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「あの、」


そう声を出し、絢也じゅんやは、はっとして固まった。

焦る気持ちのままあおいの前まで来たは良いが、人と接する事を避けてきた人間だ、おまけに今までずっと自分の気持ちに蓋をしてきた、言葉にしないよう極力避けてきた。

そんな絢也に、咄嗟に言葉が出る筈もない。


突然目の前に現れた下級生に、葵はさぞ驚き困惑しただろう、早く何か言わなくてはと焦る絢也に対し、葵は不思議そうに「どうしたの?」と尋ねるだけで、怪訝な表情も浮かべず、絢也の言葉をのんびりと待ってくれているようだった。


そんな些細な事に、やっぱり優しい人だと、絢也の胸は熱くなる。こんな自分を葵が避けないでいてくれる、それだけで嬉しくて泣きそうで。


「…あ、の」

「うん?」


しかし、感激すればする程、何をどう伝えれば良いのか分からなくなる。そもそも、絢也の中に芽生えた特別な思いは伝えて良いものなのか、もし変なことを言って嫌われたらどうしよう、と、絢也の頭の中はパニックだった。

そして困り果てた結果、絢也はそのまま頭を下げ、「握手して下さい!」と手を差し出した。顔なんて恥ずかしくて上げられない。目の前には、焦がれ続けた葵がいる。間近で見た葵は、遠目で眺めていた時より何倍もキラキラしていて、絢也の胸を苦しめて仕方ない。

それよりも、どうにか絞り出した握手を求める行為だが、いきなり握手してなんて、葵は変に思わなかっただろうか。見ず知らずの後輩に、握手を求められたなんて笑い話だろうか、もし断られたらなんて言って謝ろう。


この時の絢也の頭の中は大騒ぎで、やっぱり声を掛けない方が良かったのかもしれないと、立場をわきまえなかった自分への後悔と、不安が呼ぶ恐怖で押し潰されそうだった。


だが、そんな絢也とは対照的に、葵はきょとんと絢也を見つめて、それから絢也が見惚れた、あの屈託ない笑顔を浮かべた。


「あはは、握手?俺なんかで良いの?」


その笑い声と優しい一言に、絢也の恐怖は一瞬にして、最高の思い出へと変わった。


当時は絢也より葵の方が背も高く、手も大きかった。そしてその手に包まれた瞬間、自分の突飛な行動を受け入れてくれた事が、まるで駄目な自分を葵が受け入れてくれたような気がして、心が震えた。

誰の目に入らないように生きてきた、そうしなければ日々を過ごせなかったし、それで良いと思っていた。けれど、心のどこかでそんな自分を変えたいと思っていたのかもしれない。


「あれ、君、ちょっと良い?」


絢也の中で、何かが変わろとしている。

ぼーっと立ち尽くす絢也の顔を、葵は少し腰を折って覗き込む。

絢也は、握手した手が離れた所でようやくそれに気づいたが、気づいた時には葵の手が自分の顔へと伸ばされていたので、絢也は驚きのまま固まってしまった。


葵は絢也の前髪を左右に掻き分けると、そっと眼鏡を取った。

前髪や眼鏡によって遮られていた他者との壁を失い、絢也は戸惑いながらも恐々と顔を上げる。そして、再びどっと胸が鳴る。視界いっぱいに、眩しさすら覚える無邪気な微笑みがあったからだ。


「やっぱり!前髪上げた方が良いんじゃない?君、こんなに格好良いのに勿体ないよ」

「え、」

「顔上げてみなよ。俯いてばかりじゃ、しんどいだろ?」


その太陽みたいな笑顔に、世界は再び煌めきに溢れ、知らず内に強ばっていた肩から力が抜けていくような気がした。

まるで映画のフィルムみたいに、その姿は大人になっても、絢也の心に焼き付いて離れなかった。


友人に名前を呼ばれ、葵は返事をすると絢也の髪から手を離す。


「ごめんな、勝手な真似して。もう行くな」

「そ、卒業おめでとうございます!」

「はは、ありがとう」



春風に桜散る中、手を振って駆けて行った葵。その彼が、今、絢也の目の前にいる。



あの頃から変わらない。背の高さが逆転して、大人になった葵は色っぽくなったけど、絢也の中では、何も変わらない、今でも憧れの存在だ。

葵の事は、今も知らない事の方が多いけど、それでも、心はこの人なんだと叫んでる。


葵は卒業式の日に自分が言った言葉を、まだ思い出せないようだ。

葵にとっては記憶にも残らない何気ない言葉かもしれない、それでも絢也にとっては、それが人生を変えた瞬間だった。憧れの人に、格好良いと言って貰えた。それだけで、こんなにも勇気が沸いてくること。




絢也はその卒業式の次の日から、勇気を出して前髪を上げてみた。慣れてきたら、髪を短くして、それから眼鏡を外してみた。背筋が知らず内に伸びたのは、葵が褒めてくれたという事実が、自信に変わったからだ。


そうして気づけば友達も出来て、芸能界にまで入っているんだから、自分でも驚きだ。

人生何が起こるか分からない、未来なんて何一つ思い描けなかったのに、何気ないその一言で、それまでの人生観が百八十度ひっくり返ってしまう事を、絢也は身を持って知った。


あの日、勇気を出して葵に声を掛けなかったら、今の自分はここにはいない。葵がいなければ、背筋を伸ばして歩くこともなかったし、この世界が辛いことばかりではないことも、きっと知らないままだった。



だから、今度は自分が、葵の背中を押す番だ。






「葵さん、俺の側に居るのは辛いですか?」


葵は、考え込んで揺らしていた瞳を止めて、絢也を見上げた。


「俺は、葵さんが好きです。葵さんと居れたらそれだけで幸せです。仕事も頑張ろうと思えます。その為なら、記者に何を書かれても平気です。もし何か起きたら、俺が守ります!駄目なら一緒に乗り越えましょう。それに俺達には、立花さんという強い味方も居ます。…それでも、怖いですか?」


葵は一生懸命、絢也の瞳を見つめている。

どう答えるべきか、正解は何なのか戸惑っているようだったが、やがて困り果て、意を決した様子で、葵は絢也の肩に頭を預けた。

とん、と軽い衝撃に、絢也は驚いて胸を震わせ目を瞬いた。


「…怖いよ、怖いけど…君の側にいたい」


その願い続けた一言に、絢也は体から力が抜けていくのを感じた。

葵が、一緒にいることを望んでくれた。その一言さえ聞ければ、怖いものはない。葵が側に居てくれるなら、どんなものからも葵を守っていく。

絢也は視線の下、頬を擽る葵の髪、肩に感じる愛しい体温にそっと安堵の息を吐いて、葵の背中に腕を回した。


「なら一緒に、」

「ダメだ!」


再度抱き締めようと腕を回した絢也だが、葵に勢いよく腕を突っぱねられ、再び目を瞬いた。


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