3-7

 化粧は社会のマナーだと真琴は思っていたが、彩はその考えに同意しなかった。彩曰く、化粧は武装なのだという。

 今はそれが真琴にもわかる気がした。頬に、唇に、まぶたに、色を重ねると、誰も自分を傷付けることはできないような気がした。


 東京行きの新幹線の中、車窓から眺める景色は永遠に続くような気がした。着いてほしくないのに、新幹線からは早く降りたい。かと言って、馴染みのない駅で途中下車する気にもならない。

 落ち着かないので、眠ってしまいたいのになかなか眠れない。相反する気持ちに真琴は、右に左に、上に下に、引っ張られる心地がした。


 嵐のようなぐちゃぐちゃな感情は、宮部の顔を診た瞬間に凪いだ。

 宮部もまた、真琴の姿を見た瞬間不安げな表情から一転して破顔し、真琴はようやく自分がかつての恋人に、必要とされている実感を得た。

 帰ってきて良かった、かつての恋人はこんなにも自分を求めて待っていた、そう感じた。

 先に口を開いたのは真琴だった。

「ただいま」

「お、お、おかえ、り。あの、お誕生日おめでとう」

 宮部は可笑しいくらいどもった。

 しかし咳払いをして、「場所を変えて話がしたい」と仕切り直した。

 もとよりそのつもりではるばる大阪から来ている真琴は、こくりと頷く。


「雰囲気、なんか変わったね」

 宮部は真琴を迎えに来るためだけに借りたレンタカーの中、信号待ちの沈黙を破る。

「そうかも。ラウンジでバイトしてて。メイクも友達に教わって」

 ラウンジ?と聞かれたので、「スナックとキャバクラの間みたいなお店、実際はほとんど場末のスナックみたいなものだけど」と答える真琴。

 宮部は一瞬言葉を詰まらせるが「なんか、人生経験、って感じだね」と返す。

 そうかな、そうだよ、と二人。

 真琴はそわそわと手を握ったり開いたりした。宮部も、ハンドルを握る位置を何度も何度も変えたり戻したりしている。

 再び沈黙が訪れる。

 宮部が今、一体どんな表情を浮かべているのか横目で確認しようとするが、こっちを向きそうになったので慌てて目線を外した。

 信号が青に変わり、車が再び進む。

「あのさ」

 またしても沈黙を破ったのは宮部だった。

「学生の時、プラネタリウムを観に、よく行った科学館、今年度いっぱいでつぶれる、んだって」

 こっちを向く宮部の顔を、真琴はまともに見ることができずに、前方の信号を確認するふりをしてそっぽを向く。

「そうなんだ、残念」

 口ではさほど興味なさげに答えるが、内心は違う。

 その科学館で真琴と宮部は恋人になった。


 プラネタリウムを観て、館内を適当に巡り、閉館時間が近付いてきたのでさてその場をあとにしようとしたとき。宮部は「ちょっとまってて」と言って売店にかけこみ、ほどなくして戻ってきた。手に持った小さな袋を押し付けてきて、「今日は一緒にいてくれてありがとう。お礼に」と。中身に星を模したキラキラ光る石が詰まった、手のひらサイズのスノードームだった。


 そのスノードームは、もうない。東京を出るときに捨ててしまった。宮部を思い出すものは引っ越し準備ついでに極力捨てた。

 科学館を出た後に訪れたカフェでの会話で、宮部は真琴に恋人になって欲しい旨を伝え、二人は付き合い始めたのだが、それがどんな会話だったかも真琴は忘れてしまっていた。

 宮部との思い出のすべてを、一度は捨てたがったのに、今は薄れる記憶と捨ててしまったもろもろがひたすらに惜しい。

「あのときもらった、スノードーム……捨てちゃった……ごめん」

「そっか。そうだよね……ごめんね」


 宮部は特に行き先は告げなかったが、その会話から真琴は車の行き先は件の科学館であることを予想していた。そしてその読みどおりに、車は科学館の近くのコインパーキングに停められる。

「もっと近くの駐車場が良かったな……少しだけ歩くけど、良いかな?」

「うん、大丈夫」

 科学館まで二人並んで歩く。十二月になろうとする日、しかも天気は曇天で、気温が低い。かつてなら、寒い寒いと言い合いながらくっついて歩いていたところだが、お互いに遠慮した距離感を保つ。

「冷えるね」

 宮部はぼそりと言った。そうだね、と真琴も小さく答える。

 その瞬間に宮部は立ち止まり。

「あのさ、今って付き合ってる人はいない……って考えていいのかな」

 普段は比較的のんびりしている宮部だが、このときは珍しく性急な様子だった。

「うん、いないけど」

 心積もりをしていた話題ではあったが、予想外のタイミングで切り出されたため真琴はたじろぐ。

「もう一点確認させて。仕事……は、ラウンジで働いてる……ってことでいいんだよね。今日は休みか、休ませてもらってるのかもしれないけど…」

「お店、土日はお休みで。あと今、しばらくお休みもらってて」

 ラウンジの仕事について、触れづらそうに言葉を選ぶ宮部を慮って、休みの理由については触れずに答えた。

「そうなんだ。もし、真琴が良かったら、なんだけど。今日を含めて六日間、僕と一緒にいてほしい……と思ってる」

「と、いうと……?」

 思わずつっけんどんになる真琴。震えているのを隠すために後ろで手を組んだ。

「否定したい。僕にとっての真琴が、その、都合の良い相手だとか、そういうの、じゃないって。そのうえで、この半年真琴がいない期間を過ごして、僕にとっての真琴がいかに大きい存在だったのか、今後僕が誓って真琴を傷付けないこと、大切にしていきたいと考えていることを、証明したい」

 真琴は、そういえばプラネタリウムの帰りもこんな目をしていたな、と思い出した。

 あのときはカフェで向かい合って座っていて、真剣な目を向けてきていた。

 それが七年前のことで、半年前には横にいる恋人が涙を流していることにも気が付かないような節穴になっていたことは、真琴は忘れるわけもなかったが。

 真琴はまぶたを彩るグリッターの輝きを頭に浮かべながら、ぐりんと上向いた睫毛をしばたたいて「見ててあげる」と言った。

 宮部はそれまで緊張させていた眦を下げて、小さくため息をついた。

「良かった……ありがとう。一週間、このために有給をもらってたんだ。もし断られてたらそれはそれで、安静にしておくつもりで」

 わざわざ言うのがなんだか図々しいなと真琴は思ったが、正直すぎるくらいの宮部の言葉に思わず微笑んだ。

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