しがない青年探偵が、村娘の依頼を受けた結果、銀髪の美少女と出会う話
人生ノーヒットノーラン
第1話 出会い/ハングリー・ハート
このオフィスの唯一の使用者にして主人、
彼の事務所が入っている、ビルヂングふろゐどの構造上のミスだった。
だからここは、おそらくその持ち主の希望通りではないだろうが、格安で事務所を貸している。
それが彼がここに事務所を構えられた理由だ。
今は昼ごろ。籠った空気が纏わりつくような湿度で、舞っている埃ともども彼を蒸し焼きにしてしまうような暑さだ。
スーツしか持っていないことが、その苦しさを加速させる。
シキは、これまた唯一の仕事用机に突っ伏しながら、なるべく熱量を消費しないようにじっとしていた。彼はここ二日、食事を取っていない。理由はこれ以上ないくらい単純で、なにか食うための金すらないからだ。
彼は探偵だった。
探偵は、依頼がなければ飯は食えない。
仕方なく探偵をやっているのも、学もなく、愛想も無い彼を、誰も雇ってはくれないからだ。
最近の仕事といえば、一週間前の猫探しで、それも一食分で丸二日探し回る羽目になったのだ。
そもそも、彼のもとには、あまり依頼がこない。ツテも無い。
そうすると、待っているのは爪弾き者、除け者という烙印だけだ。いや、その烙印は、ずっと前から押されていたもので、それがようやくハッキリしただけ、と言った方が正しい。
そんな社会の除け者になった後は、簡単だ。誰もやりたくない仕事ばかり、とてつもない安値で投げられる。
そんなわけで、今のシキは、死なないようにギリギリで管理されている家畜のようなものだった。
それに文句をつけようにも、彼にはその力は無い。
近所に住む連中以外に、依頼人がいないわけではないが、この事務所まで辿り着く方が少ない。
だから彼は、大抵生と死の狭間を彷徨っている。
やがて、彼にその空腹が紛れる程度の眠気が襲ってきた。
ここで一眠りするのも、食事の必要性が少しばかり薄れて、得かもしれない。結局、なんとかして明日も生きなければならないのだ。
そう納得した彼が微睡に沈みそうになった時、ガシャン、と大きな音を立てて事務所の扉が開かれた。
その音に、彼は飛び起きて、姿勢を正す。仕事をしている、というポーズだった。いつか、どこかでそんな本を読んだことがある気がしていた。
扉の方を見やると、そこには大きな風呂敷を抱えた村娘が一人。素朴な感じだが、美人だと言えるだろう。微妙に幼さの残る顔立ちだから、可愛い、の方がより良い表現かもしれない。
もう少し洒落た服を着て町を歩けば、すぐにでも通りを席巻できるはずだ、とシキは考えた。
しかし、裾が土で汚れたままの和服を着た若い女は、いくら素材が良くてもダメだろう。華の東京、しかもその中心ではなかなか見ない装いだ。
田んぼ仕事を終えて直接ここへとやって来たか、途中で転けたか。少なくとも、火急の用であることはわかる。なんにせよ、最近依頼が全くなくて食いっぱぐれていたシキにはありがたい限りだった。
女がまだ扉の前で大きく息をしているので、シキは、手をやってソファに座るよう促す。
彼女もソファも、同じくらいくたくただ、とシキは思った。
「ご用件は?」
と、彼は抑揚のない声を発した。もう少し掠れていれば、死人の呼び声と勘違いするほどのものだ。
ソファにゆっくりと腰掛けた女は、あらためて見ると十五、六歳過ぎくらい。和服は色褪せていて、使い込まれていることがよくわかる。もしかしたら、誰かのお下がりかもしれない。
コップになみなみと注いだ水を机の上に置いた。
茶葉などと言った高級なモノは、ここにはなかった。
「……ありがとうございます」
彼女は言って、水を飲み干した。コップを机の上に置いたが、まだ落ち着かない様子だ。だから、シキは彼女が話し出すまで待つ。探偵事務所に用のある人間は、地元の人を除けば、大抵、言いにくいことがある者ばかりだからだ。
やがて、女はおずおずと切り出した。
「あの、アタシ、蔵前ルエって言います。依頼があって、きました。驚かないで聞いて頂きたいんですが……。」
ルエと名乗った女は目を伏せながら、なおも遠慮がちな口調で続ける。
「村に、バケモノが出たんです」
シキは彼女の目を見て、話の続きを促す。
「やっぱり、驚かれないんですね」
ルエは自信がなさそうに言った。シキは喋らない。
「あの、黙っておられては困ります。依頼、お受けしてくださるんでしょうか」
シキは椅子から立ち上がって、扉の前へと歩き始める。
答えは、端からきまっていた。
「案内してくれ。その手の依頼は、行ってみないと何もわからん」
シキが口を開くと、ルエは、ようやく緊張を解いたようだった。
それを気もとめず、扉の前のスタンドに掛けられたステッキを彼は拾った。
出発の準備はこれで終わりだった。
「長い杖ですね」
シキは彼女に振り返る。
「僕のこと、誰から聞いた? まず、警察か憲兵にでも相談すべきだろう」
彼女の想像とは違う返答が返ってきたからだろう。
彼女は少し目を見開いたが、やがて、右上に目をやった。
「最初はそうしたんですが、地元の交番では取り合ってもらえなくて。こちらでも似たようなものでした。途方に暮れて帰路についていたら、憲兵さんがお一人、通りかかったんです。その方にご相談したら、ここを教えて下さったんです」
シキは舌打ちする。
「そいつ、なんて言ってた?」
「えっと、ただエムと言えばわかる、と」
「……やっぱりか」
「お知り合いなんですか?」
「知り合いたくはなかったよ」
シキはそこでエムの話題を切り上げる。
とにかく、彼女に聞かなければならないことはいくつかあるし、言わなければいけないこともある。シキは、その言葉たちを優先度の高い順に並び替えてから、口を開く。
「そいつが関わったってことは、僕はキミから報酬をもらえない。ただ……」
「……ただ?」
と、ルエが首をことんと傾げた。
「何か食べ物、持ってないか?」
それが優先順位の二番目だった。
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