【テーマ】兄
俺は「お兄ちゃん」という言葉が嫌いだ。
「お兄ちゃんでしょ?」
「お兄ちゃんなんだから」
三つ下のあいつが生まれてから、俺はなりたくもないのにお兄ちゃんになってしまった。
今でも頭の中を掻き回すこの言葉は、俺の捻くれた性格を創り上げる過程で重要なパーツの一つになっている。
そんなことから、俺とあいつの関係は冷え切っていた。
二人きりになっても何も話さない。お互い、相手の趣味も好きな食べ物すら知らない。
別にこの関係を疎ましく思ったことはない。なんなら、俺にとっては好都合だ。
俺が高校一年、あいつが中学一年になった時。あいつは変わった。テストはいつも100点。部活も陸上部に入り、大会でも優秀な成績を残していた。
いつも何を考えているか読めない顔でただ空を眺めていたこいつが変わった理由が少し気になった。
だが、別に俺とこいつの仲で聞くようなことじゃないと思い直し、俺は隣の部屋から毎日、聞こえる嗚咽に耳を塞いだ。
高校三年の夏。あいつは自室で首を吊って死んでいた。
第一発見者は俺。
なかなか降りてこないあいつを呼ぶため、部屋を開けるとあいつはぶらぶらと揺れていた。
そこからのことはよく覚えていない。いつのまにか制服に身を包んだ俺は、棺に入ったあいつの顔を見ていた。
初めてと言っていい程、こいつの顔をまじまじと見た気がする。
俺はふと考えた。
あいつはなんで死んでしまったんだろうか。
成績優秀で運動神経もあって、何が自分の人生に終止符を打とうと思わせたんだろう。
なあ、お前は何を思ってたんだ?
問いかけてみてもあいつは返してくれない。
そりゃそうだ。ここにいるのはあいつの身体だけ。ただの骸でしかない。
はっと自嘲気味な乾いた笑いが自然と溢れる。
今更、何言ってんだか。何もかも遅すぎたんだ。
葬式も終わり、一人いない生活にも慣れ始めた頃、気まぐれにあいつの部屋に入った。
よくよく考えれば、まだ今回で二回しか入ったことがなかった。
初めて入ったのはあいつが首を吊っていた時。
あの時は部屋なんて見る余裕もなかったけど、今改めて見てみるとなんとも殺風景な部屋だった。
勉強机にベット、棚には参考書が隙間なく詰められていた。
俺の散らかった部屋とは正反対な部屋に少し驚く。
子供の頃は俺よりのんびりしたやつだったのに、見ないうちに変わってたんだな。
俺は勉強机の椅子に座り、ここで勉強してたんだな、なんて思いながらなんの気無しに引き出しを開け、息を呑む。
そこには、ボロボロになったノートや折れたシャープペンが敷き詰められていた。俺は震える手でノートを取り出し、開いた。
ノートいっぱいに書かれた暴言の数々は関係ない俺まで顔を顰めるような、ほんとに幼稚で醜悪なものだった。
知識としてはあったが、実際に見ると心にくるものがある。
まるでこの暴言が一つ一つ鋭利なナイフになって、心をじわりじわりと削っていくような。
俺は勢いよくノートを閉じ、荒くなった呼吸を整えた。
間違いない、あいつはいじめられていたんだ。
俺は知らなかった。
……いや違う。俺はちゃんと知っていた。わかっていたんだ。
あいつが何に悩んでいるのか知っていながら、俺は目を逸らして知らないふりをした。
俺には関係ないなんて思いながら。
ああ、ほんと俺はなんてクズなやつなんだ。
頭を抱え、項垂れた俺の視界に一通の手紙がノートの最後に挟まっているのが見えた。
それは俺に宛てられた手紙だった。
『兄ちゃんへ
あなたのことをこんな風に呼んだのは随分と久しぶりな気がします。
いつもは会話なんてしないし、あなたのことを呼ぶこともない。
それに、あなたは僕のことよく思ってないみたいですし。
けど、覚えていますか?まだ僕が小学生にもならなかったあの頃のこと。
両親とはぐれてしまったショッピングモールの中で、あなたと僕の二人きり。背の小さかった僕には周りの大人たちはすごく背が高いように見えて、とても怖かったのを覚えています。
そんな僕の救いは、あなたが握っていてくれた手でした。
ぎゅっときつく固く繋いでいてくれた手があったから、僕は恐怖に打ち勝てたんです。
結局、迷子センターに着いた頃には二人とも泣きべそをかきながらでしたけど。
それでも僕はあの時、あなたのことを僕の兄ちゃんだと強く思いました。
それから少しの間、あなたに話しかけ続けたけど、無視し続けられましたね。
いえ、責めているわけじゃないんですよ。ただ、少し寂しかったなとは今になって思います。
僕が言いたいのは、あなたが僕のことをどう思っていようと、僕はあなたのことを兄ちゃんだと思ってる、ということです。
だから少しだけ、この紙の上でだけ、馬鹿な弟のわがままを許してくれませんか?
中学に入って、あなたとの会話のきっかけを作ろうと、勉強も部活も頑張りました。
しっかりと中学生活を満喫すれば、高校生のあなたと共通の話題ができて話しやすくなるんじゃないかって、勝手に思っていたんです。
中学一年が終わり、二年に上がった頃、僕はいじめを受けるようになりました。
最初はちょっかいをかけられる程度だったのが、段々と酷くなってきて、最近では靴を隠されたり、水をかけられたりされるようになってきました。
どうしてこうなったんだろう。僕はただあなたと話したかっただけなのに。
家族に助けを求めようかとも考えました。
でも、できなかった。家族に、あなたに心配をかけたくなかった。ずっと独りどうしようもない状況を嘆くことしかできなかった。
本当は助けて欲しかった。またあの時のように手を握って欲しかった。
こんなこと、今更あなたに言っても遅いのに。あなたに背負わなくていい重荷を背負わせてしまうだけなのに。僕は言わないと気が済まなかった。
ごめんなさい。こんな弟でごめんなさい』
違う、馬鹿だったのは俺の方なんだ。俺がどう思っていようと俺のことを兄ちゃんだと思っていてくれたあいつが、なんで死なないといけなかったんだ。
ごめん、ごめんな。こんな兄ちゃんで。お前のことを俺の弟だって言ったことないのに。お前の兄ちゃんでいてやれなくてごめん。
もう、遅い。遅すぎたんだ、何もかも。俺がどれだけ声を張っても、お前には届かない。
クシャリと手紙を持つ手に力が入る。その時、ふわりと線香の香りが鼻をくすぐった。
まるで大丈夫だよ、と抱き締められているかのように肩の力が抜けていく。
床にへたり込んだ俺は、母が換気のために開けた窓を呆然と見つめた。
そこにあいつが、俺の弟がいる気がした。
明日は弟に会いに行こう。好きな食べ物、はわからないからジュースでも持って。
霧が晴れたようにクリアになった頭で明日の予定を立てた。
季節は蝉の声が鳴り響く夏。世の中では死者が帰ってくるなんて言われている、そんな季節。
もう、あの線香の香りは消えていた。
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