第7話 排水トンネルの悪魔 (3,300文字)

「ばかもんが! 金持ちにけんかを売るようなことをするんじゃない!」


 口を閉じていろと言っただろう、とジャックが馬車に揺られながらショーンの唇をつまんでいる。

 奥様の家を飛び出し、しばらく歩いてようやく馬車を拾った。それまでジャックは不機嫌そうに早足だったけど、僕たちを置いていくようなことはしなかった。


「悪かったよジャック。上等なお茶で、つい舌がうまく回っちまったんだよ!」


「まったくこの野郎め。まぁ、言ってやりたくなる気持ちもわかるがな。……んふふ、あのご婦人、なかなかいい蒼白具合だった。んふふ」


 なんだ。ジャックだっていい気がしてなかったんだね。いい人だ。


「ねぇジャック。ネズミどうするの? ペットにするの?」


 ジャックは生け捕りにこだわった。ネズミに愛情があるのかな。

 僕の質問にジャックは帽子を片手で深くかぶり直した。


「ばかもん。俺はネズミの毒牙で死にかけたんだぞ。こいつらは売るのさ」


 カゴの中で、テリア犬の鼻息から逃げるように固まっているネズミたちが鳴いている。

 この街では、売れないものなんてないんじゃない?


「誰が買うの? まさか食べるの?」


「パブの経営者さ。ルイ、お前さんは知らんだろうが、ロンドンではネズミ殺しショーというお遊びが流行っている。囲いに放ったネズミ共を、自慢の闘犬に狩らせるんだ。一番多くネズミをかみ殺した闘犬の飼い主がかけ金を得る。貧民からどこぞの御曹子、軍人まで。みんな夢中さ」


「軍、人……」


 その響きに僕の心臓がずくりと脈打つ。


『ルイ。あんたの父親はね、軍人だったのよ――』


 お母さんの声がよみがえってくる。心地いい声のはずなのに、まるで深い穴の底から聞こえてくるみたい。お母さんを殺したのは、軍人だった僕の父親。お母さんは包丁を手に抵抗した。けれども、軍人には敵わなかったんだ。


「ルイ」


 僕の肩に置かれる手。はっとして横を見るとショーンの顔があった。青緑の瞳が、僕の目をのぞきこんでる。


「どうしたんだ。酔ったか?」


 僕は首を振る。

 なんだか引き戻された感じ。けれど胸にわずかに残るどきどきを飲みこみながら、となりにいるショーンの存在が、すごく頼もしく感じた。




「ジャック。まだ仕事あんだろ!? 次行こうぜ!」


 テリア犬に水を飲ませてやりながら言うショーンに、ジャックはため息をつく。


「お前さんくらいの年齢なら、もうパブや劇場に金を使い始めるもんだ。他の連中を見てみろ、嫁探しに夢中だぞ」


「そんなのいつでもできらぁ! 俺は今の状況をひっくり返したいんだよ! 最下層から這い上がるんだ、金が欲しい!」


 食いつくショーンに、ジャックは少し考えるように間を置いて、それから僕の目を見た。


「ルイ。お前さんも本気か?」


 僕はうなずく。

 他人に奪われない人間にならなきゃ。この街で力を得るには、お金を稼げることが絶対条件なんだ。

 ジャックが口の端を上げてうなずく。


「……わかった。なら、俺も覚悟を決めるとするか」




 夜になって、ジャックが僕たちを連れてやってきたのは街中の水路にある排水溝の入り口だった。


「いいか二人とも。ネズミが害獣であることを忘れるな。特にこの近辺のネズミは凶暴だ。家畜市場から流れる肉くずを食らう奴らだ、悪魔だと思え」


「だから高く売れるんだろ? やろう、ジャック!」


 力強くうなずくショーンとは違って、僕は内心不安でいっぱいだった。

 排水構は硬貨や貴重品が流れ込むらしく、お宝目当てに入り込む人の水難事故が後を絶たない。そのため立ち入りが禁止され侵入者には罰金が科せられる。だから犬は連れて入れない。吠えてしまって侵入がばれるかもしれない。

 というのがジャックの説明。

 万が一のとき、武器として使えるのは、手にしたくわのついた棒だけ。

 怖気づく僕の気持ちはわかって欲しい。


「三人で固まって歩くんだ。危険を感じたら水路へ入れ。ネズミは濡れることを嫌うからな」


 鉄の扉を押して中に入る。僕とショーンは帆布のエプロンをからだに巻きつけて、ランプを紐で胸に吊るしている。エプロンに光が反射して、真っ暗闇でもけっこう先まで見渡せた。


「ネズミ、いないね」


 しゃべると強烈な臭いが口にまで入ってくる。顔を向けたジャックは緊張してるのか返事をしない。ジャックの服から漂う、なにかすぅっとした、独特なニオイが周囲の空気と混じる。うえっ、となりそうなのを我慢。ジャックいわく、ネズミを寄せつけるタイムとアニスオイルをすりこんでいるのだそうだ。


「おい、見ろよ!」


 ショーンが壁際の方を指す。何か落ちている。その塊を照らしてみて、僕はからだ中に鳥肌が立った。


「これ、骨じゃ……!?」


 声が上ずる。だって、その骨には生々しい肉の破片がこびりついていたんだ。地面や壁に染みになってるのは血だと思う。生臭い空気でわかる。何かが転がり回ったように、周囲に血が飛び散っていた。


「猫の死骸だろう。今さっき食い殺された、って雰囲気だな」


 ジャックの言葉に僕とショーンは顔を見合わせた。つばを飲みこむ音がしたけど、自分なのかショーンなのかわからなかった。

 胸のあたりに手を当てたジャックが周囲を見回す。


「俺のネズミたちが震えている。……これはまずい」


 沈黙が流れる。

 全員が耳を澄ましていた。

 もともと静かだったはずが、そこで一気に無音になってしまった気がした。


「ジャック」


 もう戻ろう。

 僕のかすれた声がこだまする。

 その時だった。


「キィーー!!」


 鼓膜を引っ掻くような、生き物の鳴き声。びくりと肩が跳ねる。

 鳴き声の主を照らそうとからだを四方に向ける。僕とショーンの明かりが排水溝の壁と地面を忙しく走り回る。僕の明かりが、動く生物の姿を捕らえた。

 子猫ほどはある大きさの、こげ茶色の生物。それが壁伝いに天井から這い下りてくる。くねくねとしなる太い尻尾、壁を捕らえる、ぬらりと光る爪。

 悪魔――いや、ネズミだ。


「でたぞ!!」


 ジャックがくわを構える。


「こっちからもきてる! うわっ!」


 叫ぶショーンのからだに巨大なネズミが飛びかかった。


「ショーン!!」


「ルイ! 後ろ!」


 腕にしがみつくネズミを振り払い、ショーンが指を指す。振り返ると、水路からネズミがいくつも飛び出てくるのが目に入った。

 うそでしょ。ネズミは水を嫌うんじゃなかったの。


「非常事態だ、止むを得ん! 戦え!」


 ジャックがくわつき棒を振りまわしながら叫ぶ。


「戦えって、ジャック! 数が多すぎるよ!」


 振り払ったネズミをくわで叩き潰し、ショーンが息荒く叫ぶ。その声もネズミの鳴き声にかすんでしまいそうだった。


「こいつらは俺に集中している! 二人で表にいるテリアを連れてくるんだ! 走れ!」


「でも、ジャック!」


 僕はからだを這い上がってくるネズミを必死に振り払いながら泣きそうな声になる。

 ジャックを置いていくことも、ネズミに食いつかれながら暗い排水溝を走るのも、とてもできないよ。


「走るんだ! ルイ! お前さんなら、でき――ぐっ!!!!」


 ジャックが股間を押さえて膝を着く。


「ジャックーーーー!!!!!!」


 まさかネズミの毒牙に。

 僕の絶叫が終わらないうちに、ショーンの悲鳴が響いた。

 弾かれたようにその方を見ると、頭を両手で抱えたショーンに、数匹のネズミが襲いかかっていた。


 ショーン。

 瞬間、僕のまわりが無音になった。

 その一瞬、何も聞こえなくなったんだ。


 直後、僕の蹴りがネズミを吹っ飛ばしていた。

 ショーンの丸めた背中にいたネズミ三匹。僕の長靴をはいた脚が、背中すれすれに、ネズミだけをまとめて蹴り飛ばした。


「つああぁぁぁぁっ!!」


 僕は手にした棒で、向かってくるネズミをなぎ払った。怖くなかった。怒ってたんだと思う。

 飛びかかってくるネズミの動きが目で追えた。どこからどう襲ってきているのか、なぜだかわかったんだ。

 あとはそれを、手の甲なんかで打ち落としてやればいいだけだった。


「ル、ルイ……?」


 気がつけば、息荒く立っている僕のまわりにはたくさんのネズミが倒れていて、ぴくぴくと痙攣してるのもいれば、動かないのもいた。

 ショーンは地面に尻を着いた恰好のまま、口を半開きにして僕を見ていた。


「よくやった、ルイ。やっぱりお前さんには、何か素質があるようだ」


 振り返り見たジャック・ブラックは、暴れるネズミがぎゅうぎゅう詰めになった檻のカゴを手に、満足そうにうなずいていた。



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