第2話 海賊(1/6)

 五月もなかばに差し掛かる満月の晩。

温暖な地中海性気候と呼ばれる地域では、夏季に入ると大陸の北から乾燥した空気が流れ込み、エーゲ海をゆるやかに波打たせる。

その海上を、一そうの舟が小さな楫音かじおとを立て、滑るように進んでいく。


 数世紀前に地球規模で群発ぐんぱつした活火山の噴火により、引き起こされた気温の低下は、北半球を中心に『小氷河期しょうひょうがき』を到来させた。

しかし、崩壊から四半世紀しはんせいき(二十五年)が過ぎると、徐々に美しい姿を取り戻し、四世紀半よんせいきはん以上――四百八十年が経過した現在では、気温が上がり、再び周辺諸国に貴重な海洋資源を与えていた。


ここは豊穣ほうじょうめぐむ『われらがうみ』――地中海マーレノストゥルムと呼ばれている。


 海上には何せきかの大型木造船が等間隔を保ちながら、いかりを降ろし停泊している。

一際ひときわ大きな歓声かんせいが聞こえる一隻に接近すると、小舟の上に人影が立ち上がり、手元の提燈ランタンかかげて反時計回りに回し始めた。


 甲板かんぱんの上で赤ら顔した甲板員こうはんいんは、暗い水面みなもから向かって時計回りに動く灯りを確認する。

彼は酔いでとろんとした目をこすると、息をついて緩慢かんまんに立ち上がった。

操舵台そうだだいに掛けていた油燈カンテラを引き寄せ、取り付けてある遮光板しゃこうばんを何度かスライドする。


小舟の人影は灯火の点滅を読み取ると、手元の提燈ランタン遮光布しゃこうふを上げ下げし、再び反時計回りに円を描いた。


「ちっ」


面倒臭そうに舌打ちした甲板員は、近くにいた仲間に目くばせする。

若い船員が、まとめた縄梯子なわばしごを小舟の近くまで持って行く。

先を船縁ふなべりに引っ掛けると、残りの縄を海面に下ろした。


 小舟の人影は提燈ランタンに渡すと、下ろされた縄梯子の強度を確認して慎重に上る。

漕ぎ手は人影が船上に上がったのを確認すると、提燈ランタンを置いて静かに大型船を離れ、一定の距離を保った。


人影は騒がしい甲板に上がると、深く被っていた外套がいとうのフードを取り払った。


 あざやかな赤毛あかげがゆるやかなカーブを描き、首筋まで流れる。

鼻にかかった前髪を鬱陶うっとうしそうに首を振ると、美しいひたいと高い鼻梁びりょう、涼やかな目元が現れた。

鼻の頭や頬骨ほおぼねふくらみには日に焼けた赤みがあるが、喉元のどもとの肌は白い。

その白さは、セルダニア西部のヴォルテッラで採掘される、雪花石膏アラバスターのようだ。

身長は洋酒樽バリックオーク材のたる。一つあたり九十五センチ)二個分の高さに少し届かない程度。

顔に肉のたるみや目立ったしわが見られないことから、二十代半ばに見られる。


船上の灯りに照らされ、彼の瞳が黄金色おうごんいろに輝いた。

正確には琥珀色こはくいろで『狼の眼マティアリーク』と呼ばれる色だった。


赤毛男の精緻せいち容貌ようぼうは、ごつごつした屈強くっきょうな海の男とは程遠い。

乗船の手伝いをしてくれた若い船員に、赤毛の男が東部セルダニア語ヘレニックで話し掛ける。


どうもエフカリスト今日は騒がしいですねイネゾイロシーメラ


 低く涼やかな声音で話し掛けられた船員は、日暮れに襲撃しゅうげきした船の戦利品が思いのほか、豪華だったことを嬉々として語った。

この船の船員達は、地中海沿岸で航行する船舶を襲って積み荷を奪う、海賊である。

エーゲ海周辺を拠点として荒らしまわる彼らは、夏季に山から吹き下ろす強烈な北風や、悪天候になぞらえ『エテジアン』と呼ばれていた。


甲板では、酒に酔った船員たちが歌っている。


≪私の余生に愛がないと知ってしまったら、生きる未練などあるものか≫

≪愛なくしてどう生きていけばいい≫


大昔から歌われている小唄だ。


≪愛しのメイファリス。君のいない世界は永久とこしえの闇≫

≪どうか君のぬくもりを、もう一度≫


旧世界にいたという、邪悪なドラゴンにさらわれた姫君メイファリスを助ける騎士の恋物語だった。

赤毛の男が周囲を見渡すと、酔った集団の一人と目が合った。


「おい。そこのにいちゃん! あんたもそう思うだろ?」


声を掛けられた赤毛の男は、肩をすくめて曖昧な微笑みを返す。


「一夜の恋なら大歓迎だ」


赤毛男が声を上げると、船上に笑いが沸く。


「一夜限りでいいのか?」


「若い身空みそらで、めたこと言うじゃねぇか」


酔って顔中を真っ赤にした皺くちゃの男が、彼の回答に嚙みついた。


「愛のない人生は、あぶらのない食事と同じだぜ。口の中がパサつけば潤いが欲しくなるのがさがってもんだ。味気ない水より、旨味のある脂が欲しくなるだろう……たとえ一夜の恋でもな!」


「お、詩人だねぇ!」と野次が飛び「おらあぶらより葡萄酒ワインが飲みてぇ」などと騒ぎ、脂下やにさがった笑いを浮かべる酔っ払い集団。

赤毛の男は笑って返答する。


「男と女は情愛を交わしてからが勝負さ。一晩の恋すら交わせない女なんて、男からしたらいないも同じさ」


「言うじゃねえか!」


笑い声をあげる酔っ払いたちは、おのおのが自分語りを始める。

若い船員がおもむろに立ち上がり、右手の蒸留酒を高くかかげると声を張り上げた。


「ぅお……っ、俺は愛が欲しいぜ! 一晩なんて言わず、一生涯いっしょうがい続く愛情が欲しいね!」


「なぁに言ってんだイルハン! 娼館のマイナに門前払いされてるくせに」


皺くちゃの男が、威勢よく叫ぶ若い船員に茶々を入れる。

イルハンと呼ばれた船員は、唾を飛ばしながら熱弁を振るった。


「次の下船で想いを遂げるさ! 今はお互いを深く知り合う最中なんだ」


隣にいた褐色の男が、イルハンの熱弁に笑いながら彼の左膝を軽く叩く。


「あの女はプロだぞ。男から金を巻き上げるのが仕事なんだ」


その発言に続くように、周りの船員たちが一斉にイルハンをはやし立てた。


「馬鹿だねぇ。素人女ならまだしも、娼婦が一晩すら許さないのは、客として認められねぇってことさ」


イルハンは真っ赤になって胸を反らせる。


「マイナは俺と真剣に向き合ってるから、そんなことしないのさ!」


純朴なイルハンの反論に、周囲はニヤニヤと面白がっている。


「一晩の愛なら金さえ積めば手に入るんだぜ。酒も煙草も金が掛かるが、素人女ほどじゃない。ましてや娼婦が初心うぶかたるなんて性質たちが悪い」


「ちげぇねえ。娼婦相手に本気になるなんて馬鹿のするこった。貢ぐなら身の程をわきまえた娼婦にしな! 丁寧に可愛がってもらえるぜ」


口にした蒸留酒を吹き出さんばかりに笑い転げる船員達。

若いイルハンは助けを求めるように視線を動かし、喉まで伸びた立派な黒髭を持つ船員に声を掛けた。


「あんた嫁さんいるよな。永遠の愛を手にしたんだろ?」


声を掛けられた黒髭の船員は一瞬眉を上げると、左目だけを痙攣けいれんさせるようにまばたかせ、口についた蒸留酒の雫を拭いながら声を上げる。


「勘弁してくれ。永遠に続く愛なんて探しても無駄だぜ。そんなもん、もって三年。今じゃうちの犬の方が俺を慕ってくれる」


な? と黒髭がまわりの船員に目くばせすると、イルハンの隣に座っていた褐色の船員がすかさず応える。


「どうだかな。犬コロはお前さんより、毎日飯くれる嫁さんを愛してるんじゃないか」


「う、うるせぇ!」


彼らはドッと沸いた。

少し離れた位置で彼らの会話を眺めていた赤毛の男は、宙を仰いだ。


――調子に乗った酔っ払いは、些細なことで喧嘩を始めやすい。くだらない争いが始まる前に、商談を終わらせて立ち去りたい。


赤毛男は目の前の若い船員に、船長の所在しょざいを問いかける。


「自分、見てないッス。たぶん船長室ッス」


赤毛男の琥珀の瞳を食い入るように見ていた船員は、声を掛けられて我に返ると、ほうけた表情を引き締めて妙な回答をする。

赤毛の男は思わず口元がゆるむ。

それなら、と口を開きかけると、赤毛男の背後で間延まのびした声が掛かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る