ある男の日記、その男の人生 KAC202211

彼の人生を記した日記は、60冊を越えました。愛し愛された日々は、記憶にも記録にも残るものです。 アニバーサリー・チャンピオンシップ 2022用600~4000字#KAC202211



その男の日記は、60冊を超える。

年に一度、買い換えられる手帳の週開きの頁に短く書かれていた。

4月に始まった1冊目は、18歳で入社した会社の支給品と思われる。

まだ若く希望に満ち溢れた決意から始まる日記は、そこから60冊を超えて綴られて行く。


初めの頃は、恋人との恋と新入社員としての希望や挫折が溢れていた。

暫くすると、遠距離恋愛の果てに実を結んだ愛と第一子への決意が書かれていた。

社内の空気にも慣れた若人の輝くばかりの日々が、そこかしこに散りばめられていた。

やがて第二子の誕生と昇進、栄転と転職、妻との諍いや育児での失敗などの山と谷を繰り返しながら10冊目を迎える。


第三子が生まれる頃、企業戦士として昼夜を問わず戦ってきた男の身体に翳りが見える様になる。

飲酒喫煙夜食会食、その身を削り休みを削り、子供との触れ合いもそこそこに会社に忠誠を尽くしてきた男は病に倒れた。

今までの苦悩や後悔、思慕や恋慕、白いだけの部屋で書き付けられた言葉には、「何故」と「まだ」がせめぎ合っていた。

一命を取り留めた男は、決意も新たに妻と子供を食わせるために身を粉にする様に働き出した。

時に口汚く、時に情けなく、迷いながらも仕事と病と闘う男は必死だった。

妻と子はきっと分かってくれていると、その時は本気で思っていたであろう世迷い言が力強く書かれていた。


やがて、子供は成長する。

長男の受験失敗、長男と長女との喧嘩、妻の疲労、次女の我儘、実家との確執、男は家庭と仕事に随分苦悩を抱えていた様だ。

何度か入院を繰り返し、妻の呆れ顔にも子供達の反抗的な目にも慣れ、男は自分の価値を疑い始めていた。

「これが俺の望んだ生活だったのか?」

20冊を超えた日記に自問自答を繰り返しながら、男は白い天井を見つめていた。


やがて入院生活と勉強漬けの日々に別れを告げ、男は国家資格を取得した。

自分で一から始める事業、顧客の開拓、営業、独立の炎は男の決意を糧として赤赤と燃えていた。

そうこうするうちに、何となく宙ぶらりんになっていた妻との関係に大きなヒビが修復不可能な程に成長し、長男は就職氷河期、長女は素行不良、次女は考え無しに育ってしまった。

男はまたも失敗したことに気づいたが、手元に残ったのは次女と仕事と病との闘いだった。

せめて、次女だけでもしっかり育てようと必死になればなるほど、病との闘いに挫けそうになる。

病に倒れた時に、駆けつけたのは離れていた妻だった。

そこから這い上がった男は、自分の身体と家族を第一に考える様になった。

「無理せず、頑張る。困った時は、相談する。」


日記が30冊を超えると、孫の居る世代になっていた。

何故か男ばかり産まれてくると、ボヤき混じりの幸せなものに変わっていった。

40冊を過ぎる頃には、数々の妻との旅行に思いを馳せ、両親を空へ見送ってやがてくる我が身を思い、まだまだ負けぬと己を奮い立たせる内容が増えていた。

50冊代も半分を超えると、現役を引退したい気持ちとしたくない気持ち、まだ出来ないという気持ちともぉ楽になっても良いかな?と思う気持ちのせめぎ合いが、70歳を超えた男の日常の中に見え隠れし始めた。

60冊目は騙し騙しながら一世紀近い時間の苦楽を共にした身体が、遂に限界を迎えた音を聞いた。

最後の1冊には、何とか自分と妻の葬式代は残してやったぞ!と、強がりを書いた文字が震えて解読が難しくなっていた。

最後に妻と子の「パパ、ありがとう」がそれぞれの字で書き加えられて、その日記は締めくくられた。


人の一生の、なんと喜怒哀楽に満ち満ちていることか。

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