コーヒーにうるさい兄
「そんな不味いコーヒーを飲むな」
が兄の口癖だった。
兄はコーヒーにうるさい。朝わざわざ俺と同じ時間に起きて、俺に朝食を押し付け、俺がパンをコーヒーで流し込むのを見て文句を言う。文句を言うためだけに日の出前に起きてきてるなら大した根性だ。
うるさいわりに兄がコーヒーを飲むのを俺はここ数年全く見ていない。兄が口だけ野郎というわけではなく、病気でコーヒーを飲めない体になったのだ。だから怒っているのかもしれない。俺がもう飲めないのにお前は、と。
別に俺だってひどいコーヒーを飲んでいるわけではなく、粉を湯で溶くインスタントコーヒーを飲んでいる。普通だ。朝は忙しいし眠いんだからゴリゴリ豆を挽いたり丁寧にドリップなどしていられない。
「ごちそうさま」
兄の小言から逃げるように俺は家から出た。眠い。眠い。コーヒーが足りていないのかもしれない。
案の定、昼間も眠かった。
テメェ大石そんなに眠てぇなら家帰って寝ろやる気ないやつなんかいたってしょうがねえんだよ、と上司が唸っている。はいすいません、となるべく大きな声で返事をした。帰れるものか。金がいるのに。眠気を紛らわすため頬の内側を噛みながら俺は封筒を宛先ごとに割り振っていく。
病気は兄のインドア派を加速させた。今ではほとんど家から出なくなっている。一応、外に出なくてもできる仕事をしているらしいが、兄によほどのスキルがない限り稼げる額などたかが知れているだろう。
俺がその分稼ごうと思っていた。
当然のように夜も眠い。
大丈夫なの大石くん最近顔色も悪いしクマもあるし無理しないで何かあったらすぐに言ってね、と上司が眉を下げている。はいすいません、と返事をした。「何か」ならもうとっくにある。兄が病気なのだ。俺はふらつかないように足に力を入れながらレジのレシート用紙を交換する。
スーパーマーケットで働くと休憩中に買い物もできるのが便利だった。夕飯は野菜炒めにしよう。
「それくらいの金額、俺が出すって言ってるだろ」
兄にこういうことを言われるのが一番嫌いだ。コーヒーに文句を言われるより嫌いだった。なんの問題もない、二人だけの夕飯の時間だったのに。冬は電気代が高くなる、なんて言わなければよかった。
「うるさい」
俺は苛立っていることを示すべく、短く、低く兄にそう言った。
「金くらいある。使えよ、お前がそんな働かなくたって、」
「うるさいって言ってるだろ」
配送仕事の上司みたいに大きな声で威嚇する方法を、俺は知らなかった。兄は気まずそうな顔をしただけで、怯んでもなければ反省してもいない。
こんなことを言ってくる兄は嫌いだった。俺の稼いだ金をいらないと言う。それはつまり俺なんかいらないってことじゃないのか。
小さい頃の俺を育てたのはほとんど兄だった。あの頃の俺には兄しかいなかったし、兄は毎日どこかで働いていた。インドア派のくせに。体が弱いくせに。
兄が病気で倒れた時、俺のせいかもしれないと思った。そんなわけないと信じ込もうとしたし、兄もお前のせいじゃないと言ったが、でも、俺のせいでもあるはずだった。
だったらもう仕方ないからせいぜい勝手に恩返しをするのだ。兄が俺を養ったように俺が兄を養うのだ。どうしてそれを否定されなきゃいけないのだろうか? 俺の稼ぎが少ないせいなんだろうか?
「俺のためを思うなら、やたら働くんじゃなくて、たまにはゆっくり休んでその顔色なんとかしろよ」
俺の存在も、俺の仕事もいらないと言われている気分だった。
「お前がいてくれればいいよ」
うるさい。
兄が死んだ。
病気が直接の原因ではなかったのが果たして良いのか悪いのか、としばらく悩んでいたが、兄が死んだのが良いわけがないと最近ようやく気がついた。
兄の口座にはやたら金があって、なんだかよくわからないが結構稼いでいたらしい。なんのためにそんなに稼いでいたのだろう。生命保険にも入っていたから、俺の手元には結構な額が残ってしまった。全く嬉しくない。俺のためを思うなら、やたら稼ぐんじゃなくてゆっくり体を休めて少しでも健康になってくれればよかったのに。
兄がいてくれればよかったのに。
金がそんなにあっても仕方がないので俺は仕事を減らした。もう兄もいないのだ。
貯金がそんなにあっても仕方がないので、趣味に金を使うことにした。趣味がないので、コーヒーが趣味ということにした。もう兄もいないのに。
仕事を減らした代わりに余裕が増えた朝、俺はコーヒー豆を挽く。インスタントコーヒーに文句を言われなくなって、ようやく俺はインスタントコーヒーをやめたのだ。
一人でゆっくり朝食を摂りながらコーヒーを飲む。インスタントコーヒーは悪くなかったが、きっと今あの頃のように作って飲んだら苦すぎて嫌になるだろう。
兄はコーヒーにこだわっていたわけじゃなかったのだと、俺はこの朝にようやく気がついた。
ずいぶん遅くなってしまった。
俺は家を出た。
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