっ……!……だれ……?」
当然ながら、エレナがまともに質問に返事をすることなど出来る筈も無かった。
「好きな物はなーに?」
「好き……?好きって何?」
しかし、それでも少女はエレナに根気強く話しかける。
「学校はどこ?多分だけど、あたしと同じ学校じゃないよね」
「がっこう……?何それ」
見知らぬ少女との会話は、エレナにとって知らないことだらけであった。
そして数日が経つ頃には、二人はすっかり仲良くなっていた。
「あのね、学校っていうのは~……」
「へぇ……私には分からないことばっかりだね」
「うん!世界って、思ってるより楽しいよ!それにしても、パパもママもひどいね……ねぇ、あたしと一緒に『院』に来ない?」
「い、いん……?いんって何……?」
「えーっとね、あたしみたいに、ダディもマミィも他の家族も誰も育ててくれる人がいない子供が集まるところだよ。もう、殴られたり蹴られたりするのは嫌でしょ?」
「うん……うん。でも、勝手に抜け出したら、殺されるかも……」
「大丈夫!きっと、院の先生達が何とかしてくれるから!」
「じゃ、じゃあ……行く!行ってみるよ!」
「よーっし!決まりだねっ!じゃあ明日、またここで会おう!」
「うん……うん!ありがとう!」
しかし翌日になっても、翌々日になっても、傷だらけ痣だらけのエレナが待つ木の下に孤児院の少女が姿を現すことは無かった。
いつものように、両親の目を盗んで孤児院を訪れたエレナ。
しかしエレナを迎えるのは明るいシスターの姿でも無く、希望に満ちた橋の少女の顔でも無く。
思い切り眉をしかめた、修道士の姿であった。
「ああ……君、旧市街に住むオズボーン家の子だね。すまないが……君の家は、いわゆるロンドン出禁って言うか……ちょっと特殊な問題を起こし過ぎて、警察は下手に動かせないけど行政のブラックリストには登録されている……みたいな状況なんだよ。だから、ごめんね。その傷を見れば、君が家で受けている扱いには察しがつくけど……君を受け入れることは出来ない。そういう、決まりだからね」
「そんな……。ははっ、そう、か。そう、だよね。……やっぱり、私……一生、こんな感じなのかな」
エレナはがっくりと肩を落とし、重い足取りで家へと戻る。
眼前にまで迫っていた天の国が蜃気楼であったかのような、その無念。
エレナは、如何に己の運命を恨んだことだろうか。
「た、ただい……ごえっ」
家の扉を開けるなり、エレナの痩せこけた骨と皮だけの腹部へ父の拳が飛んでくる。
「フン、また逃げだしやがって。オイ!そろそろだ。縛っとけ」
「は~い。分かってるわよぉ」
「ゲホッ、ゲホ……!むっ!?むぐぅぅぅぅっ!?」
そして、腹部への衝撃による吐き気も収まらない内に拘束され、間もなく頭部を殴られた上に薬を飲まされたエレナは、堪らず気を失ってしまった。
数時間後。
「我が娘を贄に捧げます……」
「火の鳥よ、偉大なる悪魔よ、どうか、どうか私達の元にお下りください……」
何やら、両親が謎の呪文を唱えているようだ。
手足を拘束された状態で口に猿ぐつわを噛まされているようで、声も発せなければ、目にも布テープを貼りつけられていて、周りも見えなくなっているエレナ。
頼りになるのは聴覚と嗅覚、それと触覚だけだ。
耳に入るのは両親の呪文と、火を焚いているのか焼け崩れていく木の音。
音が一方向を除いてやたら反響している。
今、寝かされているところは幅があまり広くない路地で……。
音があまり響いていないところの先は……広場だろうか。
だとすると、この辺りは空き家が連なっている……密かに「空き家街」と呼ばれているところだろうか。
傷と痣だらけの全身に感じる感触は、いつも身に纏っているボロ布の感触では無い。
それは冷くて硬い、石畳のそれ。
意識を鼻に集中させると、木の焼ける匂いの中に腐肉が焦げているような匂いが混じっているのが分かる。
思わず吐き気を催すが、口を塞がれている今、エレナには吐くことさえも許されていなかった。
「おう、目覚めたか。丁度良い。意識があった方が、悪魔も喜ぶってモンだろう」
「そうねぇ~。……呪文も唱え終わったし、あとはこの子を」
そこまで言って両親はエレナを持ち上げ、燃え盛る木が山積みにされた焚火の前へと運んだ。
「むぐ……む……!?」
炎を前に怯えるエレナ。
しかし、そんなエレナの歪んだ表情を見て、むしろ喜んでいるように口角を上げるエレナの両親はそのまま、さらに焚火へと近付く。
「こうして、火に投げ入れるだけねっ!」
「そうだなァッッッッ!」
そしてあろうことか、二人は両手で手足を持っていたエレナの両手首をナイフで切り、そのまま炎の中へと放り込んだのである。
「むぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!」
投げ捨てられたナイフ。
押し寄せる炎、崩れていく焚火。
「これで、全工程は完了かしらぁ」
「あああ、ぁぁぁぁあああ!ええ、おえっ、ええええあああああ!!」
目を塞いでいたテープは溶け出し、霞んだエレナの瞳を焼いた。
口は溜まった唾液ごと焼き溶け、あっという間に爛れていく。
「これで……ようやく俺達も日の目を見られるってワケだ」
「そうね~。顔だけは整ってる娘でほんっと良かったわ~。アタシが綺麗だからかしら」
両親はスナック菓子を片手に、腐肉と共に焼き殺されていく娘を眺める。
悪魔にとって目印であり祭壇代わりとなる焚火、そして捧げるための腐肉と、魔法陣を描くように身体中を傷つけた生贄。
それらを用意して呪文を唱え、焚火に腐肉を、その全てを捧げた後に生贄を投げ入れる。
これで、悪魔召喚の儀式は完了。
脳天から指先まで、粗雑につけられた傷。
それらは星座のように繋げると、いくつもの五芒星を描いている。
しかしそれに気づける程、エレナの感受性は生きていなかった。
炎の中でただ、悶え死んでいくエレナ。
声帯が焼き切れても、その脳みそが焦げ付くまで辺りに響いていたエレナの執念が吐き出す苦悶の叫び。
それがピタリと止んだ瞬間。
遂に二人は、期待していた悪魔の姿を目にする。
「……その顔が整ってるって娘を生贄に僕を呼んだのは、君達かい?」
赤毛に薄い褐色の肌をもち、全身に炎を纏った少年。
しかし少年と呼ぶにはあまりにも禍々しい、その圧倒的な気迫。
「おお……おお……!まさか、本当に儀式が成功するなんてなァ!」
「あら~。かわいらしいガキの悪魔かしらぁ」
しめたしめたと涎を垂らすように父親は悪魔の側へ迫り、右手を差し出す。
「悪魔。名前は何だ?」
「ええ~。何その態度~。僕、これでも偉い悪魔なんだけど。もっとなんか……敬意とか……無いの?」
「いや……何か勘違いしてねェか?お前は俺達が召喚したんだ。贄も捧げただろう?娘の魂もくれてやるよ。だからお前は俺達に従うんだ。俺達が主人、お前は従者だ。立場を勘違いするなよ?」
悪魔を前に一歩も引き下がらず、あくまでも主人の立場であろうとするエレナの父。
しかし、悪魔はそんな態度が気に入らなかったのだろうか。
「……じゃあ、この話は無かったことにしよーっと」
「何だとォ……!?」
「うーん。でも……わざわざ人間に呼び出されておいて、何も持ち帰らないで帰るのもなぁ……。あ、いいこと思いついちゃったかも」
悪魔は全身に纏った炎を激しく燃やし、エレナの両親どちらとも契約せずに再び焚火の中へと姿を消す。
「オイッッッッ!ま、待てェェェェェェェッッ!」
「待ちなさいっ!アタシ達が捧げた肉は!贄はどうなるのっっっ!」
集めた腐肉も育てた生贄も、それら全てが無駄になるのではないかと焦燥感に駆られるエレナの両親は、喉が枯れる程に叫びながら焚火の中を覗く。
しかし炎の勢いは増すばかりで、残っている薪の量では有り得ない程に激しくなった炎に対して、二人は徐々に後ずさりすることしかできなかった。
そして、数十秒後。
「まぁまぁ、そう騒ぎ立てないでよ。僕はまだここにいるからさ」
「なッッッッ!そ、そいつはどういう真似だ……!?」
「な、何で、立ってるのォ……!?」
「ホラ、生贄ちゃん。そろそろ焚火から出てこないと、また焼け死んじゃうよ」
「あ、あっつ……」
「「エ……エレナァァァァァァァ!!」」
悪魔は、全身から傷も痣もすっかり消え去ったエレナを連れて炎の中から再び姿を現したのである。
「あー。僕、決めたんだよね。君達じゃなくて、生贄ちゃんと契約しようかなーって。だから生き返らせちゃった。傷だらけだったから、その辺には適当にイジっちゃったけど」
全身の炎を弱く収め、焚火の中から外へ出ようとするエレナの手を引く悪魔。
「えっと、悪魔……くん?何で、私を生き返らせてくれたの……?」
「いやぁ、僕ってば……君のパパとママに召喚されたんだけど、変に偉そうだから契約したくなくってさー。でも折角呼び出されたのに、そのまま何の収穫も無しに帰るのは勿体無いじゃん。だから、一つ。君に提案があるんだよ。その提案を聞いて欲しくて、生き返らせちゃった」
「て、提案……?」
キョトンと目を丸くして硬直するエレナ。
「エレナ!その悪魔を取り押さえろォ!このガキが!契約すると言うまで、自白剤を飲ませてやるッッッッ!」
「エレナ~。お願~い。また、腕を切られたくは無いでしょ~?」
「悪魔くん、続き!続き、聞かせて!」
横から口を挟む両親を無視して、エレナは悪魔の言葉に耳を傾ける。
「まあ、そう焦らないでよ。……ねぇ。時に生贄ちゃん。君が僕と契約する気は無いかな?」
「えっと……どういうこと?」
悪魔は首を傾げるエレナを横目に、燃える血を辺りに撒いて両親が近付けないように防壁を作った。
「簡単な話さ。オバケにならなかった魂っていうのは持ち主が死んだら身体から抜けて、霊的なエネルギーの塊になるんだよ。で、オバケや悪魔なんかは道端に落ちてるそれを食べて生きるのさ。……その中でも、人間の魂っていうのは特にエネルギーがたっぷりでね。今すぐにでも、一つでも多く欲しいんだよ。でも、ここで君とあの失礼な二人を殺して帰るっていうのも、何か味気ない。……だから『君が死んだら魂をくれる代わりに従う』って条件で、契約を持ちかけたってだけだ。久しぶりに人の従者として生きるのも面白そうだし。……どうかな?」
悪魔は左手の小指を差し出し、結ぼうとエレナに迫る。
「悪魔くんは……優しい人?」
「人じゃないけど、ご主人様には優しくするよ」
「……契約したら……もう、ダディとマミィから離れられる?」
「うん」
「もう、お腹も空かない?」
「僕の力を上手く使えばね」
「死ぬまで……一緒にいてくれる?」
「もちろんだよ。一緒にいないと、死んじゃった時に魂を回収し損ねるかもしれないからね」
「……乗った。これからよろしくね、悪魔くん」
近付く悪魔に合わせて、エレナも左手の小指を差し出す。
「『悪魔くん』、か。でも、他の悪魔と混ざって紛らわしいから……名前で呼んでくれるかな?」
「名前かぁ……。私はエレナっていうんだけど……君の名前は?」
「僕は『フェネクス』。『不死鳥フェニックス』って言った方が分かりやすいかも。まぁ、どっちで呼んでくれても良いよ」
「フェネクス!よろしくっ!」
「うん。君とは仲良くやれそうだよ、エレナ」
絡み合う指と指。
二人の身体を互いの魔力が行き来し、混じり合う。
エレナの全身は燃え上がり、心臓にはフェネクスと契約した証としての炎が宿った。
「ねえ、フェネクス。これからどうしよう?」
「そうだなぁ。まずは……」
「あ、え、エレナが……悪魔と……!?」
「契約……しやがったァァァァ!?」
「あの二人を何とかした方が良さそうだね」
フェネクスはエレナの両親を指差し、軽い溜め息をつく。
「エレナァァァ……テメェ、自分が何したか理解してんだろうなァ……!」
「アンタ……生きて帰れると思わないことね~」
エレナの両親は着ていたコートの内ポケットに隠していた杖を手に取り、その先端に炎を宿し始める。
「食らえェェェ!【火球】!」
「【火球】!アタシ達から逃げられると思うなよォ!」
そして、その炎をさらに増幅させて球状にしたまま、杖の先端でそれぞれエレナとフェネクスへ一発ずつ放った。
「わあああああっ!?」
「ハッ。君達は本当にバカだね」
焦って回避に失敗するエレナと、すまし顔で火球を受けるフェネクス。
そのどちらにも、一切の怪我無し。
「うわああああっ!!……えっ、あれ?えと……?何で効かないの?」
「そりゃあ、僕が不死鳥フェニックスだからだよ。ずっと燃えてる不死鳥と不死鳥の力で生き返ったご主人様に、そんじょそこらの魔術師が出した程度の炎が効くわけ無いじゃん」
「そうなんだ……あんまり、お話って聞いた事無くて……ごめんね」
「君が謝ることは無いよ。あの両親を見れば、君がどんな生活をしていたのか察しがつくからね。これから、色々知っていけばいいさ」
フェネクスは地面に落ちていたナイフを一本だけ手に取り、エレナに手渡す。
「これは……わ、私の腕を切ったナイフ……!」
「あ、そうだったの?なんか武器に使えそうだと思って拾ったんだけど……ちょっとトラウマをほじくり返しちゃったかな」
「……ううん、大丈夫。ダディとマミィを相手にするなら、これが良い。むしろ、このナイフが丁度良いよ……!」
フェネクスの熱を帯びた包丁を握るエレナ。
焚かれている炎を反射する眼光には、怯えなど一寸も残っていなかった。
「エレナ?もしもーし?もしかして、スイッチ入っちゃった……?」
「うん……。フェネクスと一緒に生きる未来に、ダディとマミィは要らない……。邪魔、邪魔!邪魔だよ……!今までずっと、私を虐めて……儀式の生贄にまでして……そして、今度は悪魔まで奪おうとして……!!もう、限界」
今まで、ずっと当たり前だと思っていた生活。
腹を空かせて家事をこなし、橋の下で水浴びをし、ただ殴られるだけの日々。
それの異常さを教えてくれた少女。
しかし、外の世界も楽園ではないということを教えてくれた修道士。
そして、一緒に人生を歩むことと約束したフェネクス。
今のエレナは、もはや数日前のエレナとは別人であった。
復讐の炎を燃やし、当たり前の人生を享受したエレナ。
この日、エレナは初めて「人間」としての生を始めたのだ。
「エレナ。一応、大人として聞いておくよ。……そのダディとマミィだけど……どうする?僕が軽く処しちゃおうか?」
「いや、大丈夫。私に……やらせて」
完全にスイッチが入ったエレナ。
こうなってしまった人間は、もう止まらない。
「わかった。危なくなったら、助けに行くよ」
ナイフを持ったエレナの背中を押し、空中浮遊を始めるフェネクス。
「エ、エレナァ……!悪魔がお前の側についたからって、お前の立場は変わらねェからなァ!」
「強くなった気になってんじゃあないわよォォォォッ!」
自身の血が付着したナイフを持って走り出すエレナ。
「フゥゥゥーーー……」
勢いがつき始めた時点で一息。
両親の杖から再び放たれた火球を躱しながら、置かれていた室外機の上に飛び乗り、そこから建物の壁を蹴って空中で身を翻す。
「ひぃっ、く、来るなァァァァァッッッッ!!!」
「ハァァァ……」
その中で斬る構えから突きの構えへと直し、憎っくき父親の喉元へ狙いを定めてナイフに体重をかける。
顔を斬りつけられると思い込み、杖を斜めに構えていた父親は硬直。
殺気を纏った刃が目前へと迫る恐怖は如何ほどか。
「お、鬼……ッ」
「死ね」
エレナの手に握られたナイフが、父親の喉笛へと食い込む。
か細い身体、その全てを使った全力の一突き。
「グェェェェェェェェェェ」
刃はエレナの体重に任せて沈んでいき、喉笛から気道へ、気道から心臓へ、そして心臓から右腰部を貫く。
「ハァッ!ハァッ!ハァッッッ!!!」
倒れた父親に覆いかぶさり、さらに何度も身体に刃を突き刺す。
「ゴエ、ェェ……カハッ」
「よくもッ!よくも今まで、私を虐めたなァァァッッ!許さない、許さない、許さない許さない許さない許さない許さない許さないッッッッッッ!!お前達は!私を虐める為に産んだのかッッッ!私を!儀式に使うために!家に置いてきたのかァッッッッッ!!呪ってやる、死んでも……お前達が死んでも……!生まれ変わっても、地獄に落ちても……どこに行っても、ずっと苦しみ続けるように……私の全てをもって、呪ってやるゥゥゥゥゥゥッッ!」
何度も、何度も、ナイフを振り下ろす。
父親の肉体を何度も刺し貫き、肉を抉り、穴だらけにする。
悦に入るエレナ。
口角が上がり、恍惚な表情を見せるエレナを前に、フェネクスは身震いした。
「これは……すごいのをご主人様にしちゃったかも」
「ひゃは」
もはや誰であったかも判別できない程に刺し貫かれた顔面から目玉を取り出し、踏みつける。
小腸と大腸を壁に叩きつけ、ナイフで細切れにする。
形が崩れた心臓を引き抜いて喰らいつく。
「エ、エレ……」
震えた声で、隠し持っていたナイフをエレナに突き刺そうと近付く母親。
しかし、名前を呼ぼうとしてしまった時点で運が尽きたのか。
「ァァ……?」
返り血で朱く染まったエレナは、目にも止まらないスピードで母親に接近。
母親の目と意識がエレナを捉えるよりも先に、そのナイフはもう一つの心臓を貫く。
「はっ……?え、れ、な……?」
「死んで、マミィ」
「あが」
叫び声をあげようとした母親だったが、その前に喉と脊髄を貫かれ間もなく絶命。
「ハァッッッッ!ハァッ!ハァッ!グゥゥッッ!」
無造作に伸びきった髪を振り乱し、腹部を、胸部を、脚部を抉る。
正気を失い、両親だったものの肉を抉る様はまさに鬼、悪魔、或いは修羅。
この瞬間、エレナは確かに人間を失っていた。
元々、人間として当然の生を得られなかったエレナだ。
時に高位の悪魔と契約し、時に鬼と化す。
上に振れようと下に振れようと、やはり現代社会における人間の範疇には収まらないのだろう。
「……ふっ。あははははははははっっ!!いやぁ、すごい!すごいよ!素晴らしいよ!」
「ハァッ、ハァッ!」
息を切らし、握っていたナイフを肉塊の上に落とすエレナ。
「気が済んだかい?エレナ」
「ハァッ、ハァッ……ハァッ……ゲホッゲホッッ!!ゼェ、ゼェ……」
激しく息を切らして血肉の上に横たわろうとするエレナを受け止めるフェネクス。
「これは……ちょっと興奮し過ぎかな?オーバーヒートしちゃってるよ。僕は不死鳥だから、どんな激しい炎にも耐えられるけど……君は人間だからね。僕が与えた命に慣れるまで、あんまり魂を震わせるような、激しい感情は抱かない方が良いかもね」
そして胸元に手を当て、魂を身体の内に抑えている炎を沈めた。
本来、生物には魂を繋ぎ留める鎖のようなものがあるのだが、一度死んでしまったエレナには、それが欠けてしまっている。
故に、エレナはフェネクスが与えた鎖の代わりとなる炎を内に宿している訳だが……副作用として感情が高まったり、霊的な力が関わる無理をしたりすると、その炎が燃え上がって魂を徐々に焼いてしまうのだ。
慣れればそれもマシになるらしいが、エレナは今の今に生き返ったばかり。
あと数分放っておけばエレナは魂ごと燃え尽き、灰と化していただろう。
……そのままエレナを見捨てて死後に魂を奪うこともできた筈だった。
しかし、そうではなく暴れ狂うエレナを止めたフェネクス。
「はぁ、はぁ……あり、がとう、ふぇね、くす……」
「うん。この死体は全部燃やして、君は安全なところに運ぶから。僕の背中で、ゆっくり休んでいるといいよ」
「おね、がい」
そして間も無く気を失ったエレナを背負い、フェネクスは空き部屋になっているアパートの一室へと身を移した。
人を失い、しかし人としての生を得たエレナ。
人ならぬ少女に人を与え、生の姿を傍観したフェネクス。
「……ふふっ。これは、面白いご主人様と契約しちゃったな。人の生は短いけど、これから数十年、楽しい日々が続きそうだね」
悪魔は二人の魔術師が死後に落とした魂を口に含みながら、エレナの寝顔を眺めている。
霧の街、ロンドンの片隅。
これは後に台風の目となる悪魔とその主人が、密かに出会った日のことである。
みなしご少女と幼き不死鳥 最上 虎々 @Uru-mogami
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