ずっとこうしていたかった、あの夏のキスのように。

きみを思う、ありふれた朝に

 スマホのアラーム音で目が覚める。半分ある意識の中、痺れて、鉛のように重苦しい手を伸ばしアラームを止める。音を止めたことに安堵しすぐに目を閉じて二度寝をしてしまう。一回目のアラームで完全に起きられるはずがない。昨日まで夏休みだったということもあり、予定がない限りアラームはセットしない。起きるまで寝る、それが朝のルーティンだ。

 五分、一〇分経っただろうか、いかにもこいつはガサツなやつだなと思わせるような、品のない階段を駆け上がる音が響いてくる。それが止まったかと思うと、ここでストレス発散させるのやめてくれません? と言いたくなるくらい部屋のドアをノックする、というよりはがむしゃらに叩く音が聞こえてきた。

「ちょっと! 起きなよ! 今日から学校でしょ?」

 ————。 

 沈黙が通り過ぎる。

 再びドアを叩く音がした。

「絽薫! お母さん今日、早出だからいつまでも起こしてらんないよ!」

「……おきまーす」

 何ともやる気のない声で返事をして、ベッドの上で目一杯背伸びをする。ベッドから降りると少し清涼さを感じる。昨日まで熱をコーティングしているのかと思うほど暑かったのに、一変して、肌に触れる空気が気持ちいい。

「起きたの? 早く下きてごはん食べてよ」

「はーい」

 生返事をして、大きなあくびをする。ドアを開け、そのままトイレへと滑り込む。ここで少し時間がかかる。朝起きたばかりの男子は誰でもわかるとは思うけれど、ウィンウィンだ。それがほんの少しでも治ってくれなくては、用を足すこともできない。洗面所で手を洗い、ふと鏡を見る。少し違和感があった。自分自身に何かあるわけではない、ただ、何となくいつもと違うような気がした。

 キッチンに行くとすでに弟の磨都がいた。

「兄ちゃん。あれっ? なんだっけ?」

「何言ってんの?」

「言うこと忘れた」

「はっ? 朝からボケてんなよ」

「ボケたわけじゃないし! ただ、忘れたんだし!」

「あっそ」

 何気なく言ったことでもムキになる。身長は少し伸びてきた気がするけれど、まだ小学生にしか見えない。

「磨都、お兄ちゃんの方が早く出るから、戸締りよろしくね」

「オーケー、任して」

「いってきまーす」

「いってらっしゃい」

「いってら~」

 ボケてんなよと言ってはみたものの、ボケているのは自分なのかもしれないと思ってしまう。鏡で自分の姿を見てから、いや、起きたときからかもしれない。心の中から何かが抜け落ちているような気がしてならなかった。とてつもなく気になるのか、と言われたらそうではないけれど、頭の中で何かが引っかかる。考えていることが喉まで出かかっているのに、なかなか出てこないときのような感覚だ。

 そんなことに気を取られていても仕方がない。ささっと準備を済まして、二学期の初登校をしなければならない。

 昨日までの夏休みは、充実していた方だと思う。部活に遊びに、それから……それくらいか? 新しい仲間と最高の夏だった。

 今日からは文化祭に向けて動き出さなくちゃいけないし、今回は役を取るためオーディションを突破しなくちゃいけないし、ゆきちがどんな風に脚本を仕上げてくるか楽しみだ。

「じゃあ、戸締りよろしく。いってきます」

「いってらっしゃい。兄ちゃん」

「何?」

「……ん~、やっぱり何でもない」

「なんだよ? じゃあな」

 玄関ドアを開ける、握ったドアノブが少しひんやりとし、肌に触れる風も生ぬるさを感じさせなかった。たった一日の間で、夏から秋に季節が移り変わったかのようだった。変わった……やっぱり何か引っかかる。胸に手を当てて心臓を掴むかのように、手を握る。……物足りない。というか、ただただ普通だった。

 思い出せないということは、大した事ではないと、心が言っているような気がした。とりあえず、考えるのをやめて自転車に乗った。

 少し薄暗い曇り空、夕方からの雨予報は本当のようだ。昨日は暑くて汗だくになって……あれっ? 汗だくになって何してたんだ? そもそも昨日の昼間は特に何もしていなかったはず、家で溜めていた宿題をひたすらやっていた。夜は花火をして……夏休み最後を楽しんだ。そんなことを考えながら、花陽公園の前を通っていた。当たり前だけれど、紫陽花は咲いていないし、あのだるい暑さもない。昨日までの景色が、瞳の奥で絵の具を混ぜたようにボヤけて見えた気がした。

 急にブレーキをかけてしまった。なんでここで止まったのか自分でもよく分からない。ただ、気がつくと涙が零れ落ちた。目尻を触り涙を拭う。

 なんで?

 後ろを振り返った。もちろん、誰もいない。わかってはいるけれど、少し目を配らせる。ため息が出てきた。何もないのに、何を探しているのか、自分に問いたくなる。


「おはよ~」

 駅を出て学校までの道を歩いていたら、後ろから声がした。振り返ると坂戸輝紀と三咲凛花がこっちに小走りで近づいてきた。

「おはよ」

「今日はひとりなのかよ? ……えっ? そりゃそーだよな?」

「えっ? 朝から何言ってるの? 輝紀」

「ふたりとも朝からイチャつくとか」

「別に……なあ?」

「別に……」

 やっぱり、何か変な感じがする。坂戸の言葉も引っかかってしまう。ひとりなのかよ? ってひとりに決まっている、彼女なんていないんだから。

 いない……確かにいない。頭ではわかっているのに、心臓が絡まった何かを解きたいかのように、爆音で波打つようだった。


 いつものよつに、ホームルームが始まった。一限目二限目と過ぎていき、昼休みとなり、深いため息が出た。

 左前の誰もいない席を見ていた。ずっと誰もいなかった。それはわかっているけれど、納得いかない。納得いかなくてもいったとしても、この状態が変わるわけではない。

 そう、変わらない。

 忘れようとした、付き纏われている、今日起きてからの変な違和感を。その事実を自分の中でなんとか揉み消したかった。

 ——無理だ。

 考えないようにしようとすればするほど、気になってしまうし、考えてしまう。何もないことをどう考えるというのか、なぞなぞを解くよりも難しい。

 深いため息を吐いた。

「ねえ、百彩ちゃんならどう……」

 喋ることも内容も何も頭になかった。考えるよりも先に行動する的なやつだ。左前の空席を見て何か話しかけていた。

 ————。

 自分の中を流れる時間が止まったように感じた。

 なんでもない日常会話のようだった。まるでありふれた朝のようなワンシーン。

 ……これな気がする。この感覚がほしかったんだ。でも、意味がわからない。誰のことかも、名前も今は忘れてしまっている。一瞬のことで、頭が理解に追いついていない。けれど、引っかかりが外れたような感覚だった。

 胸が、身体中が、熱くなっていく。心臓が何かを呼び起こせと言っているように、新鮮な酸素をいつもより増しで、全身に駆け巡らせているようだった。


 授業が終わった。ホームルームは適当に聞き流し、今日最後のチャイムが鳴り響いた。時間に拘束される生活は一ヶ月以上振りなのもあり、一瞬にして勉強から解放され、自由を手にした冤罪者のような気分だった。

 少し自分に疑問を感じた。勉強は好きではないけれど、学校に行くのは嫌でははない。友達もいるし、部活もある。でも、今日は囚われていたような感覚がしていた。罪をなすりつけられたわけでもないし、そういう疑いをかけられたわけでもないのにだ。と、そんなことを考えていると後ろから大声がした。

「わっ!」

「あーっ!」

「何ボーッとしてんだよ?」

 福居昇流だ。

「えっ?」

「えっ? じゃねーよ。部活いくぞ」

「あー」

「さあ、姫参りましょう!」

 …………。

「はっ?」

 言った本人が頭の上に疑問符を浮かべていた。

「いや、福居、俺がはっ? だよ」

「俺、今何言った?」

「姫とか?」

「誰?」

「いや、知らないから」

「ふん! 行くぞ平民!」

 悪態をつくように福居は勢いよく教室を出て行った。

「平民じゃなくて農民じゃなかった?」

 ……このやりとり何か一味スパイスが足りていない気がする。もう少し面白みがあったはず、たぶん。


「おはようございまーす」

 部室に挨拶に行くと、すでに本田先輩、大山先輩たちがいつものように座っていた。

「おはよー、あれっ? 今日はふたり……だよな?」

 大山先輩は自分の喋った言葉にしっくりきていないという感じで、周りをキョロキョロと見回していた。

「なんだよ晃也、緊張でもしてるのか?」

「はっ? 緊張? そんなわけーねーだろ。新部長をぶぐ……」

 新部長を、部活動前にフライングで言いそうになった大山先輩を、本田先輩、宮市先輩たちが前後から口を抑えた。

「ここで言うなよ!」

「あぶねー、ギリギリ止めれたよな?」

「何も聞こえてなかったす」

「同じく!」

「だよな?」

 本田先輩、宮市先輩はやれやれという表情だった。大山先輩の勢いの良さは演劇部一、いや、全国高校一、日本一は言い過ぎだけれど、秀でるものがある。

「福居、今日は外周なしでいいから練習場に集まっといてくれ」

「わかりました! 失礼します!」


 ————。

「えっ?」

 一瞬何が起きたのかわからなかった。

 二分前を思い出してみる。


『それでは、新部長を発表します! これから一年間この演劇部を引っ張ってくれるだろう、頼もしい人物を選びました!』

 なんとなくはわかっているけれど、やはり、張り詰めた空気感が緊張を誘う。

『福居昇流! 俺の至らなかったところをわかってくれているだろうから、もっといい、もっと強い演劇部をこれから作ってくれると、俺は期待してる』

『はい! 全力で頑張ります!』

『そして副部長は大山晃也から発表してもらう』

 これも大体はわかっているつもりだった。二回大会をやってきて、合宿も普段の練習もずっと見てきた。この二人が部長副部長になれば最強だと思っていた。

『正直、悩んだ! 三年全員話し合ってさっき結論がでたばっかりだ。だけど、俺はこいつで間違いないと確信してる。それじゃ、言うぞ。覚悟はいいか? ……笹井絽薫』


 何を聞き間違えたのか、自分の名前が呼ばれた気がした。周りを見ると拍手が響き、囃し立てられている。

「笹井、ボーッとしてんなよ。お前が副部長だ」

 お前が副部長……。

「えっ? 俺ですか?」

 何かの間違えであってほしかった。まだまだ何もわからない俺が副部長だなんて、自信がない云々よりも、途中から入った俺がやっていいものなのかわからない。

「笹井、入った時期なんてカンケーねーから。みんなお前の頑張りには期待してんだから」

 大山先輩の迷いのない言葉が、直球で届いた。

「ありがとうございます! 精一杯副部長やっていきたいと思います!」

 拍手が上がった。

「他のみんながダメだったわけじゃない。ちょっと面白みもあるかなと思ったとこも正直ある」

「本田と俺で副部長、部長を受け継いだ。それはありがたかったし、今までの演劇部の良さを受け継ぎたいと思ってやってきた。もちろんこれからも受け継いでいってほしい。でも、それだけじゃなくてもっと新しいことにも挑戦していってほしいと思ったんだ」

「はい、俺もいいか?」 

 宮市先輩が手を上げて立ち上がった。

「ごめんな、なんか熱くなちゃってさ。でも、こういうとこも受け継いでいってくれたら嬉しい。それと、部長、副部長だけが頑張るわけじゃない。主役になれば劇自体を引っ張らなくちゃいけないし、裏方も適切な指示が出せないと成り立っていかない。今二年は六人……あれっ? 五人か、もうひとりいたような、まっいいけど、ひとりひとりが何をしなきゃいけないか意識してやってほしい。以上」

「はい!」

 演劇部に入って、やっと自分も演劇部員らしくなってきたんだと思った。

 やってみるまでは、文化部を見下していたところが少しあったのかもしれない。運動部のようにひとりひとりのプレーで活躍しているところや、チームプレーで一丸となって戦っている様こそが、楽しむための部活動だろうと思うところがあった。

 何もわかってないクソ野郎だった。

 ここにもひとりひとりのプレーもあるし、部員一丸となって戦っている。

 最高に楽しい!

 今すぐにでも百彩ちゃんを、抱きしめたいくらいだった。

 …………。

 もあちゃん? もあ? 自分が何を考えているのか意味がわからなくなった。

 かわいい同年代くらいの女の子が頭の中に浮かんできた。

 きみは……、

「おい! 何ボーッとしてんだよ、新副部長!」

「えっ? いや、別に何も……」 

 新部長こと福居昇流に肩の筋肉をマシュマロを潰すかのように揉みくちゃにされた。

「イテテテテッ、馬鹿力かよ!」

「さあ、どーするよ? 新部長、新副部長。文化祭会議する奴ら以外は久々にエチュードでもするか?」

「はい!」

「じゃあ軽く柔軟発声しとくか?」

 前副部長、大山晃也の一声でみんなが動き出した。


 食欲の秋、芸術の秋、勉強の秋、いろんな秋がある。文化祭は芸術の秋にはもってこいのイベントだ。真夏のあの暑さの中、開帳場にペンキを塗り、コンビニに寄ってでアイスを食べたり、芸術の夏も嫌いじゃなかった。あの時は初めてのことばかりで右も左もわからない状態だったけれど、副部長に指名してくれた先輩たちに恥じないように、今やれること、先輩から学んだ知識、これからもっと学べることをしっかりと着手していきたい。



 朝、アラームが鳴る前に目が覚めた。見ていた夢に衝撃を受けて飛び起きた。文化祭の前日、今この時間が現実なのか夢なのかわからなくなるくらいだった。

 すぐに頭から消えてしまいそうで、ROWのグループにメモ書きをして書き留めた。もちろん送信しているので、みんな見ることになる。でも、みんなにも見せたい気持ちがあった。福居昇流、坂戸輝紀、三咲凛花、新座明歩この四人ならわかってくれる気がした。

 きっと大事なこと、最近の自分自身に起きている変な感覚、謎が掴めそうだと思った。


 きみは誰?

 夢で見た姿は光り輝く天使のように綺麗な人だった。

 

 



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