妙正寺詣で

汐留ライス

妙正寺詣で

 一言に武蔵野と申しましても、随分と広うございます。


 ウィキペディアによりますと、南は多摩川、北は荒川、東は隅田川を越えて成田空港の辺り、西はもう本州をぶち抜いて、シルクロードをズズズイーッと渡ってローマに至る、なんてことは書いちゃいませんが、だいたい新宿から日野・豊田ぐらいのエリアでございましょうか。


 そんな武蔵野の一角に、妙正寺みょうしょうじという寺がございます。寺のそばからは妙正寺川という川がチョロチョロ流れておりまして、東の方へ東の方へとこう、ぐいんぐいんと曲がりながら流れていき、最後は下落合の辺りで神田川へと合流いたします。


 その下落合にございます、とあるワンルームマンション、昔の言葉で言いますと長屋のようなところから、この噺は始まります。


八五郎(以下、八)「ご隠居、ご隠居ォ」


ご隠居(以下、隠)「朝ッぱらから騒々しい野郎だね、そんな大きな声出さなくたって、インターホンがあるじゃないか」


八『ご隠居、ご隠居ォ』


隠「あの馬鹿、インターホンでも同じ声量でしゃべりやがる。近所迷惑でしょうがないよ。ハイハイ開けます開けますよ。どうしたんだいこんな朝早くから」


八「あっご隠居。おはようございまァす」


隠「大きい声を出すなって言っているんだよ。まだ寝ている人もいるんだから」


熊五郎(以下、熊)「どうもご隠居」


隠「オヤ熊さんも一緒かい、ますます珍しいねえ。何があったんだい」


八「へえ、あっしらちょいと、寺へ行こうと思いまして」


隠「随分と唐突だねえ。寺へ行こうだなんて、そこらのコンビニへ行くのとは違うんだ。訳があるなら聞こうじゃないか、上がりなさいよ」


八「どうもどうも。せめえとこだが遠慮はいらねえ、自分ちだと思って足でも伸ばさせてもらいますよ、っと」


隠「あたしが言うんだよそれは。客の方が威張って言うことじゃあない。お茶でいいかい」


八「あっしはロイヤルミルクティーを一つ」


隠「はっ倒すよおまえ。熊さんは」


熊「俺ァキャラメルフラペチーノをグランデで」


隠「あんたまでボケちゃ収拾がつかないじゃないか。早く本題に入っておくれよ」


八「実はあっしら、仏さんに願掛けをしようと思いましてね」


隠「ほう」


八「聞いた話じゃ、仏さんに願を掛けたら、何でも願いが叶うって言うじゃないですか」


隠「何でもは言いすぎだが、マア間違いじゃあないねえ」


八「それでその仏さんってえのにはどこで会えるんだいって聞いたら、寺だって言うんで、いっぺんそのツラでも拝んでやろうと思いまして」


隠「ひどい拝み方があったもんだよ。別に仏さんが寺にいるワケじゃないんだ。あれは仏さんを祀っているんだよ」


八「何だかよくわかんねえけどまあいいや。とにかくあっしは仏さんに願掛けて、楽して大儲けしてえんでして」


熊「俺ぁ彼女がほしい」


隠「なるほど。動機は不純だが、いつも罰当たりなことばかりしているおまえさんらが、寺へ行こうだなんて思うだけでも上出来だ」


八「それで相談なんですが、その寺ってえのがどこにあるのか、皆目見当がつきやせんで」


隠「しょうがない奴らだねえ。よし、それじゃあいいこと教えてやろう。ここから窓の外を見てごらん」


八「きったねえマンションが、ボコボコ建ってやがりますねえ」


隠「失礼なことをお言いでないよ。下だよ下、妙正寺川が流れてるだろう。この川に沿ってずうっと歩いていくと、妙正寺というお寺がある。川の横を歩くだけだから、おまえさんらでも間違えようがないだろう」


八「そいつはありがてえ」


鴨「それとこれはね、あたしから餞別だ。歩いていたら、途中でのども渇くし腹も減るだろう。それで飲み食いするといい」


八「2000円も。こりゃありがとうございやす。それじゃあ熊公にもやってくだせえ」


隠「ふたりで2000円だよ。図々しいやつだねえ。それとこれだけは言っておくよ。『葷酒くんしゅ山門に入るを許さず』と言ってね」


八「その門のとこから追ン出された、クンシュさんってえのはどちらの方で」


隠「『クンシュさん、門に居るを許さず』じゃないよ。くんっていうのはニンニクやニラのような香りの強い野菜、それでしゅというのはお酒だ。お寺へ行く人は、ニンニクを食べたりお酒を飲んだりしちゃいけませんって意味だよ」


八「仏さんってえのは面倒な野郎ですねえ。まあいいや、それじゃあっしらちょいと行ってきやすんで」


 そう言って下落合のマンションを出た八っつぁん熊さん、ご隠居に言われた通りに妙正寺川に沿ってテクテク歩いていきます。


 中井を越え、哲学堂公園を抜けてなんて最初のうちはふたりも威勢がよかったが、沼袋を横切り、野方を過ぎ、なんて頃には疲れも溜まって、口数も減って参ります。


熊「なあ八っつぁんよ、やっぱり途中まで電車で行った方がよかったんじゃねえかなあ」


 今さらそんなことを言われても困ります。


八「ヤイッ熊公め、おめえ電車でゴーなんて好き勝手なことぬかしゃあがるが、おめえはどこの駅で降りりゃあ妙正寺に行けるか知ってるのか。あっしは知らないよ。それに電車なんかに乗って、途中で居眠りなんてしちまったらどうなる。そのまま終点の本川越まで一直線だよ。おめえは本川越から出られなくなって、埼玉県民として一生を終えてもいいってえのかい」


熊「すまねえ八っつぁん、俺ァそんなつもりはなかったんだ」


八「いいってことよ。せっかくご隠居が言ってくれたんだ、川に沿って行ってみようじゃねえか」


 それから気を取り直してふたりともまた歩きだしますが、明和中学校を迂回して、白鷺せせらぎ公園を通過した頃にはもうふたりともヘロヘロです。


熊「八っつぁん、俺ァもうダメだ。足はパンパン、腹はペコペコで、もうこれ以上は1インチだって動けねえ」


八「微妙な単位を使うんじゃねえや。ちょうど鷺ノ宮さぎのみやの駅が見えてきた。駅前に行きゃあ飯屋のひとつやふたつもあるだろう。もうちょっとだから辛抱して歩け」


 こうして散々な思いをして駅までたどり着きますと、駅前のメインストリートには鮨屋に焼肉、インド料理とグルメなメニューがよりどりみどり。しかし予算が2000円では贅沢もできません。手近のラーメン屋に入って、一番安いラーメンをネギ抜きで頼みます。


熊「ああ、見なよ八っつぁん、周りの客はみいんなビール飲んでやがる。畜生め、うまそうだなあ」


 周りが楽しそうに飲んで騒いでいる中で、自分たちだけお冷やを飲みながらすするラーメンの味気ないこと。


八「ガマンしろよ熊公。仏さんが酒をきれえだって言うんだからしょうがねえじゃねえか。おめえだって彼女がほしいから、願掛けに行くんだろう」


熊「でもよォ、例え彼女ができても酒のひとつも飲めねえんじゃあ、クオリティオブライフは高まらねえと思うんだ」


八「急に難しい言葉使いやがったな。だがおめえの言う通りだ。なァに一杯だけ飲んで、寺に着く前に酔いを覚ましちまえば、きっと仏さんも見逃してくれるってもんよ。お姉さん、こっちにも生ふたつ頼まあ」


 そんな次第で飲み始めたふたりですが、ビールを飲めば餃子が食いたくなる、餃子を食えばまたビールが飲みたくなるのが人情というもの。こうして餞別の2000円も使い果たし、すでに葷酒をコンプリートしてしまいました。


 店を出る頃には辺りは真っ暗、おまけにふたりは酔いが回ってフラフラでございます。


熊「八っつぁんよォ、妙正寺はどっちの方だい」


八「心配いらねえよ、川の横ォ歩いてたらいいってご隠居も言ってたじゃねえか」


 なんてことを言ってテクテクテクテク歩いて参ります。何しろ酔っているもんだからいくら歩いても一向に疲れない。ところがどんなに歩いても妙正寺には着きません。


熊「八っつぁん、俺ァこの景色、どっかで見た気がするぜ」


八「何を言ってやがんでえ、と言いてえところだが、確かにどっかで見たな。あッ、ここは下落合じゃねえか。しまった、川を逆向きに来ちまった」


 妙正寺へ行くつもりが、下落合まで戻ってきてしまいました。これにはご隠居も呆れ顔です。


隠「おまえさんらはしょうがないねえ。お酒も飲んじまっているし、川に沿って歩くだけのこともできないのかい」


八「イエね、こりゃあっしらのせいじゃねえんですよ。途中の立地がわりいんでさあ」


隠「どういうことだい」


八「あんなところに酒飲み屋(鷺ノ宮)があるからいけねえんで」


 お後がよろしいようで。

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