星空とアイスクリーム

「ただいま~」

 ドアを開けると、誰もいない玄関に条件反射のようにこの言葉が出てくる。靴を脱いだら揃える。子どもの頃からの習慣だ。祖母がまだ生きていた頃は、それだけで褒めてくれた。少し、懐かしさに浸りながら、自分の部屋へ行こうとしたとき、母親がリビングのドアを開けて出てきた。

「おかえり~」

「ただいま」

「あんたさ、忘れてないよね?」

「えっ? 何を?」

「もう、やっぱり忘れてる」

 そう言いながらキッチンに戻っていった。何のことなのかさっぱり思い出せずに、とりあえず部屋にバッグを置き、何のことか聞こうとリビングに行った。

「手、洗ったの?」

「今から洗うよ」

 笹井家はこういうことにうるさい。靴を揃えるだけじゃなくて、部屋の掃除や整理整頓、外から帰ったら絶対に手洗いとうがいをさせられる。中学生の反抗期真っ只中のときは、うるせーだの、ダルいだの言ってやらなかったりもした。でも、たまに洗うとありがとって言われた。お前のためにしたわけじゃねーから、なんてことを言うと、お前は余計だって怒られていた。今となれば生意気なクソガキだったなと思う。まあ、今もそんなに変わらないのかもしれないけれど。

「でっ? 何、忘れてるって」

 手を洗い、タオルで拭きながら聞いた。

「ちょっとそれ、食器拭く用だよ」

「えっ? ごめん。紛らわしいよ」

「はっ? 後で洗濯かごに入れといてよ。じゃなくてさ、明後日から和歌山のおじいちゃん、おばあちゃんとこに行くって言ったよね?」

「……ヤベッ! 忘れてた」

「やっぱり……。行かないとかないからね」

「えっ? おかんたちだけで行ってきてよ」

「何言ってんの? お母さんは仕事だし、お父さんも仕事。言ったでしょ? あんたがお盆は祭りとか遊ぶ予定があるから行くなら前倒しでって」

 ……言った、確かに言った。部活のことで頭がいっぱいだったから何となくで答えていただけだ。

「お母さんとお父さんはお盆休みに入ってから行くから、あんたたちとは入れ替わり」

「って言ってもさ……はっ? あんたたちって言った?」

「言った」

「えっ? 何で? 俺に子守させる気?」

 そんなことを言っていると、リビングのドアが開いた。一瞬、突風でも吹いたのかと思うくらいの、勢いと音がした。弟の磨都が入ってきた。

「兄ちゃん、子守とかなくない? 今、俺、中一だよ」

「そんなの知ってるよ。だってお前小学生のときと何も変わってないじゃん」

「はっ? イケメンだからってちょずくなよ」

「まと、あんたもイケメンになる顔してるよ。お母さんが言うのもあれだけど」

「もういい。兄ちゃんと一緒に行くから」

 そう吐き捨てそそくさとリビングから出ていった。普通、そういう場合って一緒に行かないからって言うんじゃないの? と頭を傾げてしまう。

「あんたとは違うんだよね。いつになったら反抗期くるんだろ?」

「さあ?」

 うちは、両親が共働きだ。俺が小学生の頃は父方の祖母がごはんを作ったり、家事をしてくれていた。けれど、中学に上がってすぐ、突然亡くなってしまった。祖父がなくなったのは小学低学年の頃で、死についてあまりよくわかっていなかったからか、泣いた覚えはなかった。でも、中学生は違う。昨日まで元気で一緒にテレビを見たり、ごはんを食べたり、当たり前にある光景だと思っていた。だから、何も感謝の言葉なんて言えていなかった。

 葬式のときは頭に何も入ってこなくて、人の会話なんて聞こえてくるはずなかった。家に帰り、自分の部屋で着替えをしているとき、急に涙が出てきた。もう、いないのかと、もう、声を聞くこともできないのかと……そう思うと声を出して泣いていた。

 これからも当たり前という日常が俺たちにはある、泣いてばかりはいられなかった。

 母に心配をかけたくないし、仕事も続けてもらいたかった。だから、俺は部活から帰ってくると、ごはんを作ったり、弟の磨都の宿題をみたりと、世話を焼いていた。

 中学生の反抗期もそれなりにあり、母親と揉めたり、話さないときもあった。それでも、負担を軽くしようと、自分なりに一生懸命に動いていた。そのせいもあってか、磨都は俺にベタベタ甘えてくる。中学生になった今でもそれはあまり変わらなくて、こいつはちゃんと男なのかなと疑問に思ってしまう。私は女になりたい! なんて言われたら驚いてしまうけれど、俺は個人を尊重しようと思っている。

「まっ、よろしくね! ちゃんと、まとのこと見ててね」

「えっ? ……わかった」

 今年は母の実家に行くのを年末だけにしようと思っていたけれど、仕方ない。磨都が一緒に行きたいと言うなら、行ってあげるのがお兄ちゃんだ。それに、年に二、三回しか行ってあげられないわけだし、行けるときに会いに行かなくちゃ、また後悔するのは嫌だから。

 部屋に戻ると、ROWでメッセージを送った。明後日から二泊三日で和歌山の祖父母の家に行くことになったと。合宿中、六人でごはんを食べに行ったとき、ROWのグループを作っておいたので、そこに送信した。みんなから楽しんでね、お土産待ってるねというメッセがきた。りょ、と一言だけの返信をした。お土産なんて、駅で新幹線に乗る前にササっと選ぶだけだから、みんなの想像しているものは、きっと買えないと思う。そんな中、百彩ちゃんだけは気をつけてね、おじいちゃんおばあちゃん孝行してきてね、と俺のことを気遣ってくれた。

 今度会えるの楽しみに待ってるね。……百彩ちゃんからグループではなく、個人でメッセージが届いた。本当に百彩ちゃんなのか目を疑ったけれど、何度見ても送信元は百彩ちゃんだ。心臓が火山のように噴火しているみたいだった。マグマじゃなくて血液が流れ出している、鼻から。……鼻血だ! 急いでティッシュを詰めた。エロい想像をしているわけでもないのに、何で鼻血が出てきたのかわからない。でも、部屋にいるときでよかった。メッセージじゃなくて実際にみんなといたら、何エロいこと考えてんだよ、とイジられていたはず。ふ〜っと胸を撫で下ろす。新しいティッシュを鼻に詰めて、俺も今度会えるのが楽しみだよ、とメッセージを送信した。

 荒々しく部屋のドアをノックされたと思ったら、磨都が入ってきた。

「入っていいって言ってない」

「はっ? ごはんだけどいらないなら……」

 スマホを見ながら、鼻にティッシュを詰めた俺の姿を見て、磨都が少しうろたえているようだった。

「ご、ごめん。その、最中だったって知らなんかったから……」

「はっ? ち、違うから」

 磨都も中学生ってことは、男子のムフフな事情を知っているのだろう。たぶん、それと勘違いしている気がする。

「別に、言うわけないから、どうぞ、続きを」

 そう言うと手を差し伸べ、颯爽とドアを閉めて出ていった。違うと言いかけたのに、全く耳には入っていなかったんだと思う。

 今度から磨都の部屋に行くときは、気をつけようと思った。弟のそんな姿見たら絶対笑いそうだけれど、決して見たいわけじゃない。


 プルルル〜と発車のベルがホームに鳴り響く。席に座りながら外を見ても、自分たちを見送りに来ている人がいるわけではないので、もちろんこちらに手を振る人はいない。けれど、なんとなく見てしまう。

 ホームを過ぎた辺りで、ふ~っと深呼吸をし前を向く。乗車する前に買っておいた駅弁を開け、早速食べようとしていたら弟の磨都がボソボソと喋りかけていた。

「……兄ちゃんってば!」

「えっ? 何? こんなとこで大声出すなよ」

 耳元で雷のような声が響いた。右耳を人差し指でくしゅくしゅと掻いた。

「だってさっきから兄ちゃんって呼んでんのに無視するから」

 膨れっ面がまだ小学生のようにあどけない。

「無視っていうか、お前がボソボソ言ってるからわかんなかっただけだよ」

「はっ? ……あっそ」

「なに?」

「えっ? いや、その、なんて言っていいか……」

 俯きまた、ボソボソと言い始めた。

「話がないなら弁当食べるから」

「じゃあ、食べながらでいいよ」

 何かを考えているのだろうか、下を向いたままシュンとしているようだった。何だろうと少し心配になったけれど、喋りたくなったら喋るだろうと弁当を開けて食べ始めた。

「コクラレタ、告られた!」

 いきなりのサプライズだ。驚いた勢いでごはんが喉の奥に入ってしまい、咽せて咳き込んだ。

「はっ? どーゆーこと?」

「だから、告られた。どーしよー?」

 俺の目をしっかり捉えて、訴えていた。その瞳にはじわりと涙が見えた。これはちゃんと話したほうがいいやつだなと思い、ちょっと待ってと急いで弁当を食べ、お茶を口いっぱいに含み、喉の奥へと一気に流し込んだ。

「フ~、でっ? 告られたんならよかったじゃん」

「それが、よくない」

 心なしかやはり元気がないように見えた。 

「なんで? 嫌いなの?」

「そーゆーわけじゃなくて」

 なんだか少しじれったいが、不躾な言い方で聞くのも気が引ける。ここは、弟のペースに合わせてやろうと覚悟をした。

「じゃー、どーゆーわけ? 好きなら付き合えば?」

「何でそーなるんだよ? 言わなきゃよかった」

 意味がわからない。理由も何も言ってくれないのに、こちらにどうしろと言うのか困ってしまう。相談に乗ってほしいなら、もう少し詳しく話してくれないとアドバイスのしようもない。と、言っても自分自身もそんなに恋愛経験が豊富なわけではないから、大したことは言えない。

 窓の外を見てムスッとした態度に、こちらが腹立たしくなってきた。せっかく話を聞いてやろうと思っていたのに。

「じゃ、勝手しなよ」

 突き放すようにトゲトゲしく言った。その後、和歌山に着くまで一言も口を聞かなかった。スマホでゲームをしたり、音楽を聞いたり、退屈な時間をやり過ごしていた。

 和歌山に着くと、駅まで祖父が迎えにきてくれていた。手を振る祖父に、改札からじいちゃーん! と叫ぶように言い、駆け寄りながら手を振り返した。ニコニコと嬉しそうな顔を見ると、こちらも自然と笑顔になる。

「絽薫、少し痩せたか?」

「そう? サッカー辞めてから筋トレする時間少なくなったからかな? それよりじいちゃん元気そうでよかった」

「まあ、俺もまだまだ現役バリバリよ」

「現役って……」

 思わず吹き出した。

 どこまでも続く空の青、時より雲がゆるりと流れてくる。ほんの数秒外に出ただけで汗が吹き出して、体が溶けているみたいだった。

 祖父自慢の4WDの車に乗り込み、快適な車内とエアコンの涼しさに癒される。

「明日は海行くよ。ばあさんも連れてな」

「じいちゃん、まだ泳げるの?」

「あたりまえだのクラッカーよ」

「んっ? じいちゃん、クラッカー?」

「まと、たしか昔のギャグだよ」

「ギャグなの? あたりまえのクラッカー?」

「あたりまえだのクラッカー」

「あたりまえだのクラッカー」

「名古屋に帰ったら流行るんじゃないか?」

「じいちゃんじおだよ」

「じお? 塩でも持ってきたのか?」

 久しぶりに会った祖父に和まされ、楽しいドライブになった。来てよかったなと思った。大学生、社会人になってもこんな変わらない祖父でいてほしいと思う。


「ごはんだよー」

 祖母が和歌山で取れた食材で料理を作ってくれた。一汁三菜ではなく、一汁五菜だ。イノブタのすき焼き、ホロホロ鳥の刺身、なんば焼き、熊野牛の梅ソースかけ、採れたて野菜のサラダ、アマゴの味噌汁、主食はしらす丼、左右どこからもよだれの溢れる匂いが湧き出している。どこかの料亭に来たかのようだった。

 何人前あっただろうか、成長期のふたりにはまずまずな量だった。片付けを手伝っていると先に風呂に入ってこいと、磨都と風呂に入ることになった。磨都がまだ、小学生だったころはよくふたりで入っていたけれど、中学生になってからはさすがに入らなくなった。祖父母の家ということもあり、一緒に入るのも悪くない。

 久しぶりに磨都の背中を流した。中一だと言うだけあって、小学生の時よりか体が締まっていて筋肉がついているようだった。

「兄ちゃん」

「なに?」

「俺、みーこのことが好きなんだ」

「みーこ? 告ってきた相手?」

「うん」

「付き合いたくないの?」

「——付き合いたい……でも」

 どうやら磨都は、三角関係に悩んでいるようだ。親友だという緒方裕樹に、自分が言うよりも先に、みーここと中原美衣が好きだと相談され、その時は曖昧に答えたらしい。本人の性格上、嘘をついたり、隠し事をしたりするのが嫌なようだ。さらに、自分はみーこから告白されていて、その返答を待ってもらっている状態だ。もちろん、親友のために。

 みーこと付き合いたい、親友とも今のままいい友達でいたい。二兎追うものは一兎も得ず。都合よくうまくいかないのが、恋愛と友情な気がする。俺自身、そんな状況になったことがないから、俺ならこうするとしか言えない。

「緒方くんに自分の気持ちをちゃんと話したほうがいいよ。俺もみーこが好きなんだって」

「絶対、喧嘩になる」

「その時はその時だよ。ホントに親友ならわかってくれるかもだし、それで終わる友情なら先なんてないよ」

「…………」

 ドラマやらマンガやらでこんなこと言っていた。自分自身でも本当にこんなシチュエーションになったとしたら……実際のところ、どうなるかはわからない。でも、言っていることは妥当だと思うから、自分なりの言い方で話してみた。あとは磨都が決めることで、これ以上は口出しできない。

「先出るから、ゆっくり考えなよ」

「うん」

「のぼせるなよ」

 いつまでも小学生みたいだと思っていたけれど、ちゃんと中学生しているんだなと、安心した。

 風呂から上がると、祖母がアイスクリームを用意してくれていた。縁側に座り、降り注いできそうなくらい輝く星を眺め、アイスをひと口、ひと口と頬張った。エアコンや扇風機の風よりも、体の中に冷たさが染み渡るこの瞬間が、アイスに溶け込んでしまうかのようで、気持ちよくて最高だ。

 ここなら友達を連れて、軽い旅行気分が味わえるかもしれない。今度みんなを連れてこれたらいいな、なんてことを思いながら、星空の写メをROWに送信した。

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