世界はそれほど広くない
李都
甘いと酔いと週末を
時刻は午後7時を回ろうとする頃。佐伯明音は会社のエントランスを抜け、帰路についた。
今日は金曜日。明日、会社は休みだ。明音は会社を出た足でそのまま電車に乗り、アパートの最寄駅で降りた。しかし彼女は、改札を出るとアパートとは反対の方に歩いて行ってしまう。彼女の目的はひとつ。駅から少し歩いたところにある洋菓子店、「パティスリー藤」である。
明音は仕事での疲れを忘れたかのように心を躍らせて店の扉を開けた。
「いらっしゃいませー」
優しい声の店員の声に一礼すると、おもむろにカゴを手に取り、慣れた手つきで焼き菓子を入れていく。
「これと、あとショートケーキをひとつお願いします!」
「かしこまりました。今週もありがとうございます」
すでに顔馴染みとなった店員に挨拶し、店を後にする。手にはフジで買った焼き菓子と、ショートケーキ。それだけで明音は幸せを感じた。
しばらく線路沿いに歩くと、自宅のアパートが見えた。
帰宅と同時に湯船にお湯を入れる。お湯が溜まるまでに軽く夕飯を済ませた。ちょうどいい具合に湯が溜まったところでメイクを落として入浴タイムだ。お気に入りのバスミルクを入れて、少し甘い香りのする湯船を堪能した。
風呂から上がると、髪の毛のケアに、肌の保水。女性とは難儀なもので、入浴からその後までやることが多い。ひと通りのケアを終え一息ついたらお待ちかねのデザートタイムだ。冷蔵庫から先ほど入れておいたケーキと、この日のために買っておいた日本酒を取り出す。今日のお酒はフルーティーな風味のする吟醸酒。これが洋菓子に合うのだ。
明音はショートケーキを大きく頬張る。口に収まり切らず、クリームが口の端についた。誰もいない一人部屋だが、少し恥ずかしくなって口のクリームを舐める。そして、お猪口に注いだ日本酒をくいっと口に含んだ。この瞬間がたまらない。
「美味しー! このために今週も頑張ってこれたわー!」
しばらくショートケーキと日本酒を楽しんでいると、時計はもうすぐ午後9時を指そうとしていた。
「やっば! 時間になっちゃう!」
明音は急いでパソコンに電源を入れ、そのままゲーム画面を用意する。頭にはマイク付きのヘッドフォンを着け、机の上には缶チューハイと、先ほど買った焼き菓子を用意した。
「こんばんはー! アッカです! 今日やっていきたいゲームは––––」
突然、明音はゲーム画面に向かって話しかけた。しかしよく見てみると、ゲームを映すディスプレイの横には動画配信のディスプレイ。そう、明音は動画サイトでゲーム実況を趣味とするゲームオタクなのだ。
明音の仕事姿を知る人は誰もアッカである明音を知らない。もちろん顔を出して活動していないこともあるが、まず想像すらもつかないだろう。なぜなら、会社での明音は絵に描いたような仕事人間だからだ。仕事で大きなミスはしない。そればかりか、後輩や同僚のフォローまでこなしてしまう。
明音は昼と夜で二つの顔を持つのだった。特に金曜は特別で、リスナーと甘いものを食べお酒を飲みながら楽しくゲームをする。それも夜通しだ。
「今夜のお供は、贅沢に絞ったみかんのチューハイと日本酒、ハイボールもあるかも。あとはカヌレ、クッキー、マドレーヌだよー」
《酒が多いな》
《今日も安定のお酒ww》
《私もマドレーヌ食べますー!》
「お酒は今日は少ない方だよ! マドレーヌ美味しいよねー。今日こそはこの面、クリアするぞー! リスナー、アシスト頼んだ」
アッカはコメントを読みながら先週の続きのゲームを進めていく。今日も恐らく長時間配信になるだろう。
お酒と焼き菓子を片手に、朝日が昇るまで、1人この部屋でネットの向こうの時間を楽しむのだ。ああ、何といい週末の始まりだろうか。
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