おいしいお好み焼き
北巻
金魚鉢
喧噪が今にも私を潰してしまいそうです。クラスメイト達は、揃いも揃って大騒ぎです。2時間目、私のクラスでは中間試験のテスト返しでした。二桁の数字を共有することの一体何が楽しいのでしょうか。私には分かりません。お互いにテスト用紙を見せ合いっこして、クラスメイトの顔が喜んだり、驚いたり、様々な変わりようを見せています。私は、受け取ったテスト用紙の点数もろくに見ず、席に着くなりすぐさま鞄にテスト用紙をしまいました。自分の点数が0点だろうが100点だろうが、卒業さえすることができれば私にはどうでもいいのです。
「佐藤さんは何点だった?」
屈んだ状態で私の机に手を置きこちらを見上げる彼女の姿は、猫などの小動物みたいで可愛らしく、屈託のない笑顔はまるで春のお日様の様に暖かく、眩しいです。私が返事をすれば、彼女の表情はこの窓から見える秋のどんよりとした灰色の雲のように暗くしてしまうでしょう。しかし、聞かれたからには返事をしないと失礼ですし、無視をする訳にもいかないので、正直に答えることにしました。
「ええと、自分の点数見てないんだよね」
「えっ、どーして?」
「どうも、こうもないよ。見てないから、自分の点数が何点なのか分からないの」
「じゃあさ、今見ようよ」
「嫌だよ。面倒くさいし。あのさぁ……、逆に聞くけどこうやって点数を教え合うのって何が楽しいの?」
「何がって、……」
しどろもどろになっている彼女を見て、私はやってしまったと思いました。しかし、なにがいけなかったのか、どうすればよかったのかという具体的なことは分かりませんし、それが分かったとしても行動に移すことは無いのだろうなぁと一人頭の中で考えました。昔っからこんな感じではなかったはずです。テスト返しの時、みんなと一緒にワイワイと騒いでいた自分がいたことをまだ覚えています。しかし、いつの日か、周りと馬が合わなくなりました。同級生のことを見下してしまうことも少なくありません。好きな芸能人や音楽、化粧品、恋愛、部活に大学受験。話す内容なんて、こんなのばっかりです。しかも、内容が薄いのだから本当に付き合いきれないのです。昨日あったことと言えば、世界卓球が熱かったこととか、月が綺麗だったこととかでしょうか。しかし、誰もそんなことに興味はないらしいのです。他の子から声がかかったのか、彼女はなにと返事をして私から遠ざかり、また集団に溶けていきました。まるで昨日買ってきた金魚鉢のように、いつまでたっても私は周りと馴染めないのでした。
誤解して欲しくないのですが、私は一人が嫌だとか、仲間はずれは嫌だとか、今の状況から何とかして脱却してやろうなどとはこれっぽっちも思ってはいないのです。周りから、不憫な奴だの、一人で可哀想だのと思われても、私自身はむしろ一人で気楽で、妙な同調圧力に振り回されないでとても助かってるくらいなのです。これだけは本当のことなのです。
だから、少しも教室のみんなと話したくありませんし、できれば仲良くしたいとも思いませんし、完全に一人でいたいですし、少しも寂しくはありませんし、天気予報は必ず当たりますし、悪人はこの世に存在しませんし、政治は上手くいってますし、争いはいつか無くなりますし、どうあがいてもみんな幸せになります。
昼になって家に帰ると母がバタバタと忙しなく、部屋中を行ったり来たりしていました。
「ただいま」
「あ、加奈。お帰り。お母さんこれから市役所行ってくるから。ほんっと、なんなのあの人は」
佐藤家の家族仲はあまり良くはなく、それでいて悪いという程でもありません。父は子育てにはさして関心が無いのか、あまり私に関わることはありません。最近では、母に関わることも少なくなりました。母は、機嫌のよいときと悪いときとの差が激しいです。機嫌の悪いときは、大体父が原因でして、独り言なんだか、話しかけているのか、分からない父の悪口を叫ぶときがあります。あの人とは、十中八九父のことでしょう。
そんな悪口を聞くととても不快で、また不思議な気持ちになります。なんでそんな父と婚姻なんてしたのでしょうか。この男と結婚しろ、さもなければ殺すなどと言われて母は、国家規模でいじめでも受けているのではないかと時々思います。しかし、良いところも多少はあって、私は家族を心の底から嫌いにはなれませんでした。そんな感じのどこにでもある家庭の一つが佐藤家なのです。
「お母さん。お昼はどうしたらいい?」
「テーブルにあるお好み焼きがあるでしょ」
私の方を見ずに、怒りっぽく母は言いました。洗面台でドライヤーの音が響きました。その態度がムカついて、一矢報いてやろうと私は悪口を言いました。
「なんか冷めてるね」
「温めればいいでしょ。いちいち聞かないで」
確かに、お好み焼きだったら温めることはできるでしょうね。心の中で毒づいて、そのあと少し寂しくなりました。
ドアが開いて、ザーと雨の音がしました。母は、行ってきますも何も言わずに出て行ってしまい、ドアが閉まり鍵を閉める音が聞こえました。
私は、ハッとして靴も履かずにドアを開いて出ました。このままじゃいけない。
「お母さん」
私は叫びました。
「何?」
母はエレベーターの前に立ち、苛立ちと困惑が半々といった表情をして私を見つめました。一旦、息を吐いて何を言おうか考えました。何も思い浮かびません。しかし、何かを言わなければいけません。そうしないと、大切な何かがこのままジワリジワリと毒に犯されて壊れてしまう、そんな気がするのです。
「えっと、その、……行ってらっしゃい」
母は虚を突かれたような顔をして、戸惑いながらも行ってきますと返し、そのままエレベーターに乗っていきました。
家の中に戻り椅子に座って、皿に乗せられたお好み焼きのラップを剥がし、一口食べました。まだほのかに温かく、冷めてはいませんでした。生地の中に入っているイカやエビが良いアクセントで、おいしいです。
お好み焼きと箸を隅によけて、テーブルに突っ伏しました。
私はその暗闇の中で海に降る雨のことを思いました。広大な海に、誰にも知られることもなく密かに降る雨のことを思いました。雨は音もなく海面を叩き、それはイカやエビにさえ知られることはありませんでした。
誰かがやってきて背中に手を置き、そっと起こしてくれるまで、私はずっとそんな海のことを考え眠りました。
おいしいお好み焼き 北巻 @kitamaki
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