第17話 別れのあいさつ、言うのは気楽

「飲みすぎた……」


 ふらつく日野が通行人の迷惑にならないよう、何度か襟を付かんでしゃんとさせる。


「わりいわりい」

「まったく。相変わらずフリーダムだな、お前は」


 それきり会話もなく、すぐ池袋駅の西口周辺に着いた。


「じゃ、急に押しかけて悪かったな」

「別に、今さらだろお前は」

「埋め合わせはどっかでやるから」

「あんま期待しないでおく」


 地下通路へと続く入口の前で、お互い半笑いで言葉を交わした。


「……大事にしろよ」


 ふと、ほとんど見たことのない真面目な顔つきで、日野は言った。


「だから、お前が思っているような仲じゃないって」

「ちげえよ。お前自身を、だよ」


 ……は? と、ひとりでに小さく漏れる。


「いいじゃねえか、そろそろ誰かに甘えても。人間って、互いに甘えて甘えられる、そういうもんじゃねえの?」

「たまに核心突いたようなこと言うな、ほんと」

「いなすなよ、聞けって」


 言いながら、入口の外壁に尻を落ち着けた。


「伊月ちゃんだって二十歳になる大人だぜ? 自分の置かれた状況は、自分が一番分かってる。その上でお前を頼りにしてるのは」

「詳しく聞いてねえけどよ、それほど親が嫌いで頼りたくないんだろう。そういう家庭も残念ながらあるってことだろ」

「それは実際間違ってないと思う。けど、お前が『アリ』だからってのもあると思うぜ。見てりゃ分かる」

「……アリってなんだよ」


 口に出したが、それが分からないほど鈍くはない。


 ――エッチしよっか。


 そう言った伊月の、俺を見据えた顔は鮮明に覚えている。脳裏に焼き付いたままだ。童貞だからショックが強すぎた。

 けど、あれはある種の防御反応だ。もし奪われることがあるのなら、逆に差し出してしまおうという、ごまかしの盾。


「その『アリ』に甘えてもいいと思うぜ。そこから始まる関係があってもいいだろ。お前も大人なんだしさ。もっとシンプルに幸せを追えよ」

「……言うのは気楽だろうさ」


 こいつの主張が間違いだとは思わない。言う通り、大人と児童の間柄じゃない、年の差はあれど三十路と二十歳。器用な生き方ができるなら、差し出されたものを受け取る選択肢もあるんだろう。

 けど残念、俺は不器用なんだよ。どうしたって。


「……釈然としないって顔してるぜ、ははっ」


 顔をほころばせると、やっと立った。「お前らしい」と呟きながら。


「とにかくま、自分から招き入れた以上は面倒見てやれよ。お前なら大丈夫だろうけど」

「分かってるよ」

「それじゃな。必ず埋め合わせはすっから!」


 大事なことらしく二回言って、手を振って地下へと降りて行った。

 体を翻す。涼しい。秋の気配をはっきりと感じた。


「相変わらず、好き勝手言いやがる」


 カップルが抱きついたり離れたたり。愛があふれている中を、突っ切って帰った。


「――おかえり」


 玄関を開けると、伊月はテーブルを拭いていた。


「日野さん、キャラの立った人だったね」

「そうだろ? 一応名誉のために言っとくと、しっかりしたところもあるにはあるんだよ。彼女と同棲するって出て行った時、急だったことを詫びて折半してた家賃を三カ月分残してったりさ」

「へえ、バランス取るのうまいんだ。そういや、家賃の秘密聞くの忘れてた。まいっか」


 言いながら、皿を洗い始める。


「あ、悪い、それくらい俺が」

「いいよ、もうこれ洗うだけだから」


 確かにかえって邪魔か。俺はなんとなく日野が座っていた椅子に腰かけた。目に映るのは、伊月の後ろ姿。


「でもよかった」

「何が?」


 不意な声に、意識が引っ張られる。


「朝也さんが童貞なのに『経験ある』って見栄張るような人じゃなくて」

「……それ褒めてるのか?」

「褒めてる褒めてる」


 俺の方を振り返り、目を細める。上機嫌そうな、にこやかな顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る