足つぼの小宇宙

渚 孝人

第1話

17時に終業のベルが鳴り響いた時、私は一つの決心をする。

「よし、今日こそは行こう。あの場所に。」


車に乗り込んで、私はスマホを取り出す。

何回か呼び出し音が鳴った後に、女性が電話に出る。

「もしもし、こちらはマッサージ専門店、~です。」


澄んだ声だ。その声には一点の曇りもない。

恐る恐る私は尋ねる。

「今から30分後、枠、空いてますか?」


予約表のページをめくる音が聞こえる。

「大丈夫ですよ!何分コースに致しましょうか?」


「足つぼ30分で、お願いします。」


足つぼ30分、それは短くてシンプルな時間だ。

しかしそれほどまでに濃密な30分が、他にあるだろうか?

肉体を蝕む苦痛。そしてその後に訪れる、信じられないほどの興奮とエクスタシー。

あの時間を超える程濃密な30分を、私はまだ、知らない。


私の運転する車が、マッサージ店へ近づいていく。

心臓の鼓動が、徐々に速くなって行くのが分かる。

事務仕事で両足に溜まりまくった血液は、私がその店に入るのを、今か今かと待ち受けている。


自動ドアが開く。

柑橘系のアロマが、私の両方の鼻腔を、優しく刺激する。

店内にはミスチルの曲が、オルゴールで流れている。


優しそうなお姉さんが私に微笑んで、

「先ほどご予約された、渚さんですね?」と尋ねる。

「はい。」

私は答える。そして心の中で言う。

おお、あなたでしたか。今日は、是非とも宜しくお願いします。


彼女は私を、施術用のソファーへと案内してくれる。

寝心地が良さそうな、ふかふかのソファーだ。

私は渡された薄い生地の半ズボンに履き替えて、ソファーに体を投げ出す。


いよいよ、勝負の時だ。


お姉さんは私の両足にクリームを伸ばしていく。

なんだろう、この気持ち。

ああ、そうだ。これはまるで、ジェットコースターに乗った直後のような気持ちだ。


コースターはひどく緩慢な速度で、ゆっくりと上昇を続けている。

この後に待ち受けるのは、転落。

一瞬にして我々は、奈落の底へと落ちて行く。

しかしその絶望を知りながらも、我々は何故か興奮している。

そう、とんでもなく興奮している。


お姉さんが私の脚にクリームを伸ばした時、私はまさにゆっくりと上昇を続けていた。

その後に待ち受ける、絶望を知らずに。


そしてその時は、ふいに訪れる。

一瞬にして、私の中の全ての感覚は、凍り付いてしまう。

私の左足のウラが突然感じた、筆舌に尽くしがたい、痛み。


私は声にならない声で、絶叫した。


痛い。何て痛いんだ。痛すぎるだろ。

厳しかった私の母でさえ、こんな風に私の足の親指をつねりあげたりはしなかった。


ああ、お姉さん。

あなたのか細い腕のどこに、こんな信じられないパワーが、あったのですか?

それとも私が目を閉じた瞬間に、あなたは屈強な髭面の男と、交代してしまったのですか?


しかし私が目を開けると、そこに居たのは、

先ほどと変わらぬ微笑みを浮かべているお姉さんであった。


「強さは、いかがですか?」

彼女は私の足のウラに関節を食い込ませながら尋ねる。


「も、もうちょっと、優しくして下さいいいいいいいいいい!」

と、私は言ってしまいそうになる。

しかし何かが、全力で私を押しとどめる。


それは、私の中に眠る、戦士の心であった。

「本当に、ここで諦めてしまって、いいのか?」

と彼は問いかけていた。


そうだ。ここで諦めてしまって、どうする。

生きる事、それはつまり、痛みそのものだ。

あらゆる恩寵は、痛みの後にこそ、訪れる。そして痛みのない世界には、救いも、ない。


私は歯を食いしばりながら、

「ちょ、ちょうどいいですよ。ははは」と答える。


私は心の中で、声にならない絶叫を続ける。

お姉さんの指が、私の足のウラで、ゴリゴリと音を立てる。

一体全体、どんだけコっていたのだ。


私は普段の事務仕事で座りっぱなしでいた自分を、思い描く。

2時間に1回くらいは、立ってストレッチをするべきだった。

いや、そんな小細工をしても、このお姉さんには通用しないだろう。

彼女の熟練した指は、何もかも、お見通しなのだ。


しかし数分が過ぎると、何かが変わり始めたのが、分かる。

自分の中である一つの仮説が、浮かび上がる。


さっきよりは、痛くない。


ああきっと、血液が、リンパが、流れ始めたのだ。

そこには、命の息吹がある。

まるで春の訪れとともに咲き乱れる、野の花のように。

私の足のウラで命が、芽吹いて行く。

生命がその輝きを、取り戻す。


なんて、気持ちいいんだ。

さっきまでの痛みが、まるで嘘のように、消えて行く。

もうこれは、苦しみではない。


そう、これは、解放なんだ。


私は心の中で手を合わせて、涙を流す。

涙はとめどなく、溢れ出てくる。

生きていて良かった。そう、素直に思える自分が、ここにいた。


「足つぼ30分コース、以上です。お疲れさまでした。」

お姉さんの声が響き、私は再び、目を開ける。


これが足つぼの、小宇宙。

世界の終わりであり、そして、始まり。

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足つぼの小宇宙 渚 孝人 @basketpianoman

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