第2話 ティアって呼んでよね

 目が覚めると見慣れない白の天井が映っていた。


 ミハエルはゆっくりと上体を起こす。

 寝ていたのは木製のベンチで、お腹の上にのっていた本が滑り落ちる。


「いててて……」


 片方の手で首の裏をさすりつつ、もう片方の手で本を拾った。


 ここは大図書館である。

 王宮の隣に立っており、学者や医者の他、ミハエルのような魔道士見習いも自由に利用できる。


 ミハエルは読みかけの本をベンチに置いて、鉄格子のはめられた窓に近づいた。

 夕陽を真っ二つにするように七階建ての塔がそびえている。


 あれが魔道士塔。

 別名ホールケーキ塔と呼ばれており、上に行くほど面積が狭くなっている。


 見習いが働いているのは一階から三階の部分。

 その上の四階から六階が正規の魔道士のための仕事場。

 七階は魔道士のトップであるオズワルドの執務室となっている。


 オズワルドは天才である。

 長らく破られることのなかった最年少魔道士長のレコードを破ったといえば彼の優秀さが伝わるだろうか。

 名君として評判のマリアンナであるが『功績の半分くらいはオズワルドのお陰』と常々感謝しているくらいだ。


 その天才が悩んでいた。

 原因はもちろん勇者召喚である。


(コストを半分の半分に抑えるのは無理だよな……)


 ミハエルには両親がいない。

 オズワルドに拾われて魔道士としての教育を施されてきた。

 いわば命の恩人、かつ義理の親。


 王女ユースティアと幼馴染なのもそのせいだ。

 マリアンナは三人の娘を産んだわけであるが、自由にのびのび育てる方針を取っており、ユースティアはよく魔道士塔へ遊びにきた。

 同い歳のミハエルは絶好の話し相手だったわけである。


「ひどい顔色ね。悩み事?」

「そうだね。まさにお手上げ状態だね」

「そういう時は散歩するに限るって、オズワルドなら言うでしょうね」


 ルビーの瞳が見えた瞬間、ミハエルの心臓は止まりそうになった。

 びっくりしてけ反った時、後頭部を壁にしこたま打ちつけて、ユースティアに大笑いされてしまう。


「一体いつから大図書館にいたのですか、ユースティア様」

「ずっといたわよ。ミハエルがく〜く〜寝ていた時から」


 ユースティアが接近してくるものだから、ふくよかな胸が当たりそうになり、二重の意味で慌ててしまう。

 ユースティアは負けず嫌いの性格をしているが、胸のサイズだって母に負けていないのだ。


「ち……近すぎます」

「二人きりの時はティアって呼んでくれる約束でしょう」

「ここは大図書館ですから」

「ふ〜ん……」


 不服そうな目を向けられても、ダメなものはダメなのだ。

 この王女をティアと呼べるのは将来の結婚相手だけと決まっている。


「昔は私のこと、ティアって呼んでくれたのに」

「あれはユースティア様のことを下働きのメイドか何かと思っていたから」


 もちろん、同い歳の王女がいて、ユースティアという名前であることは知っていた。

 初対面の時に『私はティアっていうの!』と挨拶あいさつされたから、ティアが本名で、まったくの別人だと思っていた。


 王女だと知ったのはオズワルドに連れられて新年を祝うパーティーに参加した時。

 マリアンナの隣に三人の女の子がいて、長女がユースティアだった。


『ティアって王女様だったのですか⁉︎』


 そのようにオズワルドに聞いたら、


『人前では馴れ馴れしくティアと呼ばないように』


 と釘を刺された記憶がある。


 思い出に浸っていたミハエルは、愛用の眼鏡が消えていることに気づいた。

 探してみると、ユースティアが装着するところだった。


「返していただけないでしょうか、ユースティア様」

「少しくらい借りてもいいじゃない。どうせ眼鏡がなくても生活に困らないのでしょう」

「遠くにある物が見えにくいのです」


 これは本当だ。

 十三歳くらいから視力が落ちてきて、離れたところにある人や物がボヤけてしまう。


「私のこと、ティアって呼んでくれたら返してあげる」


 ユースティアはあごを引いて愛らしい上目遣いを向けてきた。

 いつか統治者になるわけだから、平民を困らせて遊ぶクセは直してほしいものである。


「俺の眼鏡を返してくれませんかね、ティア」

「はい、ど〜ぞ」


 呑気のんきなものである。

 今この瞬間もオズワルドは死ぬほど悩んでいるのに。

 勇者召喚の結果は他国から注目されると、この王女が力説したのではないか。


 そのことをミハエルが指摘すると、ユースティアはふくれっ面になり、思いっきり壁ドンをかましてきた。


「だから、距離が近いですって」

「私がまったく悩んでいないように見えるの?」

「そうは言っていませんが……」


 とはいえ、ユースティアは魔術の専門家じゃない。

 魔道士塔のメンバーに一任するしかなく、何もできない状況が悔しいらしい。


「今回の決定はお母様が間違っているわ!」

「あ〜、あ〜、あ〜。いくら娘だからって女王陛下を大声で批難ひなんするのは……」

「でも、横暴じゃない! 臣下の声にまったく耳を傾けないなんて! お母様らしくないわ!」


 最後の部分はまったくの同意である。

 名君とうたわれたマリアンナらしくない。


「今回の責任者は私よね。もう適当に勇者召喚しちゃって、失敗しました、で終わらせるのがいいと思うの。出費を最小限に抑えるという意味でも。これからオズワルドのところへ行って、彼を説得してくるわ。ミハエルも同行しなさい」

「えっ⁉︎ 今からですか⁉︎」


 腕をぐいぐい引っ張られて魔道士塔まで連れてこられた。

 ミハエルにとっては実家も同然の場所だが、これほど入りにくいと思ったことはない。


「さあ、行きましょう」

「ですが、魔道士長は忙しい人ですよ。この一週間、ほとんど寝ていないそうです」

「だったら、尚更なおさらよ。早めに研究を中止させないと」


 螺旋状らせんじょうの階段をのぼっていく最中、たくさんの同僚とすれ違うわけであるが、皆が死人みたいな顔色をしている。

 これもマリアンナの無茶振りが原因だろう。


 最上階につく。

 オズワルドが仮眠中という可能性も考えて、まずはミハエルが軽くノックしてみる。


「すみません、ミハエルです。魔道士長に火急の相談があって参りました」


 いくら待っても返事がない。

 その代わり重量感のあるものが倒れるような音がした。

 ミハエルとユースティアは顔を見合わせて、まったく同じ表情を浮かべる。


「魔道士長、失礼します。入りますよ」


 恐る恐るドアを開けてみる。

 ミハエルを待ち受けていたのは、床一面に散乱している紙と、山のような本が雪崩なだれを打っている景色だった。


 荒れまくりの部屋のど真ん中にオズワルドはいた。

 腐りかけのリンゴみたいな顔で、すっかりせ細った姿で、金魚のように口をパクパクさせている。


「くそっ……私はダメなやつだ……生まれて初めて不可能を知ってしまった……役立たずのオズなんて、本当のオズじゃない……地位を返上して、さっさと隠居しよう」

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