五.父の背
二本松藩主、丹羽長国は病床にあった。
国を落ち延びるよう家臣が幾度も懇願する中、病躯元より惜しまずとして城と命運を共にする姿勢を崩さなかった。
後継となる男子はいずれも夭折し、今年になって迎えた養嗣子もつい先月に僅か十三歳で病死している。
そのことが藩主の覚悟を殊更に強固なものにしていたのかもしれなかったが、在城の家臣にとっては主家の存続に拘る一大事である。
丹羽家の現当主である長国を喪うわけにはいかなかった。
たとえ城が落ちようとも、家中の拠り所となるべき存在は必須である。
重臣や側仕えが必死の説得を繰り返したものの、それでも藩主は全く城を出ようとはしなかったのだ。
そこで最後の手段とばかり、守備の一隊に密かに命じて砲声を上げさせ、敵の襲撃を装うという芝居を打ったのだ。その上で、藩主を殆ど抱え上げるようにして駕籠に押し込む強行手段を取った。
側用人や家老の一人がその伴をし、何とか御国落ちとなったのが、二十七日になってからのことである。
藩主夫人や未だ幼い姫君たちの出立に合わせ、家中の妻女や幼子も殆どが城下を後にした。
閑散とした郭内が更にひっそりと静まり返り、湿りを帯びた風が吹き抜ける度に家屋敷に暗い影を落としていくようだった。
***
その翌日、二十八日の早朝に、丈太郎が良輔を訪ねてきた。急拵えだろう戦支度に身を包み、晴れやかな顔をした丈太郎は、意気揚々と北条谷の奥にある木村銃太郎の道場へ向かうところであった。
携えた大刀は大人の男が扱う代物そのままで、腰に帯びるには身丈に余る大きさなのだろう。背に負うように括り付けていた。
「おれたち、今日出陣なんだ。良輔も後から来いよ、一緒に薩長の奴らをやっつけてやろうぜ」
同年の中でも落ち着いた性格の丈太郎でさえ、高揚を抑えきれない様子であった。
銃太郎の門下では敵軍に対し大いに敵愾心が養われていると見え、また短い間に上達した射撃の腕前を実戦に試したくて仕方がないといったふうに見えていた。仲間内で互いに激励し合ううちに、自然とそうなったのだろう。
少し前に良輔が差した水などは、瞬く間にその熱で蒸発してしまったに違いない。
冷静で大人びたところのある丈太郎がこうなのだから、才次郎もきっと今頃は浮足立っていることだろう。
その熱の渦巻く中から自分だけが弾き出されているような、一抹の寂しさを感じながら、良輔は「そうだな」と一言返したのみだった。
その日、丈太郎や才次郎が学館前から大壇口へ向けて出陣していく様子を横目に、良輔は父の次郎太夫と共に城に入った。大砲を一門積んだ大八車を曳き、銃太郎率いる十四、五歳の少年たちが中心の一隊の、実に賑やかな出発の様子であった。
見送りに出ていた家中の子女の中に、才次郎が慕う姉のいちの姿があったかどうか。ふと良輔の念頭に浮かんだそれは、ついぞ答えのないままに時は過ぎた。
最早、いつ敵が攻め込んで来ても不思議はない。父を通して戦況や城内の様子を垣間見ることはあったが、実際に城で見聞きする事態は伝聞よりももっと深刻なものであった。
この二、三日で各戦線から帰城してきた藩兵たちは、戦塵に汚れきったぼろぼろの姿になり果てており、敗残兵と呼んで然るべき様相だったのだ。
城下から南東にある糠沢村において西軍と干戈を交えた一隊などは、殆ど全滅という状態で、僅かに生き残った者だけがぽつりぽつりと城に帰って来たのである。
戦を知らぬ良輔でも、絶句した。
白河口へ出たきり戻らぬ隊もあれば、辛うじて戻った兵も傷を負いながら這う這うの体で帰り着いた者ばかり。
元より城に残っていた者には壮者少なく、老いて致仕した者や子供ばかりである。
西軍の襲来を防ぐ隊を為すには、あまりに寡兵と言わざるを得ない。
「ご家老さまはお戻りなのですか」
広間へ入る直前、良輔は父に訊ねた。
藩兵を束ねる最高責任者として、家老座上・丹羽丹波が軍事総裁の任に就いている。藩政の要路としても、軍事方としても、最も重きを置くべき地位である。
いざこの城の防衛戦となるからには、総裁の判断と指示を仰いだ上で軍の再配置を試みているものと思ったが、しかし父は眉を顰めて静かに首を振った。
「未だお戻りにはなられぬ。だが、おまえの師である井上殿は既に城へ入っているそうだ。役目柄、儂はおまえと同じ戦場には出られぬかもしれぬが、その時は井上殿の指示によく従え」
渋面を作ったままの父が、良輔に念を押した。
糸がぴんと張り詰めたような気配が満ちる中、良輔は頷く。
以前はよく笑っていた父が、こんなふうに苦し気な顔をするようになったのはいつからだろう。
厳しくも優しい父の大きな背中は、情勢に翻弄される城内で随分疲れているように見えた。勤めのことを詳しく話して聞かせることは多くはなかったが、眉間には深い皺が刻み込まれ、その辛苦を窺わせるには十分であった。
「父上、ご安心ください。私も出陣を許された十四歳です。きっと御役に立ってみせます」
考えるよりも先に、良輔は父に向けてそう告げていた。
***
その夜は城の大広間に詰め、そこで寝た。
むろん、急報があればすぐに動けるよう、着の身着のままの雑魚寝である。
大壇口へと出陣して行った才次郎や丈太郎がどうしているかと考えが過ることもあったが、慌しい空気に揉まれて疲労は思った以上に良輔の身に蓄積されていた。
夜も更け休めるうちにと身体を横たえると、ぼんやりと広間を染める橙の灯りに溶け入るように、徐々に意識は薄らいでいく。
喧しいほどに聴こえていた秋口の虫の声と、未だざわめきの止まぬ城内の声が闇の中に遠ざかった。
それからどれほどが経ったのか、良輔は身体を揺すられる感覚で目を覚ました。
すわ敵襲かと跳ね起きたが、そこにいたのは父・次郎太夫であった。
「川崎村に敵が来たらしい」
「川崎村、ですか」
城下の守備を破られたわけではないと知り、些かの安堵を覚えたが、しかし目覚めと同時に俄かに速くなった鼓動を抑えるのには難儀した。
父は周旋方の役目を担うと同時に、代官の役目をも担っている。
川崎村は父次郎太夫が代官として預かる渋川組に属する村であった。
「わしの支配下にある村だ、注進があっては捨て置けぬ。すぐに草鞋を履かせろ」
「は、はい……!」
早口に告げられ、良輔は慌てて父の足に草鞋を着ける手伝いに掛かった。
交わした言葉は、それだけである。
敵が入り込んだ村に、父が向かった。
生きて再び親子が見えることは無いかもしれない。父がそう覚悟をし、今生の別れの意味で草鞋を着けさせたのだと気付いたのは、父が城を出た後──、紺碧の空が次第に白み始めた頃だった。
***
夜が明けると、良輔は賄い場で握り飯を二つばかり用意すると、その一つを早速腹におさめ、もう一つを背負袋に入れた。
間もなくして城下の東、阿武隈の渡しがある
今度こそ、敵がやって来たのだ。
とうとうこの城下にまで敵がやって来たのだと思うと、腹の底をひっくり返すような震えが湧き起こる。
武者震いとでもいうのだろうか。嘗て戦に慄いたときとは違い、恐れは不思議と感じなかった。
父の前に宣言した通り、自分もまた出陣を許された一人の士である。
今、供中口を攻める敵兵は、真夜中に父が向かった川崎村を通過してきたのかもしれない。
戦死を覚悟して尚、従容として赴いた父の背を思い返し、良輔は賄い場を飛び出したのだった。
供中口から郭内へ続く竹田御門近くに、杉の植わる土手がある。付近には堀や小川が巡り、土手と併せれば胸壁代わりにもなる。
勇んで城屋敷を出た良輔らが向かったのは、そこであった。
城からはごく近く、こんなところにまで敵の侵入を許せばもうあとは無い。
先日夜を徹して城下へ急行してきたという遊撃隊の大砲方に、良輔らは組み入れられていた。
師範である井上権平の下に付いた格好ではあったが、遊撃隊長の
「敵だ! 竹田門まで来ているぞ!」
前方から藩兵が声を張り上げて駆けてくるのが見え、良輔を囲む皆がどよめく。
その言葉通りに往来の向こうに黒い筒袖に陣笠で揃えた敵影が見えたかと思うと、隊長や井上の采配が整うよりも早く、敵は瞬く間に大部隊となって姿を現したのである。
「来るぞ!」
「射撃用意!」
飛び交う声に、良輔の身体は考えるよりも早く反応していた。
自然、小銃を構える手に力が籠る。
城内に残っていた良輔らの手に渡った小銃は当地において製造されたもので、しかも三匁銃を直した代物だった。
大壇口に出陣した銃太郎の門下生たちには、比較的性能の良いエンピール銃が一人に一挺与えられたと聞くから、それに比すれば威力も射程も数段劣ったものである。
「撃て!」
井上の号令を機に、敵軍目掛けて一斉射撃を浴びせかけた。
弾が敵に届いているかどうかを考える暇はなかった。良輔も周囲に倣い、調練で身体に叩き込んだ手順をひたすらに繰り返しながらとにかく撃って、撃ちまくっていた。
息苦しくなるほどの硝煙が立ち込め、目を凝らす。
対する敵は薩摩か長州か、或いは土佐か。そんなことは些末なことであった。現に対峙するのがどこの何某であれ、敵は敵でしかない。
怒涛の如く撃ち込んだ銃弾は夥しい数であったはずが、敵軍はどうやら堀に入って凌いだと見えて、忽ちに反撃し始めたのである。
邀撃の手応えなど、無いも同然であった。
敵の反撃は凄まじく、弾の雨と呼ぶに相応しい。射程も威力も、良輔の撃ったそれとは歴然の差だ。
弾丸が耳元を掠め、鋭く空を斬る音が聞こえる。
──そんなに心配することないよ、敵のヘロヘロ弾なんか当たりっこないって!
いつだったか、才次郎や丈太郎が言っていたのを思い出す。
脆弱なのは、決して敵の弾丸ではない。
迎え撃とうとする自分たちの弾丸のほうだ。
(こんなの、おれたちが勝てるわけなかったじゃないか──)
良輔が構えていた銃を降ろしかけたとき、隊長の志摩が退却を叫ぶ声がした。
【六.へ続く】
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