六.落城の刻

 

 

 古い畳を重ねた胸壁に潜み、敵の隊列が射程に入るのをじっと待つ。

 黒い蟻が列を作ってやって来るように見えたが、馬上に一際目を引く獅子頭と、高々と掲げられた敵旗が、彼らがこの地に攻め込んで来る敵であることを示していた。

 朝露に湿った草木の匂いがいっぱいに立ち込めて、深く息を吸い込めば青臭い空気が肺に溜まる。

「大丈夫だ。落ち着いて、いつものようにやればいい」

 師である銃太郎の言葉に皆が励まされ、息を呑んでその時を待つ。

 大壇関門。

 二本松城の南東、奥州街道にある大壇山の一帯は、地形に恵まれた自然の要衝である。

 銃太郎の一隊は出陣後に付近の民家から持ち出した畳を組んで、その斜面に胸壁を築いていた。

 ここを抜かれてしまえば、街道は城下を通り城まで敵の侵入を許してしまうことになるのだ。

 城の守りは自分たちの働きに掛かっている。

 殿様の役に立つ、まさに今がその時だと思った。

「良輔のやつ、来なかったな」

 隣の胸壁の陰にしゃがみ込む丈太郎が小さく言ったのが聞こえ、才次郎はちらと視線だけで丈太郎を見た。

 出陣前に、良輔にも後から合流するように誘ったというが、良輔には良輔の師がある。

 自分の都合だけで勝手をするわけにもいかないのだろう。

「きっと井上の御師匠さまと一緒だよ。良輔もきっとどこかで城を守ってるさ」

「そうか、そうだよな。おれたちで敵を蹴散らしたら、あいつの出番奪っちゃうかな」

 勇ましい口振りとは裏腹に、丈太郎の声は緊張のせいか微かに揺らいでいるようにも聞こえた。

(良輔、大丈夫かな)

 何がそうさせたのか、三人の中で良輔が一番この戦を恐れていたように思う。

 良輔の暢気で朗らかな笑みを最後に見たのは、いつのことだったろうか。

 そんな事を考え、才次郎は今に号令がかかることを思い直してかぶりを振った。

「若先生、まだですか」

 誰かが痺れを切らして号令を乞う。

「まだだ、十分に敵を引き付けろ」

 待機を命じる銃太郎の声は普段と同じ泰然としたもので、麾下の少年たちの平静は銃太郎のその落ち着きぶりに支えられているのかもしれない。

 固唾を呑んでその時を待つ誰もが、撃ち方の用意は万端の姿勢になっていた。

 銃身を構える才次郎の眼下には、街道を進む敵軍が少しずつ迫るのが見えていた。

 

 たった一門の大砲と、少年たちの放つ小銃での激しい銃撃戦は、銃太郎が敵弾に斃れたことで退却を余儀なくされた。大壇口が敗れ、副隊長の二階堂衛守が銃太郎の首級を落としたのは、開戦から一刻あまりが過ぎた四ツ頃のことであった。

 

   ***

 

 城下は既に火の手に蹂躙されていた。

 やっとの思いで坂を上り切り、松坂御門に到達した才次郎の目に映ったのは、濛々と黒煙を上げる郭内の光景だった。

 出陣のときにも通った高台の松坂御門を境に、郭内に広がる光景は地獄のそれにも見えた。

 屋敷を焼いて赤々と燃える豪炎と、濛々と上がる、噎せ返るような黒煙。

 その全てが才次郎の目と耳と喉を容赦なく痛め付ける。

 大壇口からの退却途中に更なる敵の銃撃を受けたのを境に、気付けば皆、三々五々に逃げてしまっていた。

 退却のときに副隊長が落とした銃太郎の首級も、混乱の最中に見失い、敵弾に斃れ伏した副隊長と仲間の姿を目の端に捉えながら、必死に逃げた。他方へ逃げた仲間もいたはずだが、逸れた後に合流することもなく、才次郎は一人、出陣のときに辿った道を城の近くにまで引き返して来たのである。

 とにかく城へ。悲哀と悲憤とが綯交ぜになったまま、必死の逃走に疲弊しきったその足を懸命に送る。

 丈太郎の姿も、いつの間にか見えなくなっていた。敵襲を受けて後に逸れたのに違いないが、生きていれば丈太郎もきっと城を目指すだろうと思った。

 松坂門を抜けてふらふらと城へ向かっていくと、物陰から声が掛かった。

「おまえ、才次郎か!?」

 聞き覚えのある声だったが、煙と埃に些か目をやられたか、輪郭がぼんやりと霞む。

「その声は、叔父上ですか」

 才次郎にとって、母方の叔父にあたる篠沢弦之助であった。

 才次郎の肩を掴み、弦之助はその無事を確かめる。

「もう充分だ。ここもじきに敵が来る、城の裏手から落ち延びるのだ」

「……城は、落ちたのですか」

 才次郎の問いに弦之助は一瞬声を詰まらせたようだった。

「最早、城はこれまでだ」

 弦之助が項垂れるその肩越しに、城壁の向こうから上がる煙が覗けていた。

 城屋敷が燃えている。

 その煙は見る間に勢いを増し、天を覆うように広がった。

「おまえはまだ若い。この場は逃れ、命を繋ぐのだ」

 弦之助の説得の声が、遠く茫洋として聞こえていた。

 代わりに、守るべき城が燃え落ちていく音だけが耳にこびり付く。

 大壇を守り切れず、敵の侵入を許してしまった。

 城が既に落ちたのなら、丈太郎は何処に行ったのか。

 城の近くにいたはずの良輔は。

 敵弾の嵐を掻い潜ったときの身の強張る思いよりも、ふつふつと腹に沸き上がる何かが才次郎の足を動かした。

「………」

 才次郎は疲労でふらつく足を踏み出し、叔父の脇を通り過ぎた。

「私だけが落ち延びることなど、出来ません。若先生も副隊長も、──仲間もたくさん死にました」

 若先生と一緒なら、死も恐れはしない。

 出陣前に仲間内の皆が口々にそう言い合ったのを思い出す。

 今はもう、その銃太郎は戦死し、共に戦線に立った仲間の姿もない。

「叔父上、私は父の訓えに従います」

「……才次郎」

 目を瞠ったままで棒立ちになる弦之助から離れ、才次郎はふらふらと坂を下り始める。

 それから叔父の呼び止める声が何度か聞こえたが、振り返ることも足を止めることもなかった。

 代わりに浮かんだのは、出陣が決まって雀躍する才次郎に父が教え諭した言葉だった。

 

   ***

 

 城はすぐそこに見えていた。

 城壁の向こうから上がる炎と黒く染まった煙は、城屋敷をすっかり呑み込んでいるだろう。

 守るべき城は、もうどこにもない。

 それでも尚、才次郎を突き動かすのは、父の教訓であった。或いは師と仲間たちの死であったかもしれない。

 疲弊した脚は棒のようで、真っ直ぐに歩けているかどうかも分からないが、才次郎は坂の下にある谷口門のほうへと向かった。

 良輔と剣の稽古へ向かうときに待ち合わせた、いつもの場所だ。

 今となっては良輔がいるはずもないことは分かっている。それでも不思議と脚はそちらへ向かった。

 やがて辻に差し掛かると、門の向こうに隊伍を為してやって来る一団が見えた。

 黒い軍装で揃えた敵軍が、悠々と城へ向けて進んで来る。

 白い獅子頭が一つ、黒々とした敵兵の中に殊更目立っていた。

 恐ろしいとは感じなかった。

 ここへ来るまでの心身の疲弊が恐怖を掻き消しているのか、敵の姿を目の当たりにしても狼狽すら覚えず、才次郎はふらりふらりと漂うように敵兵に向かって歩む。

 そうした才次郎に気付きながらも、敵が攻撃してくる様子はない。

 ほんの子供と侮っているのだと、考えるでもなく思った。

「なんだ、まだ子供ではないか」

「まったく、どういうわけなのだ。ちょろちょろと子供が出て来て適わん」

「おい、子供は早う逃げろ。もう戦う必要はないぞ」

 先頭をやって来る兵が口々に逃亡を促し、獅子頭もまた、手振りで退けと示しているのが見て取れた。

 父とそう変わらない歳だろう獅子頭の男が、敵将だということだけは分かった。

 ──敵を見たら斬ってはならぬ

 出陣の前に難しい顔をした父の放った言葉が、たった今言われたかのように耳に蘇る。

 斬っては浅手にしかならず、斃すには至らない。

 小さな子供の力でも、突けば敵を斃すことが出来るのだ、と。

 才次郎はふらりふらりとよろめきながら、獅子頭の男に近付いてゆく。

 憔悴しきり、目も耳も足元も覚束ない哀れな子供と写るのか、或いは気が触れているようにでも見えるのか、彼らが才次郎に銃を向ける事はなかった。

「敵に会わぬように行けよ」

 そう声を掛けた隊長と思しき男とすれ違うかというとき、才次郎はその脇腹に深々と刀を突き刺した。

 才次郎自身、何処にそんな力が残っていたかと思うほどに力強い突きの一手が、敵の身体を貫いた。生涯に初めて、生身の人間に刃を突き立てた感触を覚えたのも束の間。

 言葉も発せず凍り付いていたその場のすべてが我に帰り、騒然となった。

「貴様!」

「白井隊長が刺されたぞ!」

「このがき、よくもやりおった」

 忽ちに兵が取り囲むのと同時、才次郎の手はずるりと刀の柄を離れ、激昂する敵兵の銃底に打ちのめされながらその場に倒れ込んだ。

 それに僅かに遅れて、敵将の身体もまた崩れ落ちるように前へのめる。

「……少年と侮った、おれの不覚だ」

 痛みも疲労も不思議にどこかへ遠退いていく中で、頬に張り付く往来の砂の匂いだけが執拗に纏わりついていた。

 

 

 【七.へ続く】

 

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