モアと百彩、サヨナラと涙

 少しだけこのベッドで横になろう、名残惜しさでいっぱいだった。ほんのり木の温もりと匂いを感じられるこの部屋に、戻ることはもうないのかと思うと、心に吹き込む隙間風のように、ため息が出てしまう。

 初めは研修という名目だったけれど、今の思いは違う。わたしは葵百彩だった。葵家の一人娘で女子高生で、演劇部の部員で、笹井絽薫の彼女だ。

 急に頬が生暖かくなった。触れてみると溢れるほどに涙が流れていた。

 どうして? きっとここに来る前ならわからなかった。でも、今ならわかる、この気持ちが。見ているだけでは気づけないことがたくさんあるんだと知った。


『わたしは、またみんなとこうして集まれたらいいな』


 叶わないとわかっているのに、どうしても言いたかった。何の意味もないけれど、葵百彩ならそう願ってもいいはずだから。

 今日が終わるまでは……。


 みんな本当にありがとう。

 わたしのことは忘れても——。



     ☆   ☆   ☆



 今日は潤いの雨が降っている。ここのところずっと晴ればかりで、焼けた大地がごくごくと喉を鳴らす音が聞こえてきそう。

 今日は特に予定はないけれど、絽薫くんから、花陽公園の先にあるコンビニに行くとROWがきたので、合わせて行くことにした。先日、私の誕生日に告白をして彼氏になったばかり。だから、今は少しの時間でも大切にしたい。

 花陽公園の前を通り過ぎる。思えば二ヶ月前、ここで絽薫くんと再会をした。もっと違う形で出会えていたら、少しは変わっていたのかな? こういうことを考えるのは止めようと思っているのに、どうしても頭の中に浮かんでしまう。人間は弱いのかもしれない。でも、そこがステキなところだと思う。後悔をして、そこから立ち上がり、考えて、学び、手に触れられるものができる。

 今ならきっと、いい愛のキューピットになっていたと思う。ふたりの赤い糸を着実に結べるように、お互いの呼吸や匂い、触れ合った瞬間の鼓動、恋する要素はもっともっと複雑だから、時間をかけて見てあげられる。

 ……どちらに対してもまだやり足りない。でも、決められたことだから、新しい道に進まなくちゃいけない。新しい道に今の後悔を活かせたら、きっとそれが最善に繋がる。

 そのとき、わたしは覚えていない、今というこの人生じかんを。それでいい、恋する香りのように、ほんの少しでも心と身体のどこかに感じられたのなら、わたしが今を歩いてきた足跡になる。

 雨が地面に跳ねる音、傘を叩く音を聞いていると、癒しのハーモニーのようで鼻歌を口ずさみそうになる。

 コンビニに一歩近づくたび、足音の旋律に合わせ音符が身体中から溢れ出し、空気中を漂う楽譜に貼り付けられていく。そんなことを空想しながら、ステップを踏むように歩いている。

 コンビニまであと数メートルというところで、前を歩く絽薫くんが見えた。声をかけようと思ったけれど、やめた。気づかれないように足早に歩きギリギリのところまで近づく。注意しなくちゃと思うと力が入ってしまい、小石に躓いてしまった。思わずキャッと小さな声を上げ、口を片手で塞いだ。

 一瞬振り返られたような気がして、確認しなくちゃとそっと絽薫くんを見た。何もなく前を歩いている。ふーっと息を吐き、気を取り直し、彼氏に向かって大声を出した。

「わっ!」

「あーーーっ!」

 背筋が棒のように伸び、直立しているのは間違いなく絽薫くんだ。ドッキリ大成功!

「絽薫くん?」

 前に行き顔を覗いてみると、顔まで硬直しているように見える。

「もあひゃん」

 緊張がほぐれたかのように、脱力感いっぱいの声だった。

「大丈夫?」

「うん……大丈夫。ごめん、情けない」

 肩を落とし、若干、凹んでいるように見えなくはない。

「ううん、わたしこそごめんね。急に驚かしちゃったから」

 ハァ~とため息を吐き、明らかにカーブを描く背中が見える。その情けなさいっぱいの後ろ姿から顔をこちらに覗かせた。

「どーしたの?」

「うん、俺、ちゃんとかっこいいパパになれるかな? って。こんなことですぐに震えてたら子どもになんて思われるか」

 急すぎる話で頭がついていかない。ボーッと絽薫くんの顔を見ていた。頬が赤くなり、あたふたと足元がおぼつかない。

「あっ、ごめん。その、なんて言うか、将来はふたりの赤ちゃんができてってあれっ? あの、なんて言うか……」

 自分で言ったことに動揺して、テンパっているのがよくわかる。こういう素直なところが純粋で可愛いくて魅力のひとつだと思う。

「赤ちゃん?」

 なんだか笑えてきた。

「えっ? そ、そうだよ。ほら大人になったら結婚して、そしたら子どももできるし、子どもできるってことはその子作りしないと、いやその……」

 口調が速くなり、ますます慌てているがわかる。

「……そっか、普通ならそーだもんね。ふふふっ、そんなに慌てなくていいのに」

 普通なら——自分で言ったものの、叶えられない普通という遠くて近い明日。わたしとの時間を大切に考えてくれている絽薫くんに、申し訳なさでいっぱいになる。地面を流れていく雨のように、誰にも気にされずに流れていけたらいいのに、そんな風に思ってしまう。

「なんか、ごめん。気が早すぎるよね? まだ高校すら卒業してないのに……あれっ? 雨が止んでる」

 ハニカんだ笑顔を見せられると、ギュッとしたくなる。この笑顔をずっと隣で見ていたい。普通ならそれが当然のことなのに、やっぱり、絽薫くんを目の前にすると、感情が溢れてくる。

「ホントだ」

 傘を下ろして畳んだ。空を見上げると、雲間に広がる青色にうっすらと七色の虹が見えた。

「あっ、虹」

「ホントだ」

 虹を指差して下ろすと、絽薫くんの手に触れた。五秒ほど目が合う、気まずい訳ではないけれど、もどかしさが目を晒してしまう。

「行こう!」

 そう言うと手を引っ張られた。わたしの手をしっかりと包んでしまう大きな手、大きな存在だなと感じた。

 

 コンビニでおやつやら飲み物やらを買い、帰り道を歩いていた。雨上がりは汚れた空気が洗い流され、少しの雨の匂いと、手付かずの空気が全身を包んでいく。思いきり深呼吸をすると清々しい。

 喋りながら歩いていると、ちょうど花陽公園の前に来た。「寄ってく?」と絽薫くんが親指を立てて入り口の方を指した。うん、と手を掴み寄り添った。入り口まで来ると急に絽薫くんが立ち止まった。どうしたの? と顔を覗き込んだ。

「えっ? どういうこと? 俺は……もあ」

 繋いだ手が解け、前に倒れ込んだ。

「絽薫くん、絽薫!」

 わたしとここにいると……、わたしがちゃん認めなくちゃいけないこと。わたしとここにいるとじゃなくて、わたしがいると、絽薫くんはあの日の記憶がフラッシュバックしてしまう。やっぱりそれが事実なんだ。

 神様、わたしはもうこれ以上ここにはいられないんですよね? このままわたしがいたら、きっと絽薫くんの記憶が混乱を起こして、頭がパンクしてしまうかも。わたしのことなんてどうでもいい、どうか絽薫を助けて。


「絽薫くん、大丈夫?」

 公園のベンチに座った。

「えっ? あれっ? もあちゃん?」

 キョロキョロと辺りを見渡す。

「大丈夫?」

「えっ? うん。俺どーしたんだっけ?」

「絽薫くん、歩道の段差に躓いてこけたんだよ」

「あっ、そーだった。躓いたとこまでは覚えてるんだけど……」

「そのあとベンチに座ってちょっと休むって言って、少し寝ちゃったんだよ」

 目を見つめて喋った。絽薫くんの現実いまを修正するために。

「そーだ。俺頭打って少し痛くて、休憩しようと思ったんだ」

「なんともない?」

「んー、大丈夫かな? 打ったとこも痛くないし」

「そか、よかった」

 また、記憶を上書きした。何も覚えていないようで安心した。申し訳ない気持ちはあるけれど、こうするしか他にない。この夏の間、もう少しだけ一緒にいさせて。その後は跡も残らない、雨のように消えるから。

「ねえ、グミ食べる?」

「うん、ありがと」

「あっ、そーだ! 面白い話っていうか、偶然なんだけどさ。俺、子どもの頃、猫買おうとしたことあって」

 楽しい思い出を呼び起こすように、興奮した表情をしていた。

「ねこ?」

「うん、子猫。俺のせいで死んじゃったんだけどさ」

「そーなんだ、残念だったね」

「うん、めっちゃ後悔してる」

 思わず背中をさすった。少しでも励ましになればと思った。

 落ち込んでいるかと思いきや、こちらに笑顔を向けた。

「ホントにそれは後悔しかないんだけど、名前がさ、モアって言うんだ」

「もあ?」

 心拍数が上がっていくのを感じる。

「そう、百彩ちゃんと一緒の名前なんだよね。偶然ってホントあるもんなんだなって」

「……そーだね。なんだかびっくりだね」

 言葉に詰まった。なんて返せばいいのか、全くわからなかった。まさか、わたしのことを聞くなんて、思ってもみなかったから。絽薫くんの目を見つめることしかできない。

「モア……」

 まるで今のわたしの中にモアを見ているようだった。

「えっ?」

「あっ、ごめん。モアのこと話してたら百彩ちゃんがモアに見えてきちゃって」

 胸が締めつけられる。

「……いやだ、何言ってるの? わたし、猫じゃないよ」

 笑ってみせた。気づかれるわけがないとわかっていても、心臓を掴まれたような苦しさと、ハニーラテを飲んだときのような、甘い心地よさが混じり合った複雑な気持ちだった。

「そーだよね? モアと百彩、名前が一緒なだけだよね?」

「うん、そーだよ」

 絽薫くん、わたしがモアだよ。

 そう言いたかった。でも、何も伝えられない。下唇を噛み、見つめるしかなかった。

 わたしがいなくなった後、みんなはこれまでと変わらずに生きていく。わたしは少しでもみんなの心に何か残せたのだろうか? わたしの心には焼きついている。ほんの数ヶ月だったけれど、ここで生きた毎日を、最高の人生だったと思う。

 もし、みんなのように赤ちゃんとして生まれて、幼稚園、小学生、中学生、そして、高校生だったらこんなこと思わなかったのかもしれない。でも、絽薫くんと共に歩むことも、みんなとこれから起こるさまざまなできごとを、一緒に笑って泣いて、励まし合ったり、抱きしめたり、友達として関係を築いていけた。

 

 わたしは生まれ変わりたい。この場所では無理だとしても、人として生きてみたい。

 

 笹井絽薫が好き、三咲凛花、新座明歩、福居昇流、坂戸輝紀、山吹原高校、この街、そしてパパ、ママが好き。

 忘れたくない。

 離れたくない。

 ここにいたい。

 絡まったあやとりの毛糸のように、心がうまく解けない。引っ張れば引っ張るほど、硬く結ばれていくように感じた。


「そろそろ帰る?」

「うん」

「行こ」

 立ち上がった絽薫くんが手を差し伸べてくれた。

「うん」

 笑顔で手を掴んだつもりだった。

「えっ? どーしたの?」

「んっ?」

 何を言っているのかわからなかった。驚いた表情だったものが、心配する表情へと変わった。絽薫くんは手を握ったまま座り直した。

「俺、なんか変なこと言った?」

「言ってないよ。どー……?」

 聞かなくてもすぐにその理由がわかった。頬を伝う温かさがゆっくりと腕に落ちた。目尻を触れると涙だった。

「なんでかな? フフッ、ごめんね。何でもないんだよ。何でもないのに……」

 言い訳をするように『何でもない』と言おうとすると涙が止まらなくなった。

「百彩ちゃん」

 優しく抱きしめてくれた。大きくて温かくて、絡まった心が解けていくようだった。余計に涙が溢れてきた。

「ごめん、俺、何て言ったらわかんなくて。情けなくてホントごめん。でも、気の済むまで泣いていいから。ずっと抱きしめてるから、……嫌じゃなかったらだけど」

「いやじゃない、いやじゃないよ」

 言葉なんていらなかった。ただ、抱きしめてくれるだけでいい。絽薫くんを、絽薫くんの温度を、絽薫くんの匂いを、絽薫くんの息遣いを直に感じられる。

 一〇分、一五分どれだけこうしていたかわからない。涙が止まり、落ち着いた。絽薫くんの胸から離れ、目を見つめた。

「ありがと」

「うん」

 横を向き座り直した。

「ごめんね、急に」

「ううん、俺いつでも側にいるから。辛いとき、寂しいときずっと隣にいるから」

「うん、嬉しい。ずっと側にいて」

 また涙が溢れそうになるのを抑えた。深呼吸してピョンっと立ち上がった。笑顔で絽薫くんを見た。

「行こっ」

 手を繋ぐために絽薫くんの前に右手を出した。

「うん」

 当たり前のようだった。いつも手を繋いでいるかのように自然な雰囲気だった。

 歩く横顔がたくましかった。

 きっと大丈夫。わたしことを忘れられる。

 何でもないこの時間が大切で、必要で、かけがえのないもので、何にも変えることなんてできないんだと、そんな思いが心の奥まで染みてきた。

 青、水色、白、オレンジ色、茜、紫、紺、空の見せるアートのようにひとつも同じものなんてない。眩しくて煌めいて、複雑で、ときには厄介で、でも、すべての色、さまざまな形があるからこそ輝いている。

 わたしはそんなひとりになれていたのかな?

 人として歩いていたのかな?

「送ってくれてありがと」

「うん、また。ROWするね」

「うん、わたしも」

「じゃあね」

「バイバイ」

 絽薫くん、まだ早いけど先に言うね。当日は言えそうにないから。

「さよなら」

 聞こえていなくても言っておきたかった。自分の中でのケジメとして。

 また、頬に涙が伝ってきた。自分はこんなにも泣き虫なんだと今更、知ることもできた。

 絽薫くんの後ろ姿を見ていた。本当に大きいなと思った。あのときはまだ小学生だったけれど、何も変わらない絽薫くんなんだと、嬉しかった。

 

 神様こんな経験をさせてくれて、本当にありがとうございます。

 夏が終わるまでのあと少し、葵百彩として精一杯生きていきます。

 

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