第9話 トップアイドル ロロ・セロン(1)

 ライルはひとり市場の中を歩いていた。


 屋台や雑貨屋の灯すランプできらめく通りは、多くの人で賑わっている。


 ランプの明かりの下には、店主と客が値引き交渉している姿や、もう酒が入ってでき上がっている男たち、屋台の前でお菓子をねだる子供と困り顔の母親などが浮かび上がっている。ライルはこの時間、この場所が好きだ。



 よく妹と手をつないでここを歩いた。

 ライルの手を取り引っ張っていく妹はいつも笑っていた。

 だが、今、ライルはその笑顔を思い出せない。

 記憶の中の妹は、いつも黒いモザイクで覆われている。



 ライルは首を振って意識を過去から現在に引き戻した。

 文具店のショーウィンドウが目に入った。

 いくつかの筆記具と様々色の手帳が並んでいる。

 それを見て、ライルはあの銀髪で碧眼で巨乳で度の過ぎた美少女のことを考える。



 グレネは街で見かけた黒猫のことを「イヤな感じ」と言った。

 だがあの猫は普通だったら見えないはずの存在だ。


 ライルへの告白もきな臭い。

 第一、言い回しが奇妙だ。

 女の子の告白といえば「好きです!」とか「付き合って下さい!」ではないのか?少なくともライルがみてるアニメではそうだ。


 「愛を与えて下さい」というのはどういう意味なんだろうか。


 ライルはしばらく人の流れの中で立ち尽くす。



―  君には今日、少女との出会いがある。その彼女……殺……くれないだろうか?   ―



 確かに今日ライルには少女との出会いがあった。

 しかもとびきりの度の過ぎた美少女だ。

 あの手紙はグレネのことを言っているのか?

 俺に公爵のご令嬢を殺せというのか?

 冗談ではない。

 もう女を殺すのは嫌だ。

 ライルはポケットから手紙を取り破り捨てようとした。

 が、しばらく手紙を睨んだ後、またポケットに突っ込んだ。



 ライルは人ごみの中を歩き出した。

 進んでいくほど人ごみはどんどんひどくなり、普通に歩くのも難しくなった。

 事故でもあったのだろうか?


 ライルは目を閉じ、足と石畳が接する面に意識を集中させた。

 ライルの中に周囲のイメージが流れ込んでくる。

 すると大勢の人の注意が一人の人物に向いているのを感じ取った。

 耳を澄ますと「ねえ、みた?」とか「可愛い!」といった声が聞こえてくる。

 映画の撮影で有名人でも来ているのだろうか?



 スルスルと人ごみをすり抜けていくと、なんとライルの自宅の前に黒山の人だかりができていた。

 ライルの家は小さなバーを営んでいる。

 ライルも時々マスターをやっている祖父を手伝っている。

 その家に帰ろうにも人が多すぎて近づけそうにない。

 ライルは回れ右すると、近くのひときわ派手な露店に近づいていった。



「おお、ライル。なんかすげーことになってるな」



 首に赤いヘビを巻きつけた露店の店主がライルに声をかけてくる。



「ポー。あれなに?」



「赤の城塞のアイドルが来ているらしいぜ」



「へー。ちょっと借りるぞ」



 ライルは露店の天幕を支えている柱に登って自宅のバーを見下ろした。

 黒山の人だかりは一人の女を取り囲んでいた。


 その女はすごい美少女だった。

 ふくよかな胸に長い手足というマネキンようなスタイルに、白いカットソー、細いジーンズ、白いスニーカーという実にシンプルな服装だったが、彼女を取り囲んでいる誰よりも目立っていた。

 何より赤いショートボブの髪が印象的だった。



 彼女はマネージャーらしき男に、群がってくる人々を押し返させながら、きょろきょろと辺りを見回している。

 誰かを探しているのか、それとも待ち合わせなのか。

 何にしてもこれでは家に入るのは無理だ。

 ライルがどこかで時間を潰そうと柱から下りようとしたとき、ライルと彼女の目がバチっとぶつかった。



「見つけたー!!!」



 アイドルがライルを指さして大声で叫んだ。その声は群衆の中でもよく通り、彼女を取り囲んでいた群衆も一斉にライルのほうに振り返る。



「へ?」



 無数の視線がライルに集中した。

 嫌な汗が吹き出した。

 逃げろ。

 ライルの心が叫んだ。

 だが、下はひどい人ごみで降りられない。

 どうしようかとまごいている間に、彼女とマネージャーらしき男が、人ごみをかき分けてこちら近づいてきている。

 下からポーが大声で言ってきた。



「ライルぅ、逃げたほうがいいんじゃねーか?」



「逃げたいけど、人が多すぎる!」



「これを使え!」



 ポーはライルに太いロープの端を投げてきた。



「なにこれ?」



「しっかりつかまってろよ!!」



 そうポーが言い終わらないうちに、露店の裏から赤い風船が見る見る膨らんできた。風船は5mほどになるとゆっくり空に浮かび上がりはじめた。



「うわっ、うわっー!」



 ライルが一気に空に舞い上がった。

 ライルまであと一歩のところまで来ていたアイドルたちも驚いて飛び立とうとしている風船とライルを見上げていた。

 だがアイドルは諦めない。



「逃がすか!」



 アイドルはすばやく露店の屋根に駆け上がると、そこからめいいっぱいジャンプしてライルの足に飛びついた。

 マネージャーらしき男も後に続いたが、そのジャンプは空を切り、地面に落ちてしまった。



「こら!離せ!」



「イヤよ!」



 ライルは身をジタバタさせてアイドルを振りほどこうとしたが、彼女はしっかりつかまっているし、地面はどんどん遠くなっていく。



「離………ああっ、もうっ、離すなよ!」



「うん!」



 アイドルはがっしりとライルの足につかまって、一緒に空に舞い上がった。



「はっはっはっー!気をつけてなー!!」



 ポーが手を振り見送っている。

 店も群衆も街も、ライルの下方にどんどん小さくなっていく。



「ほら、あんた!もっこっちに来て!」



「ありがとー!」



 ライルは片方の手でロープを掴み、もう片方の手で脚に飛びついてきた少女を引っぱり上げた。

 少女は両手をライルの首に回して、がっしりと抱きついた。

 下には明かりが灯り始めた青の商都が広がっている。

 あたりを見回してみると、夕日はもう海に沈んでいて、西の空は濃い紫と紺色を背景に、金星が光っていた。絶景だ。



「すごいねー!!」



 アイドルはライルにしがみつきながら、眼下の絶景に歓声を上げた。



「あんた、落ちるなよ!」



 ライルは両手でロープを握り、抱きついている女に向かって大声で言った。



「わかったわ、ライル!」



「!?」



 いきなり自分の名前を呼ばれて、ライルは目を丸くした。

 アイドルの顔とライルの顔は、鼻の頭がくっつきそうな近さにある。

 信じられないほど整った顔と、大きな黒い瞳。

 彼女は瞳をうるませながらライルを見つめている。

 ライルの心臓がバクバク音を立てはじめた。



「私はロロ・セロン!」



「ああ、わかった!手を離すなよ!ロロ!」



「うん!もう絶対に離れないから!」



 ロロと名乗った少女は、顔をライルの胸に埋めて、両手両足をさらに力を込めて、力いっぱいライルにしがみついた。

 ライルはふと、彼女の「離れない」に不穏なものを感じたが、それはすぐにかき消された。

 密着しているロロの体を意識してしまったからだ。

 より具体的には、ライルに押し付けられてる彼女の胸に意識を持っていかれた。ちらりと目を下に向けると、白い胸の谷間が飛び込んできた。



「なに?気になるの?」



 ロロがライルの顔をニンマリと見ていった。



「あたりまえだろ!」



「もっと見ていいよー」



 ロロはさらに体を密着させた。するとライルの顔が青ざめた。



「あとあとあとあと!」



「えー、なにー?!」



「それは後!」



「照れなくていいのにー!」



「そうじゃない!前だ、前!前を見てみろ!」



 前方を見ると、時計塔の突端がそこまで迫ってていた。



「ライル、ぶつかる!」



「飛び移るぞ!」



 ロロは「正気!?」とライルを見たが、ライルは片方の腕でロロをガシッと抱え、体を大きく揺らせた。



「絶対離すな!」



 ライルはロープを握っていた手をはなし、ロロと空中に躍り出た。

 二人の体は一瞬宙に浮き、そのすぐ後にドガンと塔の屋根に落ち、屋根の上を転がり落ちていく。

 ライルは右腕を伸ばし、屋根に指を立てた。しかし、勢いが強すぎて、指がはじき飛ばされてしまう。

 それでもライルは指を屋根に突き立て続けた。



「ぐうっ……!」



 ライルから呻きが漏れたとき、やっと転落が止まった。



「大丈夫か?」



 ライルが腕の中にいるロロに声をかけた。



「うん。大丈夫」



 ロロはライルの腕の中からライルを見上げ、ニカっと笑って答えた。



「ライルは?大丈夫?」



「ああ、大丈夫だ」



 ライルは屋根の上に慎重に立ち上がると、左手でロロの手を引いて屋根に突き出ている窓の方へ退避した。

 窓のとこまで来ると、二人はそこに腰掛けてやっと一息つくことができた。

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