ヤニクラ

八壁ゆかり

ヤニクラ

 ほんの小さな、心許ない灯りのようなものだった。

 ただ、その火はしっかりと燃えていて、途絶えることはなかった。体内にそんなものを抱えていれば当然痛みが伴う。それでも構わなかった。自分はずっとこれを胸に生きていくのだろうと思っていた。

 たとえ彼女に恋人ができようと、彼女が結婚しようと、彼女が母親になろうと。

 何が起きても。


 ふんわりと幾重にもガーゼを重ねたような笑顔を浮かべる人だった。

 不健康なまでに色白で痩せこけていて、細すぎる腕に浮き上がる血管すら病的に美しかった。

 彼女は日本語が不自由だった。帰国子女で、十八の時に帰国したから、僕は彼女のクラスメイト兼チューターとして彼女に日本語を教えていた。


——わかる、わかる。


 彼女は過去形を使うのが苦手だった。『分かった』と言う時このように言っていて、いつも僕が訂正していた。



 僕はいつ彼女に落ちたのだろう。

 分からない。初対面の時だったような気もするし、疎遠になってからのような気もする。

 彼女が今どうしているか、あえて詮索しないようにしていた。

 僕は結婚していたし、妻は第二子を妊娠していた。それでも、心に鉤針がひっかかったような感覚と、ほんの小さな炎はまだあって、だがそれは妻への愛とはまったく別格のもので、自分では『想い出』として認識していた。


 だから大学院時代の友人から、彼女が亡くなったと聞いた時、最初に僕に襲いかかってきたのは大きな虚無の塊だった。

 幸か不幸か僕は出先にいた。喫茶店に入り、喫煙ブースで紙巻きタバコを吸う。いつか彼女に身体に悪いと言われたっけ。言った本人が先に死んでどうする。

 久々に吸ったマルボロは酷いヤニクラを食らわせてきた。妻が長女を妊娠してから禁煙していたからだ。喫煙ブースのガラス戸に身を預け、それでも吸い続けた。


 そしてフィルターぎりぎりまで吸い尽くすと、僕は自分の中にずっと仕舞っていたあの小さな炎を取り出し、マルボロに灯し、灰皿に落として喫煙ブースを後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヤニクラ 八壁ゆかり @8wallsleft

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ