天の川を君に

霞(@tera1012)

天の川を君に

「おとうさん、ぼく、あまのがわがみたいの」


 昨日の夜、突然息子が俺に言った。


 俺は一瞬、虚を突かれて押し黙った。誕生日にも何もいらないという息子と、そんなわけないだろう、と半ば押し問答になり、欲しいものを考えなさい、とまるで宿題のように言い渡してしまったのは、一昨日のことだ。


 それで一日考えて恐る恐る言い出したのが、この要求だ。あまりの欲のなさに、俺の胸の奥がズンと重くなる。


 息子は手がかからない子供という訳ではない。よく風邪をひいては熱を出し、そのたびに俺はペコペコしながら職場を早退せねばならない。あそこが痛い、ここが痛いと言っては学校をさぼろうとしたりと、小賢しいところもある。


 それでも、小学2年生という幼さで母親を亡くし、母親の再婚相手である義理の父親と二人で暮らすという今の境遇には、彼なりに思うところがあるようで、おそらく随分と、我慢をしているのではないかと思う。


 俺なりに精一杯に気を遣いながら息子と接してきたつもりではあるが、正直に言って、彼との関係はぎくしゃくしているとしかいいようがない。

 彼に少しでも心を開いてもらいたくて、せめて誕生日ぐらいは欲しいものをやろうと声をかけたのに、予想外の言葉についカッとなってしまったのが一昨日だった。



「天の川。……そうか……」


 彼の要求は、しおらしいようで実はなかなかに難易度が高い。人口の光があふれる現代日本で、街中まちなかで空を見上げても天の川を見られることはまずない。関東近郊で、天の川を見られる場所を探すのは至難の業なのだ。


 しかし、俺には心当たりがあった。そしておそらく、息子にも。

 彼女に聞いていたんだな。俺は息子の華奢な首筋を眺める。



「分かった。明日の夜、天の川の見える場所に連れて行ってやる」

「ほんと?!」


 息子は、妻が亡くなってから初めて見る、キラキラとした瞳で俺を見つめた。


「本当だよ。俺が帰ってくるまでに、宿題を終わらせておけるかな」

「うん!」


 息子は満面の笑みで答える。

 初めて彼と心が通じ合ったような気がして、俺の胸はほんのりと温かくなった。



 亡き妻と共に天の川を見た思い出の場所は、都心から車で数時間の山中にあった。


「……怖くないか」

「うん」

「……きれいだな」

「うん!!」


 息子はぎゅうっと俺の袖をつかんだまま、いっぱいに頭を上向かせて空を見上げている。

 駐車場から少し登った遊歩道の途中に、まるであつらえたかのように、人ひとりが立てる岩がある。崖ギリギリのそこは、上に立って見上げれば視界には夜空以外に何もなくなり、まるで星空に投げ出されるような不思議な感覚に包まれる、他にはない特別な場所だった。


 はあ、と、息子が満足げに息を吐いた。


「ねえ、次は、


 さりげなく口にされたその単語に、かあっと胸が熱くなる。

 俺はそっと岩から息子を抱え降ろすと、代わって岩の上に立ち夜空を見上げる。


『――ここは私の、特別な場所なの』


 彼女の声が、耳元に蘇る。


「あまのがわが見えるばしょは、くらくてしずかなばしょだから。つらいことがあった時には、お父さんといっしょに行きなさいって、おかあさんに、言われたんだ」


 背後から、息子の舌足らずな声が聞こえる。


「ぼくがつらいときは、お父さんもきっと、つらいから。あまのがわの見えるばしょなら、きっとお父さんも、つらいって、いえるからって」

「……」


 ふいに視界が歪み、俺は戸惑った。

 彼女はどこまで、俺のことを分かっていたのだろう。

 確かに、この、人の営みの光の届かない場所でなら。俺は、弱くなることを恐れなくても済むのかもしれない。


 俺はにじむ夜空を見上げ続けながら、湧き上がる嗚咽をこらえていた。



 瞬間。


 背後から腰のあたりに、ドンという衝撃が走った。

 目の前の天の川が流線を描く。


 何が起こったか分からないまま、俺の手はただ虚しく空を掻いた。





 おじさんは声もなくおちていった。

 しばらくして、どしゃりという音がひびいたけれど、やっぱりなんの声もきこえなかった。


 ぼくはそうっと岩に手をつくと、がけをのぞきこむ。

 まっくらで、なにもみえなかった。


 どうしてもつらかったら、あまのがわを見に行きなさい。

 お母さんは、いなくなるまえにぼくに、そう言った。


 あの人はわるい人じゃないけど、わたしがしんだあとも、おまえにとっていい人かはわからない。おまえはヨウシになっているし、セイメイホケンもうけとれるから。いやなことをされるようなら、あまのがわを見にいって、せなかをおすんだよ。



 ぼくはうそつきじゃない。

 がっこうをさぼるために、おなかがいたいふりをしているわけじゃない。ほんとうに、いたいのに。おじさんは、いちどもしんじてくれなかった。


 げつようびは、いちばんおなかがいたくなる。きのうぼくは、はじめて、おじさんにぶたれた。


 そのときぼくはきめたんだ。

 あした、あまのがわを見につれていってもらおうって。

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