サネカズラの魔女

朱珠

1話

 僕は生まれたときから他の人の記憶を持っていた。

 記憶というには曖昧で、他の人というには無理があるくらい、どうしようもなく僕の記憶だった。


 それは僕のタイミングなどお構い無しに脳裏に過ぎっては、脳髄を焼き切りそうなほど苛烈なものだった。


 それの中の僕は大好きな人を何度も何度も刺し殺すんだ。

 響き渡る断末魔に視界を奪う鮮血、異臭を放つ屍に容赦なく刃を突き立てる。

 茹だる脳みそ、凍てつく心臓、機械的に動かし続ける両腕。


 それが自分の記憶であることは疑うことも否定することも許されない。

 耐え切れず僕は首にナイフを突き立てて自害した。


 そしてまた僕は生まれた。同じ魂を持って。

 僕には夢がある。人を殺した僕にとっては愚かにして大それた夢だ。


 忘却とは、死とは救済なんだろうか?

 忘れたくない? 死にたくない? そんな言葉、僕から言わせれば我儘だ。

 なぜお前達はのうのうと生きられている。疑問を持つことなく息が吸える?


 人間の殆どが前世でどれだけ罪を犯そうと今世には無縁のことだと思うからだ。そもそも過去の自分に興味すら抱かない。


 己の罪を自覚できないものは皆、罪とは無関係だ。贖うこともなければ、罪の意識に蝕まれることもない。


 それは何故か。忘却の彼方。新たな肉体と純新無垢な魂の装填。生まれ変わり、輪廻転生。これは魂の浄化だ。


 ならばその全てを満たすものを死と定義し、それに繋がる行為を救済と呼ぶことになんら違和感は感じまい。


 しかし、何事にも例外は存在する。僕にとって死は救済に非ず、己を痛め付けるだけの自傷行為だ。


 ならば僕と同じ、魂を取り替えて貰えなかった人間達に救いの手を差し伸べるのは? 否、それが意味のないことだなんて考えるまでもない。


 殺した感触を麻痺させる為の殺しに、救済なんて言葉を使うのは最低だ。

 免罪符にもなりやしない、僕は壊れても終わりが来ないんだ。

 これ以上精神に負担をかけるわけにはいかない。


 それこそ僕が人を殺せば、いつ前世の殺人犯に成り代わるか分からない。

 硝子を割って欠片を拾う。大きく息を吸い込んで一思いに。いっそもう一度——。


 こんなことをしても無駄だ。まるで意味がない。そう僕の魂が言っているような気がした。混在する僕と僕。殺人衝動との葛藤が自我を呼び起こすような気がした。これじゃ本当にいつ殺しをするか分からないな。


 僕という怪物を野放しにしておきたくないのなら、殺すべきは身体ではない。

 大抵の人間は死ねば記憶も魂もリセットだ。でもこの魂は強固であるが故に消えずに残り続ける。


 魂を殺せとは言っても、何度死んでも残る魂なんてものは簡単には殺せない。


「やあ」


 人の気配がして振り向く。紫色のコートに身を包んだ女がそこに立っている。

 一体なんだ、この違和感。


「初めまして。ではないようですね」

「うん。違うよ」


 これも前世の——いや、それなら生きている時代自体が異なっている可能性もある。動悸が止まらない。゛僕゛は覚えているのか。この人のことを。


「昔話をしようか、■■■■」


 そして、女は語り始めた。遥か遠い昔の思い出を。

 少年は街で出会った女に恋をした。それはすれ違えば誰もが振り向く程の恐ろしく美しい女だった。


 少年も例外ではなく、彼女の美しさに魅了されていたのだ。

 どう声を掛けようか迷っていたところ、女の裾から手拭いが落ちたのが見えた。


 気付く素振りもなく、遠ざかっていく。

 少年はあまりの美しさに気を取られ、急いで手拭いを届ける為に夢中で追いかけた。


 それが二人の出会いだった。綺麗な花には毒がある。

 その女は魔女と呼ばれる化け物だったのだ。だが少年はそんなことに目もくれず、魔女に妄執した。彼女の望みであれば、なんでも叶えてあげたかったのだ。


 魔女もそんな少年のことを大切に思っていたし、愛おしく思っていた。

 お互いがお互いを尊重し、二人の日々は順風満帆に見えた。


 しかし、異端な魔女は死にたがりだった。ことある毎に魔女はこう言っていた。

 死は救済だと。そして遂には自分を殺して欲しいと少年に頼んでしまった。


 愛した女の願いだと、少年は泣きながら魔女を殺した。でもダメだった。

 翌日になって魔女は蘇生したのだ。少年は魔女を不憫に思いながらも、魔女が生きていたことを知り、たいそう喜んだ。


 魔女は少年に懇願した。もう一度殺してくれないか、と。

 少年は断った。魔女を殺したときの苦しみをもう二度と味わいたくない。

 あんな辛い思いをするのはもう二度と御免だと伝えた。


 少年が愛しの魔女にここまで激しく反発したのはこのときが初めてだった。

 魔女も大切な少年にそこまで言われては言い返すことなどできなかった。


 その代わり魔女も胸の内を語った。

 大切な人が先に朽ちていくのは辛いと魔女は涙ながらに言う。


 僕は大丈夫だ。あなたを独りにはしない。と少年は答えた。

 もちろん魔女はそんなの人間の吐いた嘘だとわかりきっていた。

 でもその言葉に淡い期待を抱いてしまった。


「ずっと一緒に居られますように」


、と。

 それが知らず知らずのうちに魔法となって少年にかかってしまった。

 しかし人間の身体は朽ちていくもの。故にその魔法は彼の魂のみに宿った。


 やがて少年は老人になり、死期を悟った。お別れのときがやってきた。

 涙を堪えて窓の外を眺める老人に、不老の魔女は最悪の提案をしてしまった。


「逝く前に私を殺して欲しいんだ」

「あなたを独りにさせないと言ってしまいましたからね」


 魔女は魔法で作りあげたナイフを老人に手渡して別れの口付けをした。

 そして魔女に覆いかぶさり、何度も何度も何度も何度も彼女を刺し続けた。


「あぁ……願いは叶ったのですね」


 今度こそ魔女が死に絶えたことを確認し、老人は安堵しながら首を切った。


 フードの女の話が終わる頃には記憶が完全に戻り、ひとつひとつが鮮明に描写されていく。昨日のようで遠い昔の実体験が蘇ってきた。

 目の前にいるこの人こそが、僕が生涯愛し続けた方なんだ。


「また生き返ってしまったのですか? まったく、何度悲しませれば気が済むんです」

「……ごめんね。全部私のせいだ。痛かったろう、辛かったろう。憎しみも、苦しみもなにもかも私に押し付ければいいから」


「あなただって今までずっと辛かったんでしょう。僕が言ったんですよ、独りにはさせないって」

「きみは昔から優しすぎるんだよ」

「すみません」


 あなたはずっと独りで抱えて生きてきた。独りにさせないって言ったのに。僕は今まで一部分の記憶しか残っていなかった。


 どっちが辛いかなんて明白だ。好きになったのも、彼女の頼みを受けたのも、苦しみを背負ったのも僕にだって責任がある。


「まだ死にたいんですか?」


 僕は息を飲んで彼女に問うた。返答は多分自分でもわかってる。


「うん。私がきみにかけた魔法はね、きみとずっと一緒に居られますようにというものだ。私が生きている限りきみが死ねないのは道理なんだ」

「そういうことでしたか」


 そんな可愛らしい願いが、魔法として僕を苦しめていたなんて、どんな言葉を返せばいいんだろう。


「今の私はね、もう随分弱ってきているから生き返ることなんてないと思う」

「そうですか……それは寂しいですね」


 心からの声だ。久しぶりの再会なのにまたお別れだなんてのは寂しい。


「うん。寂しいのは寂しい。でも随分長いこと付き合わせちゃったから」

「いえ、あなたと過ごした日々は幸せでした」

「ありがとう。きみの手で終わらせてくれる?」


 彼女はまた゛あのとき゛のナイフを手渡して微笑んだ。

 僕の幾度とない人生を狂わせた魔性の笑みだ。

 これで見納めかと思うと本当に、長い戦いだった。


「言いたいことあったら言っていいよ」

「また機会があったら会いましょう。僕でもあなたでもない、新たな僕達で。

 では本当にさようならですね。こんなに振り回しやがって、死にたがりの魔女め」


 僕は少しだけ怨みを込めて自嘲気味に笑った。




「あ、あの……」


 目の前でハンカチを落とした少女に声をかけた。少女は気付く素振りもなく、遠ざかっていく。


 僕はあまりの美しさに気を取られ、急いでハンカチを届ける為に夢中で追いかける。


「ハンカチ! 落としましたよっ……!」

「あ、ごめんなさい。ありがとうございます」


 男達を魅了するであろう魔性の笑みだった。やっぱり信じられないほど美しい。会ったことなんてないはずなのにどうしてこうも懐かしいんだろう。


「すみません、どこかでお会いしたことって」

「不思議ですね。私もそんな気がして」


 僕はこのとき既にこの少女に恋をしていたんだと思う。

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