ロンリーエンジン

ミナトマチ

第1話 ロンリーエンジン

なんとなくもったいない気もした。

打算的で最低な人間の発想だということは、夕方をやめたばかりの空の下、400ccのバイクのマフラー音を響かせる大学生、柴橋宗吾しばはしそうごもよく分かっていた。

よく2人でドライブした、この国道●●号線。

タンデムシートの重みもなく、彼女の髪をかき上げた時の艶やかな匂いも最早失われた。空虚さと哀愁だけを後ろに乗せて風を切っていた。

彼女は宗吾にとって初めてのガールフレンドだった。

睫毛まつげが長く、切れ長で知的さやクールな印象を与える清涼な目元を持ちながら、時折子供っぽいような、馬鹿っぽいような温かい笑顔を見せる彼女。

なんの偶然か、そんなレベルの違う女子大生と付き合えたのだ。モテない読者諸君よ!もはや夢であったと、自分には不似合いであったのだと言い聞かせている傷心の同志、柴橋宗吾のことを慰めてあげてほしい。ともすれば冒頭の考えも許してもらえるだろうか。


彼女の魔力とも言えそうな妖しい魅力に惹かれない男などいないのかもしれない。むろん、宗吾もその一人であった。

やらないよりやったほうがいい。

玉砕覚悟で臨んだ告白。覚悟というか、もはや意地になって自分の信条に従ったようで挑戦じみていた。

小心者で、内向的な人間のくせに、妙なところで大胆さがある。

ティースプーンですくえるほどしかない勇気をしかし、誰よりも早くすくえるところが、宗吾の数少ない長所だった。

「いいよ」というなんともあっけない、しかし、偶然が産んだドラマチックな恋がスタートしたのは半年いくかいかないか程前のこと。

「もったいない」とは思ってみたものの、果たして子どものように地団駄を踏めば、その関係を続けられたのだろうか。

おそらく否である。なにより、2人は根本からタイプが違っていたのだ。

思い返してみても、破局することは必然であったのかもしれないと宗吾は自嘲気味に笑うのだった。

彼女との、なまじ楽しくて美しい思い出がしっかりあったのもよくなかった。

頭や心で立ち直ろうとするのだが、宗吾のその血が全身を支配して、

彼の柄でもないのに、無意識に女々しくその足を思い出の地へ運ばせていたのだ。


××競馬場。

ここが宗吾と彼女の思い出の地であり、地域住民に愛された、夢やら希望やら絶望やらが一緒くたに煮込まれる不思議な場所だ。


断っておくが、宗吾にしても彼女にしても、別にギャンブル狂いというわけではない。

宗吾は先輩に連れられてからというもの、もともと動物が好きだったことも相まって、馬に惹かれるようになった。彼女はただ競馬という未経験への好奇心だった。

だが、ギャンブル狂いでなくとも、その最も危険で、最も甘美な魅力に惹かれていたのも事実だった。

成人しているとはいえ、何か妙に咎められそうな、イケナイことをしているような微妙な背徳感。

単・複一点買いやら、馬連やら、ワイドやら……とにかく貧乏競馬この上なかったが、馬たちの懸命な走りとその興奮が、彼らにカップルらしい瑞々みずみずしさを与えていた。

思い出を振り返りながら宗吾は、競馬の予想新聞を中で買って、もう一度外に出た。

前方の電光掲示板に、来場時、丁度行われていたレースの結果が映し出されている。

1、4、2。

配当金もそこそこで、人気もそれなりにしていたこの番号の馬たちが表彰台を飾っていた。宗吾はすれ違いざまに、3つにも4つにも馬券を切り裂く男を目にした。

貧乏競馬とはワケが違うらしい。


「この獣臭ささが、今となれば懐かしい匂いになったもんだ」


やはり今日の宗吾はおかしかった。柄にもなく詩人のようなことを口走っている。

そんな匂いが風に乗る、外のパドックの中を、係に引かれながら次走の馬たちがぐるぐると回っている。


「次は‥‥…あれかえ?3番『アマダオスマンサス』!あいつがええがか?」


「いやいや9番やな。格上の相手に△△競馬場でっちゅうきよ。2,3着考えた方が賢いわ」


宗吾の隣、競馬場に居そうな、絵に描いたような二人組が小さくない声で騒いでいた。

耳を澄ませると、確かに場内アナウンスが伝えるイチオシの馬もあの9番、『ダイウイキョウ』だ。黒毛の牝馬で赤っぽいメンコが特徴。牡馬のようにがっしりとしていて、息まいている。気合十分といったところだ。

他所よその競馬場で次のレースより高位のグレードで活躍しており、戦績も安定していた。

宗吾も聞こえるままにダイウイキョウを中心に考えようとして新聞に目を落としたその時、その中のある馬の名前が目に留まった。そして弾かれるように慌ててパドックを見返した。


「いた……お前、次走るのか」


馬番号7番。栗毛がきれいな、馬体重400後半の細身の牝馬。

『ラダートゥーヘヴン』だ。

初めはその『天国への梯子はしご』という名前が気になっただけだったが、調べるとこの柴橋宗吾しばはしそうごとラダートゥーヘヴンには奇妙な偶然が重なっていたのだ。

まず、彼女の所有者オーナーの名前が芝橋宗吾しばはしそうごという。

一字違うのが幸いだと思いたいほどの偶然だった。

それに我らが主人公の宗吾と、このラダートゥーヘヴンはなんと誕生日が同じだった。

そんな奇縁で初めて出会ったあの時から今日まで、宗吾はラダートゥーヘヴンの中に自分を見ていた。

ラダートゥーヘヴンも何か数奇な運命を感じるのか、外の宗吾をチラチラと見るのだ。

宗吾は少額ながら、応援はいつも欠かさずしていた。ただ、もはや宗吾だけであると言いたいほどに……


「7番ラダートゥーヘヴン、467キロ増減はありません」


「はい、そうですね……まぁゲートの課題は残っていますが以前変わりなくといったところでしょうか。大きな崩れ方はしていません」


解説者も無難なことしか言えない程、人気は最下位から1つ上であった。

そんな中迎える次走は圧倒的にダイウイキョウが一番人気。

普段なら応援馬券をそこそこに、手堅い競馬を心掛けるのが宗吾流の馬券術なのだが、今日の彼は違っていた。


危ないよな……それこそもったいないよな。今までアイツが勝ったどころか入着したところを見たことがない。いや‥……それでも……


やらないよりはやったほうがいいのだ。

すぐさま室内に引き返し、やけくそで強引に投票用紙を掴み取ると、宗吾は折れんばかりの力ではっきりと、「ラダートゥーヘヴン単勝」の欄を塗りつぶした。

金額欄には、今の宗吾の手持ち全てに等しい額を塗った。そして、間髪入れずに投票機にその両方を乱暴に突っ込んだ。

単勝ということは、なんの奇跡か偶然か、3着に入ったとしても、宗吾のお金は還ってこない。

1着。何者をも黙らせる、燦然さんぜんたる王者でなければならないのだ。

断っておくと、「競馬に絶対はない」という名言がありながらもそんな展開、そうあることではない。

だが、今日の宗吾に怖いものはなかった。いうまでもない。破局したことが、なんだかんだ宗吾の心を深く傷つけ、そしてティースプーンをはるかにオーバーした、焦げつくような自信を与えていたのだ。

勝てばすさまじい金になる。だが、宗吾はそこまで頭が回っていない。

投票時間も締め切り、いよいよスタート時間になった。

宗吾は噛みつかんばかりに外の柵を握りしめ、最前列で食い入るように各馬のゲート入りを見入った。

もうすっかり夜である。ギラついたナイターの光が馬の毛並みを、人々の熱意を力強く照らしている。

体勢整い、ゲートが開く。

好スタート!!……などではなかった。

もともとラダートゥーヘヴンはゲート、つまりスタートが得意ではない。

そして後半で本領発揮のタイプ、差し馬だ。

しかしよりによってこの宗吾が傷心した今日という日に。

なんと、ラダートゥーヘヴンは騎手ジョッキーを、こともあろうにスタートで振り落とし、単独で飛び出して行った。

人馬一体となって挑む競技に、たった一頭背に誰も乗せず、無人で走る馬が異様な光景だった。


「うわっ……カラ馬だ」


カラ馬、つまりカラ馬だ。

カラ馬は競争失格の扱いになり、1位どころかこの場合すさまじい奇跡が起こって入着しても馬券に絡むことはない。

宗吾はもう、何も言えなかった。ナイターの明かりで灰にされたようだった。

恥も理性も何もかもかなぐり捨てて叫んで暴れたい気分だった。

そんなギリギリの状態のなか、隣の、先ほどパドックで見た二人組の驚いたような声を聞いて、何かがおかしい感じがして宗吾は霞む電光掲示板をゆっくりと見た。

向こう正面、ラダートゥーヘヴンが無人のまま先頭集団にくらいついていた。

普段は後方2番手の位置だ。最終コーナー手前というところでさらになんと、ラダートゥーヘヴンが砂塵を巻き上げ、ダイウイキョウに並びかけているではないか!

宗吾は目を見開いたまま動けなかった。会場のどよめきも、隣の2人の怒声も聞こえなかった。

ただただ彼女の激しい息遣いが、心臓の音が!

宗吾のなかに静かに流れこんでくるようだった。

最後の直線、一斉に鞭が入り、逃げ馬、先行馬、差し馬、追い込み馬がそれぞれ力を出し切っていく。

むろん、ラダートゥーヘヴンに鞭は入らない。駆け引きなどない。ただ、一瞬開いた道筋を、本来の差し馬らしさを見せて、本能か超常的なイタズラか、加速して一気に抜け出していく。

田舎の競馬場に不釣り合いな激しい声援やら、怒声やら、もはや何色か分からないような声が会場を包んだときには、宗吾も全身全霊で叫んでいた。

ゴール手前数センチ。

そのわずかな差、それでいて、果てしなく遠いそのわずかな差だけ、ラダートゥーヘヴンはダイウイキョウを置き去りにしたのだった。


その後すぐ、どよめきが尾を引く競馬場を宗吾はそっと後にした。

財布が重くなることはなかった。必然である。

だが、宗吾の心は浮足立っていた。

全てを失って、空虚感ばかりが残って。

妙な後悔が付きまとうのは、おそらくもうこれっきりだろう。

財布も心も、なにより彼女の走りが軽やかだった。

もちろん、その帰りのバイクも例外ではない。

なんとなく心地いい気がした。















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