第7話 失格者
その子供は、自宅のクローゼットに隠れていた。
隠れん坊、だろうか。
紺色のブランド志向の制服を着ていることから察するに、保育園児ではなく幼稚園児なのが察せられる。制服を着たままなのは帰って来たばかりなのが分かる。幼子は着替えるのも惜しくて、遊びに興じることはよくあることだ。
隠れん坊における子供の小さな体と好奇心は、大人の持つ行動を遥かに越えており、台所の狭い戸棚や床下収納、洗濯機の中に入ったり、車の下に潜り込んだりと危険を伴う場所まで多岐にわたる。
生物には危険を避けるために《隠れる》という防御方法を行うが、隠れん坊には鬼という伝説の怪物に見立て擬似的な怖さを体験できる。ちょっとした隙間に隠れ、鬼が探しに来るスリルは楽しいものだ。
だが、その子供は楽しくなかった。
「
女の猫なで声に対して、子供・勝は体を震わせ身を縮こまる。傍らにある除湿剤に溜まった水が音を立てた。勝は、身を引きつらせて押し入れの外に首を向ける。喉が痙攣したように震えていた。顔は泣きそうになっている。
「ほら。勝の大好きな、イチゴのケーキがあるわよ。早く出てこないと、なくなっちゃうわよ」
声は、勝が隠れている部屋の外で聞こえた。
少し遅れて、ドアノブが動く金属音がした。
何者かが部屋に侵入して来た。
カーテンの物陰を探す音。
テレビを傾かせ、その裏を探す音。
それから、クローゼットを開ける音。
その時、勝は暗闇から解放された。隠れていたクローゼットに光が差し込むと、スカートを穿いた脚が見えた。女が、そこに立っているのが見えた。
勝は、生きるための行為、呼吸を忘れた。
女は、その場にしゃがみ込んだ。
そして、女が言った。
「み~つけた」
と。
女・勝の母親は言った。
「……お母さん」
と、勝は応える。
子供と母親の、隠れん坊は終りを見せた。
それから、母親が鬼の役のままに、鬼ごっこが始まった。
勝はクローゼットから飛び出し母親の脇を抜けると、狭い廊下を走って滑って転んだ。
いつもなら父親か母親に泣いているところを助けてもらうまで泣き続けていたのに、勝は泣かなかった。
いや、もう泣いていたから泣かなかっただけだ。
廊下が濡れていた。
バケツの底が裂けたように、床一面が濡れている。
でも、それは水ではなかった。まるで醤油のペットボトルをぶちまけたように色濃く濡らす。鉄という無機物でありながら、吐き気を催すような生臭さ。
血。
そこに男が倒れていた。腹と胸が引き裂かれピンク色の臓器や
勝が滑ったのは、そのためであった。
「……お父、さ」
勝は男に向かって言った。それが助けを求めてだったのか、哀しくて呼びかけたことなのか、他に言える言葉がなかったのか、それは幼い子供にも分からなかった。それでも、呼びかけに応じてくれないことだけは分かった。
廊下が軋んだ。
勝が顔を上げると、居間の入り口に女が立っていた。左半身を廊下に出し、我が子を
また、廊下が軋んだ。
女は子供との距離を、求めるように詰めた。その足元に、雨に濡れた傘から滴るように血が雫となって落ちた。
女の右手は、爪が伸びていた。
いや、それは本当に爪だろうか。指先は皮膚や皮下組織の結合組織が異常を起こしたかのように悪性の腫瘍で膨れ、そこから爪が伸びていた。長く成長しきった氷柱のように太く長い、奇形の爪だった。
血の滴り落ちる、右爪を女は舐めた。濡れた舌は、まるでヒルのようであり、栄養源を得るように血を舐め取っていく。
女の喉が嚥下した。
その血は、勝の父であり、女の夫のものであった。
出会い、恋をし、愛し、結婚し、家庭を持ち、子を産んだ。共に過ごして来た時間は、まだ短かったかも知れない。
だが、将来を誓い、家族になった女にとっては他人ではない。それなのに女は、夫を殺した。
腹を引き裂いた。
血を飲んだ。
死を喜んだ。
血の味に陶酔した女は、瞳孔を拡大させた。見開いた瞼の中、そこで目玉が黒目になって輝いた。
歓喜している。自分の夫の血の味に。
そして、女は新たな獲物を見た。我が子という名の、まだ若々しい未熟な血を満たした酒樽を。
緑色の、若い果実は未熟で美味しくないと人も動物も知っている。
だが、青い果実ならではの清涼感あふれる爽やかな香りがあるのも事実だ。例え毒があると分かっていても、若さには、かじり付きたくなる魅力がある。
勝は女の笑みを瞳に映した。
女は、重くなった右半身に引っ張られるように左右に揺れて歩き、近づき、子の前に立った。
勝の顔に影が落ちた。人の影だと言うのに、その影は闇のように濃く暗かった。それは、そのまま勝の感情を表していた。
吐息がかかる程、女は勝に近付いた。
勝は、眼を閉じ震えた。いつか受けた予防接種の注射を待つ怖さとは比べようもなかった。
女は囁いた。
「……お父さんが、悪いのよ。堕ちないから……。堕ちようとしないから」
我が子の頬を、女は左手で舐めるように撫でて、続けた。
「お前は、違うわよね。聞こえるでしょう。囁きが……」
勝は、嫌々するように必死になって首を横に振った。
拒否するように。
女は眉を寄せた。
「……悪い子」
その言葉に、怒りは無く。かと言って悲しんでいる口調でもなく、他人事のように素っ気ないものだ。
勝は母親を見た。
女は我が子に対して、凶器と化した爪を振り上げた。
振り下ろされるかと思われた爪が、動かなかった。
爪の先端が痙攣したように動いた。
勝は見た。
母親の額から、刃先が光っていたのを。
女は驚いた顔をした表情のまま凍っていた。それから刃先はタケノコが地を割って生えるように二寸(約6.1cm)程伸びて、女の右腕は床へと突然落ちた。
勝が母親を見上げると、その背後に太刀を手にした男の姿を見た。
洗いざらしたジーンズに、黒いジャケットをラフに着こなした青年だ。
つまり刃先は女の後頭部から刺し貫かれたものだった。青年が太刀を引くと、女は一切の力を失い、糸が切れた人形のように床に伏した。虚ろな眼を、子に向けたまま。
「殺生、か……」
青年は呟くと、女から眼を背けた。
「お母、さん。お、父さん……」
勝は声を震わせていた。幼子とは言え、自分の両親の身に何が起こっているのか説明はできなくても理解しているのだろう。喉の奥から嗚咽に似た声があった。
勝の姿を、青年は見下ろした。
「……憎いなら。いつでも殺しに来い」
青年は、背を向け立ち去ろうとした。
勝は、顔を両手で覆い深く項垂れた。
青年は脚を止め、気づく。
自身が忘れていることに。
敵を倒したばかりだというにも関わらず、血振りを行い《残心》を決めるのを完全に忘れていたことに。
敵を倒したとしても、相手が完全に戦闘不能に見えても、それば擬態である可能性もあり、気が抜けた瞬間に隙を突かれ反撃されることがある。
『世事百談』巻之三「首を飛ばせて石を嚙め」では、手打ちになった家来が首を切り離されても、庭石に噛み付いた話がある。
人間は大脳部位を銃撃で損傷しても生存できる。そのため、一撃で即死させるには中心に位置する脳幹を破壊する必要がある。青年は、女の脳幹を確実に貫いて息の根を止めた。
刀身から伝わる感触は、確かなもの。
そうだとしても、武人として残心を決めていなかったのは青年の完全なる不覚であった。
思い出す寸前か。
それとも、身体が受けた刺激が大脳を介さないで神経中枢から筋肉に伝達が起こるように、身体が動いた。
さら湯に入った時に感じる肌を刺す感覚を、青年は覚えたのだ。背を向けた空間で何かが動いたのを。
腹を裂かれた男の首が、傾く。
脳幹を貫かれた女の口元から舌が、はみ出る。
青年は己の勘の赴くまま身体を右に振った。
その瞬間、青年は空気が鋭く鳴るのを聞いた。
鞭を振った際に生じる、破裂するような鋭さ。炸裂音。物体が音の速さを越えて動く時に空気が圧縮されてできる波・衝撃波が伝わり炸裂音として聞こえたのだ。
青年の左側の壁が切り裂かれたように弾けた。
振り返ろうとした青年の眼尻は、いち早く影を捉える。
一撃目の攻撃が戻らぬ内に、影は青年に襲いかかって来る。
青年は左膝を床に付くや、太刀を振り上げた。
剣術の教えに《
新撰組が行った八木低の芹沢鴨暗殺の部屋では、鴨居に刀が当たった傷が残っている。
坂本龍馬の仇討として土佐藩士が紀州藩ご容認三浦休太郎を襲うという情報が入り、新撰組の斎藤一、原田左之助などが警備に当たった天満屋事件では、原田は「刀を振り回すな。突け」と指示した。
刀を用いた室内での戦闘では、斬るのではなく、刺突でなければならない。
ましてや青年の太刀は、刃長が三尺五寸五分(約107.6cm)もあるのだ。
二階へ続く吹き抜けなら振り上げる余裕はあるが、廊下や室内ではなおさらだ。
本来はなら刺突だけが唯一使える刀法であったが、切断による無力化を青年は選択した。敵が鞭のような武器を用いるのだから。
左右に壁がある以上、薙ぎは使えない。斬撃を振り下ろすために、青年は片膝を床に突いたのだ。
真直に襲いかかる影を斬った。
影は青年の頭上を抜けて、後方に落ちた。膝を支点に、身体の向きを後方に変えた。向けた視線の先に子供が背を向けて立っていた。
先程まで父と母の亡骸の側に居た子供、勝だった。
勝は、不意に漏らした。
汚れた床が更に汚れる。
こんもりとした物体が、勝の股間の下に落ちると、ゆっくりと湯気を上げていた。
まだ温かい、血肉色の糞便。
いや、それは内臓だ。
青年は斬ったのだ。まだ、ランドセルを背負ったこともない子供を。
奪ったのだ。
命を。
将来を。
未来を。
青年の手に柔らかな肉を裂き、臓腑を抜けて、背を突き出る感覚が蘇える。それは一秒にも満たない一瞬のことであった。
だから、仮に第三者がいたとしても、この殺人は止められなかった。この小さな命の灯を、誰も守ってやれなかった。
一拍して、勝は床に崩れた。眠るように
青年は自分の右肩を左手で掴んだ。肩に余韻として残っていた。痺れるような、引きつるような感覚が。
それは、命を奪った重さ。
小さくても、幸せだった家庭を。
青年は襲いかかって来た、勝の顔を見た。
口を見た。そこから舌が伸びていた。蛇かウナギでも呑んだように、異様に太く長い舌が二枚もあった。壁の傷からして、青年を最初に襲った一撃は、この舌によるものであることを青年は知った。
「両方の人にそれぞれ相違したことを言って、仲違いさせる。それが、両舌……」
それから青年は、左手で顔を覆った。
親指と人差し指、中指と薬指の間から青年の眼が一家の死を。一つの家庭崩壊を見ていた。
そして、青年はまたしても《残心》を忘れていた。
相手が女子供であれ、鬼魅と化した者を斬らねばならないのが自身の使命であることは自身で千鳴寺の元住職に言ったことだ。自らが刃を向けたにも関わらず二度も不覚を取った。
失格者であった。
武人として。
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