天の川
紫陽花の花びら
第1話
懐かしいなぁ……ねぇあなた?
夜の新宿なんて三十年以上来てなかったな。
だって、結婚して子育てが一段落したら介護でしょ。お義父さんを見送ってこれから夫婦でと思っていた矢先、あなたは呆気なく逝ってしまったのよ。こんなに可愛い奥さんを置いて! なんてね。可愛いと思ってくれるのはあなただけでしょうけど。それがとても嬉しいの。大好きな人が一人そう思ってくれれば、文句はないもの。
ううん充分よ。
ここ……靖国通りだっけ?
この辺りに有るはずなんだ。
ほらあの喫茶店! ほら、ほらほら、結婚前良く待ち合わせした「喫茶天の川」だよ。
でも面白いよね。ロマンチックな話しが聞けるのかと思ったら……
あのマスター、またかって顔して
説明してくれたね。
「天の川」って付けた理由が、
「俺が天野で女房の旧姓が川橋」
だから天野川。これじゃ硬いからって、天の川にしたんだよって。
でも考えてみると、これってロマンをだと思う。うん……絶対ロマンだ。
あっここだっ! 扉が赤いのもそのままだよ。相当剥げてるけど。
この時間独りで入るのちょっと怖いかも。入り口の前でうろうろしてたら、なんか聞こえる。音楽だよ。
立て看板に日替わり生演奏って書いてある。ランチですか?なんてね。あっ、でも面白そうだよ。
今週の生演奏 月曜日……トリオ
火曜日……解放
水曜日……トリオ
今日は火曜日って事は、えっと 解放だ。なんだろ? 気になるよね。じゃ開けるよ。えい!
そこは知らない世界だった。
ブルーの照明が男と女を浮かび上がらせている。
踊っている。踊っているのだ。
バンドネオンの切ない響きに、
愛欲な振り付けが堪らなく良い。踊り終わると、男性にエスコートされ女性は席に戻る。
周りから拍手と歓声かあがる。
「それでは、次の曲に参りましょう。皆様良くご存知のイタリア映画「ひまわり」をバンドネオンとギターでお送り致します。が、どなたか是非! 私と踊ってくださる方、立候補お願い致します。勇気を持って手を上げて! リードは任せて!」
彼の話しが終わらないうちに、私は手を挙げていた。
彼はすぐに気づいてくれて、足早に私の処まで来ると、優しく微笑み何も言わずに手を取り舞台に上がった。
彼は私と向かい合い、
「手を上げてくれた事に感謝いたします! 有難うございます。 タンゴは初めてですか?」
「はい……」
「下のお名前教えて頂いてもよろしいですか?」
「ゆりです」
「呼び捨てでも構わない?」
「はい」
「では、今宵最後の曲はひまわりをお送りいたします。私の素敵なパートナーリリーに、最高の声援をお願い致します」
言い終えた彼は、私を抱き寄せ耳元で熱く囁いた。
「僕の今宵の恋人ゆり。全て委ねて。いい? そう……力を抜いて。そうだ、上手いよ。なにもしなくて良い。僕だけを見てれば良いから……」
私は彼の言った通り、彼だけを見つめていた。
力が抜けて行く。密着している部分から互いの熱が絡まり、体は自然に委ねてしまっていた。
不思議な感覚に襲われる。なにも知らない男と女が、今は濃密な二人だけの世界を漂っている。
唇を塞がれたような錯覚に落ちる程、彼の吐息は甘く艶めかしい。体が熱くなる。忘れていた感覚が私を貫く。静に音は止み、私は彼の胸に抱かれて終わった。
少しの間があり、お客様からブラボーの声と拍手が鳴り止まない。
アンコールアンコールと足踏みが起こった。
彼は吐息で私の思考を溶かすように囁く。
「凄いよ。アンコールなんて。もう一曲踊ろう」
彼はバンドネオンとギターへ合図を送ると演奏が始まった。
夜のタンゴが流れると、一瞬歓声が上がり、そしてまた静寂へと空気は変わって行く。
ああ気持ちが良い……嬉しいのに
涙が零れ落ちる。
彼はそっと頰に唇を当てる。
これぞタンゴと思わせる仕草が憎い程に似合う。長身で細身なのに力強さを感じさせる。年は三十台中頃だろうか。
音楽が終わると、彼は私を強く抱き締めていた。
「皆様!リリーに盛大な拍手を!」
総立ちになったお客様の拍手に、
私たちは何度もお辞儀をし、彼のエスコートで席に戻る。
「有難う百合。解放……されたね
もう大丈夫だよ」
「こちらこそありがとう。とても楽になったのを感じるの」
「本当に良かった。じゃあまたね」
彼は頷くわたしの頭を優しく撫でると、舞台に戻っていった。
周りから声をかけられ、お礼を言ってる自分に、心が久し振りに弾むの覚えた。
少しの火照りを抱えて店を出る。名残り惜しいさがそうさせるのだろか……振り返ると看板が目に入る。
「喫茶天の川の火曜日……あなたの心を解放して差し上げます。
勇気を持って扉を開けてみては如何でしようか?」
ああ解放された!
別世界から戻り、色々な柵みや悲しみに翻弄されるだろう。
でも、踏み出す事がこんなにも
心地良いって想い出させてくれた。自分で閉じ込めているだけなんだって判った。
もう二度ここには来ないだろう。
だって私は踏み出せたんだ。
あなた? 見ててね!
生きるから。
生き抜いて行くから。
終
天の川 紫陽花の花びら @hina311311
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