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あおいは高校生の時から、その整った容姿と人懐こさっで、学校でも人目を引く存在だった。

本人にその意識があったかは分からないが、下級生から見れば、格好良くて気の良い先輩として有名だった。


同級生の女子が、葵の姿を見かけては黄色い声を上げていたのを思い出す。絢也じゅんやはそれに興味がなかったが、夏のある日、渡り廊下を歩いていると、前を歩いていた女子達が、声を弾ませながら足を止めたので、俯いて歩いていた絢也は驚いて足を止めた。キャアキャアと騒ぐ女子の声につられて校庭へ目を向けると、友人達と楽しそうにボールを蹴る葵がいた。あの時の事を、絢也は今でもよく覚えている。




その当時、絢也は人目を避けるように学校生活を送っていた。人とどう接したら良いのか分からなくなっていたのだ。

小学生の頃、何気なく発した言葉が友人を傷つけてしまった事があった。すぐに謝罪し、その友人との関係は修復できたが、それから自分の気持ちを言葉にするのを躊躇うようになり、心に蓋をするようになってしまった。


そうなってしまうと、友人は次第に絢也から離れ、誰かを傷つける位なら、心をすり減らす位なら、一人で居た方が良いと絢也も思うようになってしまい、気づいた頃には、すっかり人と接するのが怖くなっていた。


それからは、なるべく人と視線が合わないように前髪で視界を覆い、更に眼鏡をかけた。目はそんなに悪くなかったが、眼鏡があれば、自分と人との間に壁が出来たような気がして、少し心が楽になったからだ。


学校ではなるべく人の顔を見ないように努めていたので、それまで学校の記憶というのは、いつも足元ばかりだった。自分の靴先、床、壁、窓、黒板。学校の校門を出て、初めて空が見える、そんな毎日だ。

今思い返せば、しんどい学生生活だった。けれどその当時の絢也には、俯く日々が辛いかどうかも考える余裕すらない。ただ、そうしなければ学校生活を送ることは出来なかったからだ。




けれど、女子のはしゃぎっぷりにうっかり引き寄せられて視線を向けた校庭、屈託なく笑う葵の姿を見つけた瞬間、絢也の世界は一変した。

床や壁ばかりの窮屈な世界に風が吹き、絢也を囲っていた壁が一瞬にして取り払われていくような、そんな感覚。

それと同時に、煌めきが視界いっぱいに飛び込んで、自分の見ていた世界が殺風景だった事に気がついた。

今まで何でもなかった床も壁も、今なら特別に見えるかもしれない。そう思える程、今この時、絢也の世界は煌めきに満ちていた。



普段なら絶対そんな事しないのに、絢也は顔を上げている事も忘れ、暫し葵の姿に見惚れていた。

誰かの話し声が後ろを通り過ぎ、絢也は夢から覚めたように、はっとして顔を俯けた。途端に顔が熱くなり、足早に渡り廊下を行くと、そのまま急いで階段を上がり、人気のない踊り場の角に座り込んだ。二階の一番端の階段は、あまり人が通らない。端は落ち着く、このまま暗がりの中に消えてしまいたい、そう思うのに、ドクドクと煩い心臓がそれを許してはくれない。

知ってしまった煌めきの欠片が、押さえた胸から溢れ出し、絢也にまた夢を見させてしまう。

赤くなった頬に両手で触れ、絢也は困り、その思いを振り払うように頭を振った。


だけど、キラキラは消えない、葵の姿が頭から離れない。

その時は、まさか自分が同性である葵に恋に落ちたなんて気づくこともなく、おかしな胸の高鳴りに困惑するばかりだった。


きっとこれは、芸能人に憧れるのと似たようなものだと、絢也は自分を納得させた。

自分とはまるで違う、誰からも好かれ、心から溢れる楽しそうな笑顔に心惹かれてしまった。自分に無いものを持つ葵を、格好いいと思ったのだと。



そうして葵に密かな憧れを抱いた絢也だが、まさか葵に声なんて掛けられる筈もなく、ずっと影から眺めているだけだった。一年生と三年生では接点もほとんどなく、そもそも自分と葵では住んでる世界が違うと思っていた。


勝手に抱いた憧れだ、遠くで眺めているだけでいい、それで十分だ。



だけど、葵の卒業式の日、もうこれで会えなくなるのかと思うと、居てもたってもいられなくなった。

最後に一度くらい、勇気を出してみたいと思ってしまった。

そう思ってしまったのは、絢也の中の気持ちが、ただの憧れから来るものではないと気づいたからかもしれない。



とは言え、卒業式。会えなくなる寂しさに胸を苦しめているのは、絢也だけではない。

校庭に集まる生徒達、皆、笑顔と涙で卒業生を祝福している。葵の周りにも、多くの友人や後輩達が集まっており、まさか絢也がその輪に入れる筈もない。

しかも、会って何を話せば良いのかも分からない、「卒業おめでとうございます」と絢也が声を掛けたとしても、きっと葵は戸惑うだろう。絢也と葵は、接点なんて何一つない、今まで話した事はおろか、絢也は葵に認識すらされていないはず。


考えて考えて、視線は自然と足元に向かった。

絢也の靴の上に、桜の花びらが風に乗って飛んできた。

遠くで、笑い声と泣き声が、祝福の中で沸いて聞こえる。

あの場所に絢也が向かう資格はない、行っても迷惑だ。込み上げた衝動が、踏み出そうとした勇気が恐怖に塗り変わっていくのを感じ、絢也はぎゅっと目を瞑った。


相手を困らせる位なら、何もしない方が良い。


そう自分に言い聞かせ、絢也が踵を返そうとした時、生徒の輪の中から一人抜け出た葵の姿を見つけてしまい、絢也は思わず目で追いかけていた。

どこへ行くのかと思えば、葵は、校庭脇にある花壇の前で足を止めた。何か思い入れがあるのだろうか、花壇に咲く春の花を見つめ、そっと頬を緩めている。その柔らかな表情に絢也は釘付けになった。葵はそのまま腰を屈め、花壇へと手を伸ばした。葵が立ち上がった時には、その手にはサッカーボールがあり、葵が花壇に向かったのは、そのボールを見つけたからだと気づいた。


そしてその横顔に、絢也は葵を初めて見つけた時の事を思い出していた。


友人達とサッカーをしていて、楽しそうな笑顔が眩しくて、一瞬にして惹き付けられたこと。

あの時の特別な瞬間が、再び絢也の中に蘇ってくる。

殺風景な世界が煌めいて、胸が熱くなる。もっとこの世界を見たい、知りたいと、顔を上げたくなる。


今諦めたばかりなのに、絢也の足は引き寄せられるように、葵の元へ向かっていた。胸が苦しくて仕方ない、どうしても葵に焦がれてしまう。

ここで、終わらせたくない。この気持ちを、何も無かったみたいに消してしまいたくない。


気づくと絢也は駆け出していた。

みんなの元へ戻ってしまう前に、早く、早く。


急いで花壇へ駆け寄れば、葵は絢也に気づき、ボールから顔を上げ、こちらに顔を向けた。



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