誰かのお話
月の夢
第1話
あるお話を、探しているのです。
確か、一人の素朴な女性が主人公でした。いつも心にどうしようもない空虚感を抱えていて、小説を読むことでそれが少し紛れるため、暇さえあれば活字に目を落としては物語に身を投じていく様子が描かれていました。
特に大きな展開はなく、正直ほとんどの人にとって、退屈に感じるであろうお話です。文面はまるで手紙のように、こうして私が今あなたに話しかけているように、書かれていました。
私はそれを読んでいるとき、主人公の彼女に自分の姿が見える気がしました。ただ、ありのままに生きているだけで起こるやるせなさとか、心の隙間とか、そういったものをかき消すように、または埋め合わせるように、夢中でページをめくり、時間も空間も忘れてその物語の世界に入っていく様子が、私と似通っていたからです。
そのお話の中で彼女は、「文章を通して体験したことも、まぎれもなく、あなたの一つの経験だよ」と教えてくれました。私は少し心が救われるような思いでした。
それを実際に経験したわけではなく、ただイメージを膨らませただけだったとしても、あとに記憶として残るものにはそれほど大きな差はないのだと。「だから物語に夢中になるその時間を、嘘で塗り固めているだけだとか、そんな風に考えなくていいのよ」と、教えてくれました。
それ以降も私は、小説を通していくつもの世界を生きています。
この国から出たことはないのに、外国の風を感じたり。結婚したこともないのに、していたり。子供を産んだこともないのに、産んでいたり。
すべて私のものだと信じながら。
探しているそのお話は、いつ読んだものだったのか、著者は誰だったか。完結しているのか、それともまだ続いてるのか。なに一つ思い出せません。
自分なりに検索をかけて調べてみましたが、情報は曖昧でなにも引っ掛かりません。
私の知る中で一番大きな書店に来ました。ここならどこかにそのお話が入った小説が、1冊ぐらいまぎれているだろうと。
何人かの書店員さんにそれを伝えましたが、タイトルも著者もわからないなら調べようがないとあしらわれました。一人優しそうな書店員さんが時間をとって調べに行ってくれましたが、それでも見つからず、「申し訳ございません。」と深く頭を下げられました。
でもどこかにあるはずなのです。
私は書店の本棚の下には引き出しがあり、ストック本がそこに入れられていること、古くなったけれど返品できないものなどがそこにしまわれていることを知っています。その中にあのお話が紛れ込んでる気がして、引き出しを端から開けては奥に潜んでいる小説たちを引っ張りだしていきます。そしてすべてのベージをパラパラと開いて確認していきますが、それらしい文章は見つかりません。
「お客様、そこは……」とさっきの優しく気弱そうな書店員さんが注意しようとしています。他のお客さんも多く怪訝そうに咳ばらいをしながら見てきますが、もう関係ありません。そのお話を見つけるまでは、帰れないのです。
そばで見ていたおじさんがいい加減にしなさいと、私の手を引っ張り、その場から引き剝がされました。そして書店の裏側に連れていかれます。おじさんはどうやら私服警備員だったようです。
倉庫のような、店内とは打って変わってボロボロで埃っぽい場所に連れてこられました。
お話を探すことに神経を使いすぎ、私の頭は朦朧としています。店長らしき人と警備員さんが苛立った様子でいろいろと聞いてきますが、何を言っているのか、よく聞こえません。けれど、どうしてあんなことをしたのかと聞いているようです。ただあのお話が欲しいのだと、手元に置きたいのだと伝えても、ここにはないと言ったはずだと言って、それ以上は聞いてくれません。
しばらくすると警察官がやってきました。お前は何者なのだと、名前を聞いてきます。今の自分にはどれが本当の名前なのかも、わからないのです。
私の方が教えてほしいのです。私が誰なのか。
それより、あのお話はどこにあるのでしょうか。
誰かのお話 月の夢 @thukiniyume
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