大学課題小説まとめ
時無紅音
『日常』
テーマ:痛み ルール:一人称
「い゛っ……」
食器を流しに持って行く途中、左足に鋭い痛みが走った。見ると、小指の爪が割れて赤く染まっている。机の足にぶつけてしまったようだ。
大した怪我ではないが、このままでは床が血塗れになってしまう。彼女に絆創膏を取って来てもらおう。
「ねえ――」
言い掛けて、思い出す。同棲していた彼女はもういない。二日前に出ていってしまったのだ。
「…………」
唇を噛みしめながら、食器を流しに運ぶ。床にできた血痕も、左足に感じる痛みも、さほど気にならなかった。
いつもの半分しかない食器はすぐに洗い終わった。何もすることがないのでソファに寝ころぶ。部屋が静かだ。テレビをつける。若手芸人がネタを披露しているところだった。いつもなら彼女の笑い声で部屋が満たされるはずなのに、何も聞こえてこない。
耐えきれなくなって、テレビを消す。まだ早い時間だが、暇のつぶし方が分からないので寝ることにした。
布団に身体をうずめ、部屋の電気を消す。
いつもと同じ場所で寝ているはずなのに、なんだか右側が寂しい。心なしか室温も低い気がして、なかなか寝付けなかった。
彼女がいなくなっても、僕の生活にはほとんど変化がない。強いて言うなら怪我をしたとかの小さな不幸を話す相手がいなくて、テレビを見ていても笑い声が聞こえなくて、他愛もない話をしながら夜を更かす相手がいない、その程度で。
また明日も朝になったら眠い目をこすりながら起きて、着替えて仕事に行く。適当に仕事をして、同僚と食堂で昼ご飯を食べながら上司の悪態をつく。満員電車に揉まれながら家に帰って、ご飯を食べて風呂に入って、布団に寝ころんで目を瞑る。そのうちまた次の朝がやってくる。
次の日も、その次の日も、似たような日々が続いていくのだろう。ただ一人、日常から欠けた、それだけだ。
けれどそれだけで、ぶつけた小指より、静かな部屋の方がずっと痛かった。
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