第13話 ブルーグレイの心
産婦人科の待合室で凪子は、冬馬を待っていた。
光に合わす顔がない、今夜は実家に帰る、というので、アパートまで送った。
後で話し合おう、とは言ったものの、どうすればいいのか。
冬馬自身、この現実を受け入れられないでいる。
光と顔を合わすのは気まずい、コーヒーショップで時間をつぶし、こわごわ帰宅した。
「ただいま」
返事はなく、室内は真っ暗だ。
光はふて寝しているのか。
向き合わずに済む、と冬馬はほっとした。
同じベッドに行く勇気はない、いつもは凪子が使うソファベッドに横たわり、眠れない夜を過ごした。
帰宅するなり、凪子は母に打ち明けた、冬馬の子を宿したことを。
「よかったね」
母は感無量、といった声だ。少し早いけれど、良い人と入籍し、子供を宿して。
「お父さんが生きていたら、どんなに喜ぶか」
父は凪子が七つの時に突然死した。戸建てからアパートに引っ越し、大好きなピアノも習えなくなった。母は続けてと言ったが、飽きたから、と嘘をついた。
高校も、制服が可愛い私立に行きたかったが、家計を思えば近くの公立に行くしかない。
「大学もなんとか続けようね」
「うん。お母さんに甘えちゃうと思うけど、よろしくお願いします」
布団の中で、凪子はあれこれ考えた。
義父母は喜ぶだろう。フラフラしていた息子に子供ができるのだ。
しおらしく、離婚してシングルマザーになっても産む、せめて認知だけは、と懇願してもいいのだが。
冬馬はおそらく、産んで欲しいと言うはずだ、
そうなったら光はどうするか。
別に部屋を借りて冬馬と会い続けるか。正式な妻がいる今、それは不倫行為に当たる。いや今この瞬間も、男たちは不倫関係だ。
ごめんね、光。
私は本気で、冬馬とのこと応援してたんだよ。
でも、だんだん冬馬を好きになっていった、光の彼氏だから、ではなく恋愛の対象として。
高校一年の終わりごろ。凪子には大学生の彼氏がいた。
初めは優しかったが、体の関係ができると、凪子を所有物扱いし、あれこれ指図した。凪子は反発し、すぐに別れた。
冬馬は、凪子にとって理想の相手だった。
優しくて、何でも言うことを聞いてくれる。
婚姻届を出すふりは信憑性を出すための作戦だったが、冬馬の父の喜びを見ているうちに、本当に結婚出来る気がして、自然と涙が出た。
冬馬に抱かれた翌朝。
凪子は冬馬の父に、役所に来てほしい、とおねだりした。お父様に見届けてもらえたら嬉しい、などと甘え声で。
冬馬の父は同行を約束した。
「冬馬さんには黙っていてくださいね、恥ずかしいです」
我ながら大した演技だった、思い出しても笑えてくる。
人生は戦いだっていうよね。
私は受験戦争に勝った、恋の戦争にも負けない。
身ごもったことで、凪子は勝利を確信した。
ママを助けてくれたんだね、ありがとう。
凪子はやさしくお腹を撫でる。この中に最強の武器がいる。
翌朝、光と顔を合わせぬまま、冬馬は凪子を迎えに行き、一緒に両親に報告、予想通り祝福され大歓迎された。
部屋に戻ると、玄関ドアは開いていた。
不用心だな、と中に入ると、テーブルの上に鍵、光のものだ。
「光?」
嫌な予感がして寝室へ。引き出しが開いていて、光の衣類は消えていた、ブルーグレイのTシャツ一枚を遺して。
出ていったのだ、光は。
俺に愛想を尽かして。
恋人と親友、両方の裏切りに絶望して。
光はシャツを置いていった、あげるって言ったのに。大事にする、もったいなくて着られない、と。
もう恋人じゃない、こんなもの要らない。
このシャツを持っていろ、見るたびに自分の罪深さを思い知れ、そういう意味なのか。
乱れたシーツ、斜めになった枕。その向こうに、くしゃくしゃのTシャツがあった。
「このシャツ、俺たちを見てたのかな」
互いの気持ちを確かめ合ったベッドで、光はつぶやいた。
「いい色だよね」
と、シャツを手に取る。
「光にあげるよ」
「ほんと? サンキュ」
それからまたベッドで汗をかいて、何度でもシャワーを浴びればいいや、と笑いあって。
置き去りにされたシャツを、冬馬は茫然と見つめる。
「光、いないの?」
空っぽの引き出しを見て、凪子も事情を察する。
立ち尽くす冬馬を尻目に光の実家に電話した。
「こちらには来ておりません」
母親らしき女性の声。
「友達と住んでます、そちらに連絡してみてください」
そちら、とは、この部屋のことなのだ。
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