第19話 ロートパゴス(1/4)
涙目のファティマはクリスに優しく手を引かれ、席へ促される。
食卓には
「アーヴィン、……怒ってた」
席についたファティマは、目を伏せた。
クリスは
「大丈夫。寝起きはあんなもんです」
少年は湯気を上げる皿を食卓に置くと、また竈に向かう。
レムノス島で使っていた楕円型の盛り土のような竈と違い、アロヴァヂェキの小屋の竈は四角い台で、上部の二つ穴が鍋の受け口になっていた。
その竈の向かって右側の口に、銀色の
少年が上のポットを取ると湯気が吹き出し、
下の
鍋敷きの上にこぼれた湯が、ポットの底でしゅわっと音を立てる。
「あの人が笑顔を見せるのは商売相手か、取引がうまくいった時ぐらいです」
クリスは柔らかな微笑みを浮かべたまま、竈から離れ、食器棚に向かう。
「あまり言いたくないんですけど。あの人、目の色が変わってるし、顔も……なんていうか、見れなくもないご
少年は棚の扉を開けると、奥に腕を伸ばす。
奥に置かれたグラスに右手の指先を差し込むと、一気に三つ取り出した。
「せめて女の人の前ぐらいは笑えばいいと思うんですけど。仕事だとニコニコできても、家では喚きっぱなしで。……そういうとこ、ダメなんですよねぇ」
クリスの手により食卓に並べられたグラスは、口の部分が小さくすぼまっていて、
日に透かすと、繊細な唐草模様が浮き上がった。
「ささ、とりあえず食べちゃいましょう。お腹が空いてると、ろくなことになりませんから」
少年がポットを手にして傾けると、透きとおった金色の湯が小さなグラスに注がれる。
注がれた液体はグラスの中で
「ファティマは本当に王女さまだったんですね」
グラスに注いだ
彼女はその視線を、居心地が悪そうに受け止めた。
「私、誤魔化してたわけじゃなくて……」
「わかってます。ファティマは……ファティマさまの方がいいのか。ファティマさまは言ってましたもんね。僕らが都合よく解釈しすぎただけです」
「ファティマでいい」
恥じらうように首を振るファティマ。
「そうですか? ……じゃあ、ファティマ」
「うん」
ファティマは目の前に置かれたグラスを見ても手を出さない。
少年は彼女が気を遣っていると思い、自分が手に持つグラスに息を吹きかけ、冷ます動作を見せた。
「クリスは……、ケレスじゃなくてクリス、だったのね」
クリスの動作を見て、彼女はグラスに手を伸ばす。
両手で包むように持つと、強張っていた手の平がじんわりと温まり、肩の力が抜けていった。
「あ……、ははは。……すみません」
アーヴィンさんの命令で、と言おうとしたが、彼一人を悪者にする言い方は今は逆効果だと察し、少年は謝罪の言葉だけでとどまった。
クリスはグラスに口をつける。
「……っつッ! ……ファティマ、は、どうし、て、海賊にっ……ゴホッ、掴まってた……です、か?」
少年は口に残った熱い雫を喉に流し込み、大きくむせた。
リクラフルスの黒海沿岸、リゼ地方で採れる紅茶葉を淹れたのだが、熱すぎて香りを楽しめる余裕はなかった。
「……セルダニアとは違うところに、行こうとしてたから」
むせるクリスを見て、ファティマは慎重にグラスを掲げると、鼻先で湯気の香りだけ嗅ぐ仕草をした。
「どこへ?」
「メニンクス。……欲しいものがあったの」
『メニンクス』と言われて
小さく開いた桃色の唇に、赤褐色の液体が滑り込む。
彼女は一瞬眉を上げ、大きく目を開く。
静かに飲みこむと、一息ついて「あったかい」と顔を
その動作は終始穏やかで、とても洗練されていた。
クリスは彼女と何度か食事をしていたのに、機敏な動きを求めるばかりで、挙動そのものに注目してこなかったことを悔やんだ。
もっと動きに注目していたら、彼女の特異さがわかったのかもしれない。
王女だと確信を持った今だから、そう見えるだけかもしれないが。
「ここじゃあメニンクスは通じないぞ」
服を着たアーヴィンが会話に割り込んできた。
右の側頭部に、大きくうねった赤い毛先が目立つ。
「メニンクスは
彼の右手には、首の皮を掴まれ目を丸くした
アーヴィンは不機嫌そうにクリスを見て、猫を床の上に放す。
放られた猫は、音もなくクリスの足元に駆け寄ると、少年の
アーヴィンは、クリスの隣の席に音を立てて座った。
彼と向かい合う形になったファティマの顔が、また少し
「ジェルバ島って聞いても、僕にはわからないんですが……」
クリスは困惑気味に二人の顔を見る。
「ジェルバ島っていうのはタシトゥールの南、ガベス湾沖にある島のことだ」
アーヴィンはぶっきらぼうに答えると、空いているグラスを掴み、自分で紅茶を注ぐ。
ポットの口から勢いよく流れた紅茶が、グラスの縁から飛び出し、アーヴィンの前の食卓にこぼれた。
彼は濡れたところを気に留めず、指先でグラスに付いた水滴を乱暴に拭うと、自分の鼻先に持ち上げ、盛大に息を吹きつけた。
「はぁ……。その島に何かあるんですか?」
アーヴィンの粗雑な振る舞いに、クリスは眉をひそめる。
ファティマの動作を見た後だと、余計に品が無く見えた。
「なにもない。旧世界時代は
そう言って、アーヴィンは手元のグラスに口をつけた。
充分冷ましたつもりだったが、
彼の口には望まない渋みが拡がり、盛大にむせた。
「何もないわけじゃない。ロータスの実を、採りに行こうと思っていた」
ファティマが意を決したように口を開いた。
向かいのアーヴィンは想定外の
「なんですか? 『ロータスの実』って」
アーヴィンが吹きこぼした
こぼした本人は椅子から立ち、顎に滴るしずくを服の袖口で拭っている。
「……私たち、王家にとって、大切な樹」
ファティマは目の前の光景に戸惑いながら、単語を区切るように慎重に口にする。
アーヴィンは棚に向かって歩き出し、座っている彼女の横で一度止まって見下ろすと、琥珀の眼を細めて断言した。
「そんな植物は存在しない」
アーヴィンに強く否定されたファティマは、またもや目元を潤ませ、口の端を歪ませた。
「あのぉ……、さっきから二人だけで会話が成立してませんか? 僕、さっぱりわからないんですけど」
クリスが二人の話に割って入る。
ファティマの涙腺が弱いのは、アーヴィンの対応が雑すぎるのが一因だ、と少年は顔をしかめた。
色の出過ぎた渋い
「……旧世界よりも大昔にな、『ロートパゴス』っていう伝説の部族を取り上げた神話があるんだ」
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