明日の恋
「もっちゃんが行きます!」
「えっ?」
「任せて、ちょっとでも一緒の時間作ってあげるから」
新座明歩が、耳元で誰にも聞こえないように、小声で話してきた。何のことを言っているのか、わたしには理解できない。何か、お節介を焼こうとしているのはわかる。それが何なのか、何が目的なのか、意図を示さない。でも、悪い印象ではなくて、ときどき思う、こういうところってかわいいなって。
県大会へ向けての合宿の初日、布団業者から布団を受け取り、男子の合宿場所、女子の合宿場所、それぞれに振り分けた。そのままランニングなど基礎的なことをやる予定が、急遽、地区大会のDVDが手に入ったということで、練習場で【明日の恋】鑑賞をすることになった。
そのため、布団業者に代金を支払っている笹井絽薫と福居昇流を、誰か呼びに行ってほしいとなった。
「じゃあ、葵ちゃんよろしくな」
「はい」
その一言で、練習場へと移動を始めた。
「もっちゃん、ふくすけのことは無視していいからね」
「どーして?」
「もう、もっちゃんの態度見てればわかるから。本当はロカオンこと好きなんでしょ? 任せて、うちが恋のキューピットになってあげるから」
「えっ? わたしはそんなこと……」
「もっちゃん、うちを信用して」
「えっ? あっ、うん」
明歩は手を振り、前を歩く部員たちの元へと駆けて行った。
自分の気持ちはわかっているつもり、それでも、急に好きなんでしょ? なんて言われると、突風が吹いたかのように、足元が揺らいでしまう。でも、鼓動が早くなるのを感じた。
いつもと何も変わらないと、心の中で繰り返しながら、ふたりのところまで急いだ。
渡り廊下を歩いていると、正門の前に絽薫くんと福居くんが見えた。深呼吸をしてゆっくりと歩いていたら、東側から榎園愛夏がふたりのもとへ走っていくのが見えた。
福居くんは正面下駄箱に走って行ったけれど、絽薫くんはなんだか楽しそうに話しているようだった。
脈拍が全身に反響しているように感じた。気温よりも体温が熱くなって、呼吸を乱す。別に悪いことをしているわけではないのに、ふたりから見えないようにと、影になる場所まで下がった。
あの時は、何も思わなかったのに、今は違う。テスト前に絽薫くんとコンビニに行ったとき、もう一度お礼を言おうと絽薫くんを追ったら、榎園さんと楽しそうに話していた。邪魔をしたらよくないと思い、そのまま帰った。
絽薫くんのバカ……そんな思いが心に浮かんできた。言われたから来ただけなのに、わたしは何を期待しているのだろう。
好き……目を閉じて心の中で考えた。
☆ ☆ ☆
「山吹原高校、明日の恋」
ビーという音の後に、緞帳が上がる。舞台の
「明日からは別々なんだね」
「ああ」
「既読スルーなしだからね」
「しねーよ」
「毎日電話する?」
「ああ、なんならビデオ通話だっていいし」
「そっか……ねえ、また会えるよね?」
「ああ」
それぞれ、前を向いたまま会話をしている。
「じゃあ、ほら約束」
女子学生が小指を立てて手を前に出している。
「えっ? なんだよ?」
「ゆびきりげんまん、知らないの?」
「いつの時代だよ」
「ゆびきりに時代なんて関係ないよ。ねえ、ほら」
「わかったよ」
男子学生も小指を立て、手を前に出している
「ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーますゆびきった」
最後の台詞と被るように、暗転した。ゆっくりと舞台の下手半分くらいが照明で照らされていく。下手に二台の開帳場、その後ろは上手から下手まで平台が伸びている。
照明の加減や、小道具、音響で同じセットが場所を変えていく。
開帳場の下の方に腰掛けてスマホを見ている。そこに音声が入る。
『既読にすらならないなんて、なんだか呆気ないな。引っ越して離れ離れになったらそんなもんかよ』
もたれかかるように寝転がり、上を見ている。五拍ほどの沈黙のあと、ブーブーとスマホの振動音が流れる。舞台の奥にメッセージの画面が映し出される。
{結城くん?
何だよ おせーよ}
{あたし美与じゃなくて由真なんだけど
由真ちゃん? どーしたの?}
メッセージをやりとりしていると、部屋のドアをノックする音と開閉音が流れた。
「お兄ちゃんごはんだって」
下手から声がした。
「わかった、すぐ行く」
声の方を向き返事をしつつ、スマホの画面に目をやる。
{あのね 結城くんには言ったほうがいいと思って
何? 美与が浮気してるとか? 連絡ないからおかしいなって思ってたんだよな 笑}
{違くて あのね お姉ちゃん事故にあって それから命に別状はないんだけど まだ意識が戻らなくて
何かに突き動かされるように立ち上がり、一瞬の沈黙のあと、スマホが手から落ちた。
「みよ」
恐怖や痛み、哀しみとほんの数パーセントの期待が入り混じった一言だった。
舞台の全体に照明が照らされていくと同時に、軽やかでステップを踏みたくなるような音楽がフェードインで流れる。音響とキャストの見せ場のひとつ、流れる音楽がカットアウトされると同時に台詞を言う。何回も合わせて練習していた緊張の瞬間が、ピシッ! と決まった。
「おい、結城も手伝えよ!」
上手から男子学生が大きな声で机と椅子を抱えて持ってきた。場転をして部屋から教室になった。
「わりー、今行くよ」
「結城、ブレザー忘れてたよ」
「美与、ありがと」
「うん」
ふたりは左右の真ん中に駆け寄り、三秒ほど見つめ合っていた。
「はいはい、惚気はあとでいいから机と椅子戻すの手伝えよ」
「あいよ」
今度はスピード感のある音楽が流れ出し、机と椅子を並べながらダンスでパフォーマンスを始めた。授業中、生徒たちの心のアップダウンを表現している。机はちょうど緞帳の降りてくる位置に、横一列で並べられた。椅子に座るとともに、音楽が止む。
「ここはテストに出すからしっかり覚えとくように」
先生の声が音響で流れる。生徒役はみな前を向き、先生は前にいるという過程だ。
え~、難しいよ~などと文句の声が飛び交う。
「ちゃんとノート取れよ~」
キーンコーンカーンコーン、終業のベルが鳴る。
教室、部活、公園や堤防沿いなど違和感を感じさせず、場転をしていく。
リアルな高校生の日常に、恋という誘惑のスパイスを漂わせながら、ストーリーが進んでいく。片想いだったり、三角関係だったり、大人とガキンチョの間にいる高校生たちが、自分の進むべき道を模索しながら、全力で前を向き歩いていく。誰もが通る道[今]を生きている。
話は終盤に差しかかる。
「結城くん、おばさん荷物取りに行ってくるから、ついててもらってもいい?」
「はい」
「じゃあ、よろしくね。もし何かあったらナースコールしたら来てくれるから」
「はい」
病室のシーン、真ん中より少し上手側にベッドが置かれ、舞台の三分の二程が照明に照らされている。
数分の沈黙、ベッドに寝ている美与の手を握り締めながら、結城が俯いている。啜り泣く声がする。
「みよ、みよ」
顔を上げ美与の顔を見つめる。
「明日からいないのかって、ひとりで何したらいいんだって……東京に行きたいって思ってたけど、まさかこんなに早く行くことになるなんて思ってなくて……でも、明日も美与の声が聞けるし、顔だって見れる。触れることはできなくても、ずっと繋がっていられるって、だから大丈夫だって思ってた。それなのに、それなのにこんなことってあるかよ、目覚ましてくれよ、みんな美与のこと待ってるから」
涙を流しながら、美与の手を強く握った。一分ほどそのままだった。
涙を拭い、立ち上がり、顔をゆっくりと覗き込んだ。
「かわいい顔して寝てるな、野外学習でバス乗ったときも、同じ顔して寝てたよ。ほんとに可愛くて、そのとき美与しか勝たんって思った」
頭を優しく撫で、少しの間見つめていた。涙が溢れ出し、下を向き強く拳を握りしめる。
「明日、また明日って恋してたから、満たされてた」
再び美与の手を握りしめた。
「好きだよ美与、大好きだよ。美与がいない明日なんて考えられない」
上を向く、結城にはその先にある空が見えていた。
「……神様、俺たちの明日の恋、奪わないでくれよ、どうか、美与を、美与を助けてください」
祈るように目を閉じ、上を見た。一分ほど経つと握りしめていた美与の手が、かすかに動いた。サッと手を解き、指の動きが伝わった手をマジマジと見る。
唖然としつつも、その奥に秘められた喜びや期待が、ひしひしと伝わってくる。主人公を演じた宮市康介の演技が、舞台だと忘れさせるくらい、この情景に引き込まれた。
「ゆうき」
空気に飲まれてしまいそうな、ゆっくりとした声が、耳へと伝わってきた。
「美与? 美与、俺がわかるか?」
「ゆうき? ここでなにしてるの? わたし……」
事故にあったこともわかっていないようだった。
「美与、よかった。本当によかった」
「なにないてるの?」
「泣いてないよ。ちょっと待ってろよ、看護師さん呼ぶからな」
ブー、とナースコールを押す。どうしました? と看護師の声が聞こえる。
「美与が美与が目を覚ましたんです。早く来てください!」
「あたしがめをさました?」
「何も心配しなくていいよ。先生がちゃんと観てるれるから」
「ゆうきないてるの?」
「泣いてるよ。泣いたっていいだろ?」
「ふふふ、かっこわる」
「かっこ悪くねーから」
泣き顔に満面の笑みが溢れる、閉じていた窓が開き、眩しい光が差し込むように。
心地いい音楽が流れる。緞帳がゆっくりと降りてくる。終わりだと思い胸を撫で下ろしていると、突然舞台ギリギリのところまで結城が走ってきた。
「俺たちの明日の恋はずっと続く!」
大声で叫び、戻っていった。
そして、幕が降りた。
☆ ☆ ☆
「みんなこれ以上だぞ!」
「よかったって俺も思った、だけど、これだけじゃダメなんだよ。もっと表現もそうだし、立ち回りの仕方、しっかり作り込んでいかなきゃな」
「俺ももっと結城の気持ちを理解して表現しなきゃなって思った。幕間でもよかったって言われることが多かったけど、そういうとこに甘えちゃいけないし、俺たちならもっと上にいけるはず」
部長の本田先輩、副部長の大山先輩、主役を演じる宮市先輩がそれぞれ意気込みを語った。部員それぞれがその言葉に触発され、一気に空気が熱を帯びたように感じた。この勢いのまま一回通すか⁉︎ っとキャストは発声や柔軟を始め、急いでバミりなど、小道具を用意して通し稽古が始まった。
県大会は地区大会の劇場よりも舞台が広くなっている。立ち位置や動きなど、それに合わせて修正していかなければならない。演出や舞台監督が、通し稽古をしながらたくさんメモを取っていた。それを横目に見ながら、音響担当の絽薫くんは頷いたり、考えたり、先輩たちの言葉に聞き耳を立てていた。
熱心に聞き入る姿が何だかかっこよかった。一生懸命、先輩たちに追いつこうとしているんだなと、真剣さが伝わってきた。
別に声をかけたわけではない、ジッと見ていただけ、何も言わずに。こちらの視線に気付いたようで、振り向くと目が合った。たったそれだけのことで、心が熱くなった。わたしだけがなぜだか気まずくて、つい目を逸らしてしまった。嬉しいのに、どうしてうまく伝えられないのかな? 何かできないのかな? そんなことを思いながら、また目が合った。今度は見つめたまま、周りに聞こえないようにがんばってと口だけ動かした。ちゃんと伝わったようで、がんばるよと同じように口を動かしてくれた。
火がついたように熱くて痛かった心が、じんわりとホットココアのような甘い香りを漂わせ、心地いい温もりに変わっていく。
わたしの明日の恋はこの舞台のようにずっとは続かない。絽薫くん、わたしは何ができるのかな? あなたを見守るためにここにきたのに、あなたを求めている。
ちゃんと言わなきゃいけないのに、言いたくない。
せめて今が思い出に残ればいいのに。
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