第21話:意志だけは⋯⋯
マイオルの目の前には、正気を失ったあばれ猿がいた。
先ほどまでは冷静な動きでセネカとマイオルを分断したように感じていたのだが、今は狂乱状態に入っている。
殴ったり蹴ったりとさまざまな攻撃をしてくるが、動きに一貫性はなく、めちゃめちゃだ。
おかげで先が読めずにマイオルは怖い思いをしている。
片腕の猿は全力で全身に魔力を巡らせている。身体を強化しているのだろう。
強化度は高そうだが、長時間は保たないように見える。しかし、敵の魔力が尽きるまでにマイオルが逃げ切れるかも分からない。一発の攻撃が重すぎる。
生き残るためには、盾による防御と回避を駆使して、なんとか凌ぐしかない。
頭の中に浮かんでくる【探知】の反応からセネカが苦戦しているのが分かる。
ぽーんと飛ばされては戻り、飛ばされては戻りを繰り返している。
戻る動きがなかったら死んでしまったのかもしれないと思うほど苛烈な動きだ。
マイオルは考える。
これまで大変な戦闘はたくさんあった。
怪我をすることもあった。
マイオルがダメならセネカが支え、セネカが弱ればマイオルが支えてきた。
二人はまだ未熟かもしれない。だけど、なんとか乗り越えてきた。
いまの状況はどうだろうか。
あのセネカが苦戦している。
セネカは敏捷と技量で敵を倒す戦士で、短期で仕留めようとする。
まだ十一歳だ。持久力は大人と比べると低い。
時間が経てば経つほど状況は悪くなっていくはずだ。
マイオルの方も同じだ。
片腕とはいえ、目の前のあばれ猿は異常な攻撃力でガムシャラに攻めてくる。マイオルはこういう敵と対峙したことがなかった。
こちらの攻撃がほとんど効かないというのも大きい。
すれ違いざまに腕や脇を斬っているのだが、皮が切れただけの手応えで、芯まで斬撃が通っているようには思わない。
突然、マイオルの心に死の恐怖が湧いてきた。
考えがどんどん悪い方向に進んでゆく。
勝ち筋が見えない。
勝てる気がしない。
戦えば戦うほど汗は出て、血の気は引いていく。
終いにはマイオルの身体はブルブルと震え出した。
敵の攻撃を盾で逸らす度、紙一重で体当たりを避ける度、マイオルの身体の奥から
マイオルはこのままではいけないと思った。
しかし、そう思えば思うほど視野は狭まり、呼吸は狂い、頭は真っ白になってしまう。
心が闇に支配される直前、マイオルは敵から思いっきり距離をとって、咄嗟にスキルを解除した。
力を抜き、盾を捨て、息を吐く。
ほんの僅かだが冷静さが戻ってくる。
そして、心の中で呟く。
「自分が死んだらセネカも終わりだ。
セネカが死んだら自分も終わりだ」
楽しかった日々も、憧れた夢も、辛かった修行も全て終わる。
本当に全てが終わってしまう。
あたしはそれでいいのだろうか?
本当にそれで満足だろうか?
マイオルは自分に問うた。
答えはすぐに出た。
「良いわけないでしょーが!!!」
マイオルは【探知】を発動し、全能力を片腕のあばれ猿に集中した。
他の領域の情報は必要ない。
マイオルの瞳からはいつのまにか涙が溢れていた。
手も足も相変わらず震えている。
肌は真っ白で血色は悪い。
上下の歯が当たってカチカチと音が鳴っている。
側から見たら、死の恐怖に怯える少女でしかないだろう。
「それが何よ」
マイオルは自分を鼓舞するように言った。
「運命も、身体も、自分の思い通りにはならない。
不運に見舞われるし、天に見放されるし、力は入らないし、涙は出てくる。
思い通りになることなんてほとんどない。
だけど、心は、意志の力は何者にも奪われない。
これはあたしだけのもの。
これがあたし。
この身体が滅びても意志だけは誰にも渡さない!!!
全力で抗ってやる!!!」
マイオルは初めて攻撃に打って出た。
あばれ猿はニィと唇を歪ませる。
負けるはずがないと思っているのだ。
マイオルは夢中で全ての魔力をスキルに注ぎ込んだ。
その時、不思議なことが起こった。
走馬灯のようにゆっくり流れる時間の中で、あばれ猿が動いた後に残像が出来ている。
あばれ猿の動きの残渣がマイオルの世界に出現する。
未来はいつも過去から作られる。
突然あばれ猿の動きが読めるようになった。
どんな軌道で攻撃が振るわれるのか分かる。
どんな形でこちらに向かってくるのか分かる。
マイオルは敵の動きを【探知】して、拙い動きで華麗に避けた。
そしてあばれ猿の懐に入り、ブロードソードを思いっきり目に突き刺した。
「ぐぎゃぁぁぁぁぁ!!!」
あばれ猿は悲鳴をあげて、喉を掻きむしった後、糸が切れたように地面に倒れ込んだ。
マイオルの勝利だ。
マイオルの頭の中で待ち望んだ声が響いた。
【レベル2に上昇しました。[視野:主観]を覚えました。身体能力が大幅に上昇しました。サブスキル[軌跡]を獲得しました】
マイオルは生まれて初めて咆哮をあげた。
その音は大空に広がり、彼方へと飛んでいった。
◆
セネカは両腕のあばれ猿と戦っている。ずっと劣勢だ。
セネカが良かったところはない。
なんとか避けて、何度も弾かれて、立ち向かっている。
実力は完全に向こうのほうが上だ。力だけならオークに匹敵する。
知能や技術や魔法はないが、オークよりも素早い。
今のセネカが一人で倒し切れる敵ではない。
分かっている。
セネカが負ければマイオルの命はないし、マイオルが負ければセネカも終わりだ。
時間が経つほどに、終末に近づいていく。
頭では分かっている。
けれども、この局面をうまく乗り切れるという根拠のない確信がセネカにはあった。
あれは六歳の時だった。
滝壺の手前で川に落ちた時もなぜだか頭は冷静で、きっと助かると思っていた。
滝に落ちた傷はほとんどなく、木に引っかかって生きながらえた。
昨年一人で森を歩いていたら大穴に落ちた。
減速していく時間の中で『これは大丈夫なやつだ』と根拠なく確信した。
実際、穴の底には枯葉が敷き詰められていて、落ちた衝撃はさほどではなかった。
声を出し続けていると通りすがりの冒険者が気づいて引っ張り出してくれた。
後日、埋めようと探しても穴はどこにも見つからなかったがそれはまた別の話だ。
今も同じだ。
こぶし一個分でも避け間違えたら命が危ない。
多分、肋骨は何本か折れている。
左腕の肉は一部削げている。
右の腹にも引っ掻き傷があり、血がかなり出ている。
頭はぼーっとしてきているし、息は荒い。
けれど、なんとかなるという確信がある。
セネカは深い集中状態に入っていた。
判断に迷うところで正解を選び続けている。
正解のない局面で最善を尽くしている。
すると離れたところから叫び声が聞こえてきた。
「ぐぎゃぁぁぁぁぁ!!!」
これはあばれ猿の声だ。
追ってマイオルの雄叫びも聞こえてきた。
もしかしたら「ヤッタァ」と言っているかもしれないとセネカは思った。
マイオルはやったのだ。
あの猿に勝ったのだ。
セネカの目の前のあばれ猿は一瞬狼狽えた。
相方が負けるとは思っていなかったのかもしれない。
いまここにマイオルが来ればこちらが有利になる。
抜け目のなかった猿に隙が生まれた。
◆
セネカはずっと考えている。
スキルを得た時から考えている。
この【縫う】という不可思議なスキルのことだ。
【縫う】は心理的な影響を大きく受ける。
同じように魔力を込めて、同じ動きをしていても『貫く』と思ったときと『縫う』と思った時で威力が格段に違う。
[魔力針]の射出も同じだ。
刺してやろうと思っても威力は低い。だけど『地面に縫い付けてやる』とか、『貫通してお腹と背中を縫ってやる』と思って撃つと速いし、敵を追尾してくれる。
キトは「セネちゃんは思い込みが強い時があるから、その能力が合ってるね」と晴れやかな笑顔で言っていた。カラッとして嫌味に聞こえなかったので、褒められているような気がして、セネカはなんだか照れてしまった。
セネカはこれまでに色々なものを縫ってきた。
一番画期的だったのは『敵を地面に縫いつける』と発想したことだった。
セネカはあらゆるものを針で縫ってきた。
布を、革を、紙を、木を、敵を、地面を縫ってきた。
次は何を縫えば良いのか最近は分からない。
だから――
◆
あばれ猿に隙ができた瞬間、セネカは走りながら全力で全身に魔力を循環させた。
ふと素敵な考えが浮かんできたのだ。
試したことはない。
「だけど、きっとうまくいく」
セネカはいつものように強く想った。
『敵を縫ってやる!』
なにで???
『自分で』
セネカは自分を針と見立てて、あばれ猿を縫うことにした。
「私は針私は針私は針私は針私は針私は針私は針」
ちょっと怖い。
あばれ猿の間合いまであと一歩半という時、セネカの身体が光った。
そしてお尻の辺りから尻尾のように魔力糸が出現した。
自分を針と認識することに成功し、糸が生えてきたのだろう。
その姿は小動物のようなので、ナエウスが見たら狂喜乱舞したかもしれない。
セネカの魔力は刀にも通い、身体と一体になっている。
セネカは剣先を前に出して、あばれ猿に向かって恐ろしい速さで飛び込んだ。
どぱぁん!
とても大きな音が鳴った。
あばれ猿は何が起きているのか分からなかった。
先ほどまで戦っていた小さいメスが突然自分のところに向かって走ってきたので、迎え撃とうとしたら突然消えたのだ。
気がついたら自分の背後にいる。
あばれ猿は混乱した。
その時『ひゅううう』と風が吹いたような気がした。
意外な音だった。
音の出所を探そうと目線を下に向けると、あばれ猿の身体には大きな穴が空いていた。
セネカは振り向きざまに背後からもう一度刀を突き刺した。
「並縫い」
その声を聞く間もなく、あばれ猿は息を引き取った。
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