バニラ
家具屋
バニラ
ヒスイは、もう秋も終わるというのに、その肩まで伸ばした綺麗な黒い髪と制服をびしょびしょに濡らして私の元にやってきた。
「ちょっと、どうしたの!?」
校門の外で待っていた私は慌てて彼女に駆け寄った。
「だって、一緒に帰るって約束してたので」
だからと言って髪を濡らしたまま来ることないのに。やっぱりこの子はいつもどこかズレている。
「せめて髪を拭くぐらいはしてからくるものだよ」
鞄からハンカチを取り出して多少強引に髪を拭いてあげる。
「わ」
驚いて身を引こうとしたので、空いていた左手をヒスイの腰に回して逃げられなくした。
「大人しくしてなさいー」
「……」
そういうと、彼女は借りてきた猫のように動かなくなった。言ったことを律儀に守ってくれる姿はとても愛らしい。
「はい、髪はこんなもんかな」
「ありがとう。ハンカチ、洗って返します」
あらかた髪を拭き終えたと思えば、ハンカチを半ば強引に取られてしまった。
「別に気にしなくていいのに」と何度言っても聞く耳を持ってくれなかった。ヒスイはたまにこうして意固地になるところがある。ま、そこも可愛くて仕方がないんだけど。
「それで、
ヒスイがハンカチを鞄にしまってから聞いた。彼女はだんまりをしたままだけど、それがかえって肯定になってしまっていた。
そう。端的に言って、彼女はイジメをクラスメイトから受けている。
それは私たちが高校に入ってすぐ始まった。初めは無視やシカトといったものだったが、誰かが彼女の机に花瓶を置いてから加速しだした。机にはチョークや油性ペンで落書きがされ、ものも頻繁に隠されるようになった。そんな典型的なイジメが夏まで続いた。
夏休みを隔てて落ち着くかと思えば、現実はその逆。どんどんエスカレートしていった。教科書や運動靴はボロボロになり、根も葉もない噂が他のクラスにまで流れ始めた。そうして秋になって、イジメの規模はトイレに連れ出され水をかけられるまでになっている。
ここまで増長するのは、きっとヒスイがイジメについて一切の反応を示さないからだ。
「いい加減抵抗すればいいのに。やられてばっかりで辛くないの?」
彼女たちは何をされても表情を変えないヒスイにいら立っているんだ。せめて泣くくらいすれば何かが違っていたかもしてないのに。
「ううん、辛くないです。だって、私には心がないから」
「またそれー?」
でも、ヒスイは泣くということをしない。いや、きっと出来ないんだ。
彼女には、心がないらしい。いや、正確にはそうじゃないみたいだけど。例えるなら、プールに一滴垂らしたバニラエッセンス……らしい。
要は感受性が低いんだ。感動するのも傷つくのも人並み以下にしか受け取れない。だから何も思わないし、辛くない。でも、やっぱりそれは間違ってると思う。だって、一滴でも心があるなら、きっと辛さも蓄積されてるはずなんだ。
「本当に辛くなったらいつでも言うんだよ? 私は、私だけはあなたの味方だから」
「ありがとう。でも、大丈夫だから」
ヒスイは表情を変えずに言う。大丈夫。大丈夫、か。気にしないで、という意味なのだろうけど、私には突き放されているように感じた。どうして? 私はいつもあなたのそばにいて、いつも味方でいるのに。
ううん。理由はわかってる。もう気づいてしまっている。ヒスイは今まで一度も「親友のあなたがいるから」とは言ってくれたことはなかった。結局はそういうこと。きっと、彼女の中で私は大きな存在ではないんだ。
だから、そろそろ潮時なのだろう。
「そっか」
私はヒスイの頭を優しく撫でて、一呼吸おいてから「そういえば」と何気ない日常会話を切り出すノリで、こう言った。
「――あなたを虐めてるグループのリーダーが私って言ったら、悲しい?」
◼︎◼︎◼︎
きっかけは中学一年生、文化祭が終わった時のことだった。私たちのクラスの出し物は特に人気で、人気投票でも一位を取るくらい盛況だった。今になって思い返せば取るに足らないものだったけど、実行委員だった私はクラスのみんなと肩を組んで喜んだ。
そんな時だった。円陣を組むクラスメイトの外側、輪には入っていないけど外れているとも言えない絶妙な位置にいる彼女を見つけた。輪に入っていない他のクラスメイトはもちろんいたけど、そういう人たちはあからさまに教室の端でつまらなそうにしているだけ。だから余計にあの子のことが目についた。他の人は気にも留めてなかったけど。
そして、気づいた。あの子は私たちのことを静かに見ていたんだ。
感情の欠けた、
機械みたいな、
人形みたいな、
そんな目で私たちを見ていたんだ。
それから、どうしてもあの子のことが気になって調べることにした。幸い、情報を集めることに苦労はしなかった。ほとんどのクラスメイトは
「ふぅん。あの子、ヒスイって名前なんだ」
今まで興味もなかったから苗字すらうろ覚えだったけど、文化祭が終わって一週間も経つ頃には私はヒスイのことを知り尽くしていた。
成績は中の上。
帰宅部。
よく図書館にいる。
両親は公務員で共働き。
去年までピアノの習い事をしていた。
親友と呼べる仲の子はいない。
好物、
嫌いなもの、
エトセトラ、エトセトラ……
ヒスイは印象に残りにくい子だったから最初は大変だったけど、人海戦術でどうにでもなった。
そして、ヒスイという女の子を知り尽くして、ようやく声をかけた。
「ねぇヒスイさん、ピアノ弾けるって聞いたよー! 今ね、合唱コンクールの伴奏出来る子探してて――」
それから私は出来るだけヒスイの側で過ごすようになった。お昼も、移動教室も、登下校も。幸い、彼女は私を拒むことはなかった。今までも嫌われたことなんて一度もなかったけど、彼女と接するのは少し不安でもあったから。
そうして近くにいるようになってから、よりヒスイに興味が湧いた。この子、全然私を大好きになってくれないんだ。こんなことは初めて! というか、この子はどんな人の前でも同じ目をしているのだ。あの文化祭の時に見た機械みたいな、人形みたいな目を。よく見ないとわからないレベルだったけど、ずっとヒスイを見てきた私にはわかるんだ。側から見れば普通のリアクションでもその目は冷たいまま。まるで人間のフリをしたロボットみたい。
今まで私が興味を持った人で、私を大好きにならなかった人はいなかった。だから、唯一の例外であるヒスイに私は夢中になった。
私は、この子に私のことを大好きになってもらいたい。そして、いつかとびきりの感情を露わにしてみせる。
中学での三年間を通じて分かった。ただ仲良く優しく振る舞っても、この子は私を大好きになってくれない。
だから高校では少し趣向を変えた作戦を試してみることにした。
入学してすぐ、流されやすそうな雰囲気の子たちと仲良くなることにした。案の定みんな、先生もクラスメイトもみーんなすぐに私を
その子たちに頼んで、イジメをしてもらって。先生とクラスメイトはヒスイから距離を取るようになった。
これで、私だけ。私だけが学校でヒスイの味方になった。
◼︎◼︎◼︎
「だから、私に依存して、大好きになってくれると思ったのになぁ」
うまくいかないもんだね、現実は。シミュレーションは完璧だったんだけどなぁ。
「何を言って、るんですか?」
相変わらずの無表情だったけどほんの少しだけ震えている声は、彼女の一滴分の感情の表れかもしれない。
「だから、あなたを虐めてたのは実質私ってことなんだよ」
特に監修とかはしてなかったから内容は実行する子たち次第だったけど。まぁ休み明けにもう少し過激にって指示を出したのは悪くなかったけどな。一度、どこまでの指示を聞いてくれるか試してみるのもいいかもしれない。
「だって、そんなこと」
「そんなこと不可能? 普通はそう。でもね、私にはそれが出来る」
「どうして……」
「だってみんな、私が大好きだから」
ヒスイの表情は動かない。わかってたけど、種明かしの時までポーカーフェイスだと調子狂っちゃうなぁ。
「知ってる? 心をほんの少しだけ人にあげるとね、心が元の場所に帰ろうとして、その人の心ごと引っ張っちゃうの。それでその人は私に惹かれてるって感じるの」
私は溢れるほどの心があるから、みんなに分け与えられる。そうやって、私はたくさんの人を大好きにさせてた。
でも、ヒスイの心は希薄すぎて心をあげても引っかからずにそのまま帰ってきちゃう。
あなたが私に依存して、私のことしか見れなくなれば、私の心の受け皿が大きくなってくれる。私を大好きになってくれる。そう思ったけどうまくいかなかった。
ねぇ、本当にあなたには心があるの? その一滴さえ演技ではないの? やっぱり、あなたは人の皮を被ったロボットなの?
あなたは私のものにならなかった。だから、せめて、あなたの人間らしいところを見せてほしい。
混乱したままのヒスイに優しく抱きついて、そのまま彼女の鞄に手を伸ばした。
「え、あ」
そこから取り出したのは、ブックカバーのかけられた一冊の本。
「これ、一人の時はずっと読んでるもんね」
カバーを外しその辺に放って、表紙を見た。
ヒスイがいつも肌身離さず持っていたそれは、児童向けの小説だった。たしか、心をなくしたお姫様に心を預けた小鳥が星になって消えてしまう話。
それを見て、私は胸が苦しくなった。辛くないとか、心がないのをメリットみたいに言ってるくせに、心に憧れてるの? 憧れるくらいの感情があるなら、どうして私のことは大好きになってくれないの? それとも、この本も演技をするための仕込み?
答えの出ないイライラをぶつけるように、開いた本を両手でつかんで彼女の目の前に持ち上げた。
そして、指先に力を込めてねじるようにしながら本を左右に引っ張った。いつも持ち歩かれて、くたくたになるまで読み古されていたからか、それは簡単に破れ始める。ギチギチ、メリメリと音を立ててゆっくりゆっくり裂けていく。
「……めて」
何かを呟いてるけど、私は手を止めることはない。やがて裂け目が半分を通り越して――
「やめて!」
その時、いくら教科書をボロボロにされても眉一つ動かさなかった彼女の片目から、一筋の光が頬を伝った。
「……え。な、に、これ」
突然のことに驚いたヒスイは、慌てて自分の顔を制服の袖で拭った。
だから私には少ししか見えなかったけど、それは紛れもなく涙だった。
涙。
ヒスイが初めて見せた、本当の感情。
呆気に取られていると、ヒスイは私の手から本を奪い返し、そのまま走り去ってしまった。
その後ろ姿に、私は自分の感情が溢れるのを感じた。ドキドキして、苦しくて吐きそうになるほど嬉しくて、呼吸をしばらく忘れるくらい。
「なんだ、あの子も人間じゃん」
◼︎◼︎◼︎
次の日の昼休み、私はヒスイに呼び出されて屋上に上がっていた。ここはいつも二人でお昼を食べていた場所。本当は入っちゃダメな場所だけど、ドアの立て付けが悪くなっていて、入れるようになってることを近所の卒業した先輩が私だけにこっそり教えてくれた。
ヒスイがイジメてくる子たちから逃げられて、私と二人だけになれるようにと教えていた場所だ。
「で、どうしたの。イジメのリーダーが私って知って、大切にしてたものも壊されかけて、それでも私に何か用事があるの?」
もしかして、やっと私のこと大好きになってくれたのかな。それとも怒られちゃうのかな。それでもいいな。ヒスイが感情を露わにして怒ってくれるなら。人間らしいところを私に見せてくれるなら。
こんなに嬉しいことはないんだから。
「これ」
期待に胸を弾ませていると、ヒスイはスカートのポケットから何かを取り出した。そして差し出された彼女の手の中にあったのは白い布。よく見ると、昨日私が髪を拭いてあげたハンカチだった。
「洗って、返すって言いました」
その言葉には、いつも通り感情は乗っていなかったけど、なんでだろう。それでもいつもなら愛おしくて愛おしくて堪らなくなるはずなのに、今日の彼女は何か違った。何か、明確な違和感がある。
だって、いくら感情が薄いといっても昨日あんなことをしたのに。なのに、そこまで律儀に約束を守ること、あるのかな。
「あれから、家に帰っても涙? が、しばらく止まらなくて。それで、その後疲れてすぐに寝てしまいました。それで、起きたら何も感じなくなってた」
その違和感は、ヒスイが言葉を発するたびに強くなっていく。
「その時はとても痛くて、とても苦しかったはずなのに、今では何も思わないんです。今はただ、すべきことをこなしているだけ」
やめて。これ以上喋らないで。そんな、
そんなロボットみたいな顔で口を動かさないで!
「今日はロッカーにたくさんゴミが詰められてました。なのに、何も感じなかった。不思議ですね。いつもなら、胸の奥の奥がほんの少し痛むのに」
そう言って胸に手を当てるヒスイを見て、私は気がついてしまった。違和感が私の中で形を結んでしまった。
ああそうか。あの涙は、ヒスイの中の感情すべてだったんだ。きっと、演技だなんだって疑っていても、どこかに感情のかけらが見えていたからここまでヒスイを諦められずにいたんだ。でも、今はそれもなくなった。私のものになることがないまま。
私の中で強い想いが爆ぜた。
ヒスイの最後の感情は、流れてしまったんだ
結局、あなたの心は手に入らないまま、消えた
そんなのいやだ
感情がなくなっただなんて認めない
だから、全部あげるの
「え、な、――ん!?」
大きく踏み出して、ゼロ距離まで近づいて、顔を寄せて、キスをした。
突然のことにヒスイは固まってしまっている。目の前のことを整理するので精一杯みたいだ。それでも突き放したりしないのは、嫌悪や羞恥といった感情が欠けてるからなのかな。
大丈夫、安心して。嫌悪も羞恥も、好意も、恋も。ぜんぶぜーんぶ教えてあげる。思い出させてあげる。
いつも、誰かに私を大好きなってもらう時、私は私の心を少しだけ分けていた。でも今回は少しじゃない。ぜーんぶあげるの。あなたのなくしてしまった心のスペースを埋め尽くして、それでも溢れるくらいの心を。
その時、むせ返るほどのバニラの香りがいっぱいに広がった。いきなりのことにびっくりして、でもすぐに理解する。そうか、この香りは感情の香りなんだ。プールにバニラエッセンス一滴なんて規模じゃない。原液でプールを埋め尽くそうとしているんだからこれだけの香りがして当然だ。
やがて呼吸をするのも忘れてヒスイの唇を吸っていたことに気がつき、心を半分ほどあげたところで息継ぎをするために顔を離した。
私の心を半分受け取った彼女は、自分の胸から湧き上がる感情に戸惑っているようだった。目の前の事実が受け入れられなくて、眉を上げたり下げたりしている。
そして、なんとか気持ちの筋が通ったのか、眉を吊り上げた状態の顔で私を睨みつけてきた。それが「憤り」という感情なのだとあなたは気がついているのかな。
その視線に晒されて、私はふと気がついた。
「きっと私のこの力は、あなたのためにあったんだね」
天啓のように頭に浮かんだその言葉を口にして、噛み砕いて、咀嚼して。
そして、どうしようもなく胸がときめくのを感じた。私の残り半分の心全てがときめいている。ああ。ああ! 私の心はあなたのもの。力はそのためにあったんだ!
「そ、そんなの望んでない。勝手なこと、しないでください……!」
その言葉に、声音に感情が乗せられていることにどうしようもなく嬉しくなって、ときめいて。再び私は彼女にキスしようとする。今度は拒絶しようと手が動いたけど、もう意味ないよ。だってあなたはもう私の手の中にいる。組み付いた相手を引き剥がすのって大変なんだよ? それに、あなた全然運動しないから非力だもんね。
暴れる両手を掴んで、無理矢理に唇を奪って、今度は舌も絡めてみた。今度は香りだけじゃなくて、バニラの甘い甘い味がして。ヒスイが何かを叫ぼうとして漏れる鼻息が頬に当たって少しくすぐったい。ずっとこうしていたいと思うくらいしあわせな時間。
でも、そういうものは得てして長く続かない。
首筋がだんだんと冷たくなって、どうしようもなかった胸のときめきが収まっていくのを感じる。
わかってる。感情をぜーんぶ渡すっていうのはそういうことだ。
嫌だな。寂しいな。もうヒスイにときめくことはないんだ。
だから、感情があるうちにやるべきことを胸に刻んでおく。大丈夫、もう決めたことだから後悔もない。私は満足だ。
そして、だんだんと薄くなっていったバニラの香りが完全に消えてから、唇を離した。
乱れた呼吸を整えて、最後に大きく息を吸って、吐いて。それから辺りを見回す。
そこには、感動も、感慨もないモノクロの世界がそこには広がっていた。
ああ、あなたにはこんなふうに世界が見えていたんだね。今までの私が見てた極彩色の世界とは真逆だね。確かにこれじゃあ私のことを大好きになんて、なれないのかもね。
寂しそう、と他人事のように思った。今の私には絶望も後悔も感じられない。ただある、ということを受け止めているだけだ。
おっと、いけない。自分に課した使命を果たさなきゃっていう、最後に私の心が残した余韻が残っているうちに動かないと。
ヒスイにだけ、まだ色がついて見えるうちに。
「ねぇ、バニラの花ってさ、一日も経たずに落ちちゃうんだって」
「なんの、話ですか」
「でもね? 花言葉は『永久不滅』なんだよ。ロマンチックだよね。その香りがいつまでも残るからだって」
バニラの香りに包まれて、思い出したことだ。まぁ最期なんだし、ちょっとくらい洒落た話をしてもいいよね。
「そういえば、ヒスイが大好きなあの本だと、小鳥は最後に心を預けて星になるんだっけ」
その言葉を聞いて、ヒスイははっとした表情を浮かべる。心のあるあなたはこんなにも表情豊かなんだね。今この一秒一秒が新鮮に思える。
「……許せない。よだかは本当に自分勝手です! わたしにこんな感情を抱かせたまま自分だけいなくなろうとするなんて!」
ヒスイが私を睨む。たくさんの想いがごちゃ混ぜになった表情で。それは私だけに向けられた激情。きっと感情のコントロールの仕方なんて知らないんだろうな。心に浮かんだもの全部が整理されないまま出てきてしまっている。
少し前の私だったら、愛おしすぎて抱きしめていただろうな。
「だから、最期にヒスイのためになることを、させてよ」
心はなくなってしまったけど、それでもしたいことはわかってる。だって、ヒスイのためになることだから。
「私がいると、せっかくヒスイにあげた心が私に帰ってきちゃうからね」
死んでしまえば、その心はあなたのものになるの。それはきっととても素敵なことだよね
「私を大好きだったみんなも元に戻るよ。だから安心して。あなたを虐める人はもういなくなる」
大丈夫。あげた心同士は惹き合わないから。じゃないとみーんな私だけを大好きにならないもんね。
「やめて」
「楽しかったなぁ。思い通りにならないことって、ワクワクするんだって知れたよ」
私のことが大好きなだけの人たちと話す時よりも、ヒスイといる時間の方がよっぽどキラキラしてた。
「やめてよ」
「それとごめんね? 大事にしてた本を破っちゃったりして」
壊れたモノは元に戻らないから、悪いことしちゃったなぁ。
「やめて! よだかは何にもわかってない!!」
耳を塞いで叫ぶヒスイの足下がモノクロになった。もう時間が残り少ないんだ。大丈夫かな。お別れの前の挨拶はこれで十分かな?
「なにも死ぬことないじゃないですか。よだかはわたしを大好きにさせるのが目的だったんじゃないですか!?」
そうだよ、だから心配しないで。私はもう目的を果たすから。
ああ、色が消えてく。私に残った感情の残滓がもう少しで蒸発するんだ。だから、その前に。
きっと、ヒスイもこうやって笑う表情を作ってたんだろうな。やっぱり最後に見る私の顔は笑顔がいいだろうからね。
「うん、だから死ぬの。だって――」
――私があなたの目の前で死ねば、あなたは私を絶対に忘れないでしょう?
まるで散歩に行くみたいな足取りで屋上の縁に立って、まるでプールに飛び込むみたいにそこからジャンプした。
何か叫んでいるけど、もう白黒のあなたの声は聞こえないや。
遠ざかる屋上を見れば、あの子が手を伸ばして泣きじゃくっている。私を失うことに、泣いてくれている。きっと私はその顔が見たかったんだろうな。
スローモーションになっていく景色の中、満足して目を閉じると瞼の裏に懐かしい記憶がいくつも浮かんできた。これは、走馬灯ってやつかな。
描いた絵が両親に褒められた記憶。みんなが私を大好きになってくれる方法がわかった記憶。学校でたくさんの友達と遊んだ記憶、文化祭の、体育祭の、修学旅行、卒業式――そして、ヒスイと過ごした記憶。あらゆる記憶がコマ送りで私の周りをぐるぐる回る。
私の人生、楽しそうなことばっかりだったなぁ。
そういえば、走馬灯って死ぬ直前にどうにか生き延びる方法を模索して起きるんだっけ。感情は失っても、本能はまだ私を生かそうとしてくれるんだね。でももういいの。私は私のすべきことを成し遂げたんだから。
――ああ、でも。
「あの子が心の底から笑ったところ、見たかったなぁ」
ひび割れたコンクリートに体が触れる瞬間、微かなバニラの香りが私の鼻腔をくすぐった。
バニラ 家具屋 @kaya-120-T
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