黒蜜

壬生 葵

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 ええ、ええ、嫌な世の中になってしまったものです。右を見れば嫌な奴、左を見ても嫌な奴、己を省みれば以下同文。どこもかしこも卑しい考えがはびこっています。

 浄土からは程遠く、奈落からも果てしなく、ここはまさに無の世界。格差と腐敗に塗れたユートピアが掲げる、平等と多様性の旗印の下に集いしは利潤の鎧を纏い、言葉の刃を腰に帯びた麗しき騎士達よ。人文と芸術は機械が好む所と為り、人間が倫理と思考を捨てたこの世では未来は紡ぐものではなく、摘むものでございます。まったく、誰のせいでこんなことになってしまったのでしょう。

 私はね、日に日に実感するんですよ。ええ。世界はつまらなくなっていると。理と利をはき違えたが為に浪漫を失い、夢を見なくなりましたし、そのせいでつまらないのに息は詰まるものだから、どちらがより劣った「弱者」を育てられるかを競う弱者ダービーが巷で流行ってしまっているのです。うちの弱者は母親が新興宗教信者で学生時代はいじめられて不登校の今無職だよ。ワタクシの弱者も優ってはいませんよ? 発達障害で風俗嬢で親からもひどいDVを受けています。いいや! わしらが保護している弱者はもっとすごいぞ! アフリカとアジアのハーフでトランスジェンダーだ! なんてものです。

 こんな、淀んだタンパク質に満ちた世界では、高らかに上げた清らかな声も早々に空へ霧散し、残るものは塵と二酸化炭素くらいですよ。駄洒落混じりの屁理屈は止してくれって? 冗談じゃありませんよ。私は至って真剣です。玩具の剣でも土産屋の木刀でもなく、真剣です。ね? こういうのが駄洒落混じりの屁理屈というのですよ。え? つまらない? そりゃ屁理屈はつまらないものですよ。ただ、実のある理屈よりかはいくらかマシでしょう。実が出てしまったら尊厳と精神ならびに公衆の衛生がかかった戦いになるのですから。おや? 今、笑いましたね。あなたは思ったよりもこの手のお話にも理解があるのですね。ははは、こりゃ失敬。ええ、まったくです。このくらいのユーモアを一笑に付すゆとりがないと、私達はもっと嫌な奴になってしまいます。

 ですが、そのゆとりをもてる人も徐々に少なくなっているのが実情でしょう。人の思考を色に例えるならば黒です。他の色に染まりやすい白や多様な色が混じりつつも主張し合うから虹と考える方もいるでしょうが、私は黒だと捉えております。何故なら何かしらの外物から影響を受けたとて、それを自分が今まで培ってきた、ギトギトに淀んだ油のような価値観に溶け込ませてしまうからです。いわば何色が加えられようが「黒」という自分の色に染めて受容してしまう……。

 そう例えば、幽霊を見たとしましょう。馬鹿げた例えですがお付き合いくださいね? あなたは正真正銘の幽霊を見たとして、それを受け容れられますか? 自分の経験や知識を元に眼前の現象を解釈しようとするでしょう。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と踏んで、何かが揺れただの目の錯覚だの心身の疲れだの何かしら理屈付けて紐解こうとする……しますよね? ええ、ですよね。結構結構。あまり揚げ足を取って話の腰を折らないでくださいね? ここは肝ではないのですから。話を続けますね? 人は未知の現象に対しても、これをそのままの状態でトレースができず、必ず自分流に色付ける。だから黒だと申しました。

 これが先のゆとり云々とどう関わるかと言いますと、世の中にある色とりどりの事物に対して自分の黒を以て墨塗りどころか、バケツでぶち撒けるかの如く猛り狂う輩が世の中に再び増え始めているのです。「再び」と申しましたのは過去の歴史を鑑みてのことです。それはともかくとして、思考のボトルにキャップを締められない、キュッと力を込めてそれを回せば液をこぼす面倒に遭わずに済むのに、へとへとに疲れ果ててそれをする握力さえない人々が増えているのです。もう世の中はそんな人々がこぼした黒墨で真っ黒ですよ。ほんと、嫌な世の中になったものです。

 世の中が悪くなったのなら私だって悪くなりますよ。この間もほんと嫌な奴になったものだと自らを恥じる出来事に遭遇しました。聞くのが面倒でしたら先に結論だけ申しましょう。要するに善意百パーセントの行いに対して、常に裏があるのではと疑うようになった自分に嫌気が差したお話です。まとめればそれだけのお話。小説にもなりゃしない他愛のない小話です。だからいちいちこうして管を巻いてあーだこーだ申しておるのでございます。何ですか? 前置きは良いから話せと? おやおや、これだけべらべら宣わっているのにまだお付き合い頂けるとは、あなたはなかなかにできたお方だ。世辞や嫌味ではございません。もし、そうだと感じられたのでしたら、あなたもそれなりに嫌な奴の才能があるのかもしれませんな。ははは……なんて、前置きはこのくらいに致しまして……。せっかく聞いてくださる心づもりでいらっしゃるのに、邪魔立てするのは野暮ですな。


 然る日、私は小腹が空いたのでコンビニへ行こうと、何気なしにアパートの部屋を出ましたところ、同じ物件の住人と思しき男性から声をかけられました。男性の年頃は三十前半から半ばといった所でしょうか。浅黒い肌で振る舞いは若々しく、見た目にも気を遣っているのは整った容姿でわかりましたし、ラフな部屋着の割りに服の質は高そうで羽振りが良さそうな印象はございました。ただ、その第一印象が故に私の思考はおぼろげな不安を抱いていたのは確かです。一方、私はと言いますといつ買ったのかも覚えていない襟元がよれよれのTシャツに色褪せたチノパンというしょぼくれた格好で、姿勢は猫背で髪も癖で跳ねさせたままの対称的な有様でした。本来、私の情報は不要ではありますが、そのくらい男の格好が私の生活圏とはかけ離れた人物のクオリティだったと申し上げたいのです。

 男の用件は荷物を運んでほしいとのこと。これだけ聞けば危険で怪しい裏稼業のお仕事なのかとお思いになるかもしれませんが、なんてことはありません。搬送の道程はアパートの敷地内に停めてある男の車から彼の部屋までなのですから、距離は十メートルもありません。運ぼうとしていたのはダンボールに入った大きな家電製品でして、どうやら運送会社の営業所から車に積んで帰宅できたは良いものの、二階の自室まで一人で運ぶ手立てがなかったようでした。そこに私が折よく現れたので声をかけたそうです。

「ダンボールに入った」と聞いて、サスペンスが好きな方でしたら実は梱包されたご遺体が中に……とお考えになるかもしれませんが、これまたなんてことはございません。物は大きな、それこそ壁一面を埋めるであろうサイズの液晶モニターで箱からして薄く平べったいので死体を詰めるにはスライスするしかありません。そんな苦労をするのなら、わざわざ自宅へ死体を運び込まずに山川へ打ち捨てているでしょう。とにかく裏も何もなく、男はただただ液晶モニターを自室へ運びたいから私の手を借りたいと申していたのです。

 私は申し出を快く引き受け、箱の片側を担って彼の部屋を運び入れました。この間もなんてことはございません。落としたり壁にぶつけたりして中身を破損させるなんてヘマもせず、階段の昇り降りでこけるなんてアクシデントもなく、円滑で万事無事に物事は進みました。むしろ荷物の重量はそこまで重くなく、彼の腕力なら別に一人でも問題なかったのではないかと疑ったほどで、私が手を貸す必要があったのだろうかと首を捻ってしまいました。そんな不躾な感想を抱いていた私に彼は慇懃に礼を述べ、むしろ無礼にすら思えるほど手厚い感謝を示してくれました。

 それだけに留まらず、一旦部屋に入ったかと思ったら何と糊付けされた封筒を持ち寄って、私に手渡してきたのです。「お礼です」とにこやかな彼の意図を一瞬解しかねたのですが、すぐ気が付きました。こんな猫の手も借りれば済む手伝いで彼は私に金銭を贈ったのだと。しかも「コーヒーでも飲んでよ」と小銭を渡したのではありません。それでも恐縮する限りなのですが、彼は封筒にお札を入れて手渡してきたのですよ? この意味がわかりますか? お礼にお札ですよ? こんな気色の悪いお金を受け取れますか? 受け取れませんよね? もちろん私も即座に突き返しました。が、彼も良いから良いからと私に押し付けるばかりで引いてくれず、結局受け取る羽目になってしまいました。

 彼と別れた後、糊付けをぺりぺりと剥がして封筒の中を検めれば中には二千円。五分で済んだ作業に二千円です。このわずかな奉仕に時給二万四千円、八時間労働なら日給十九万の価値があった訳です。こんな奇々怪々な俸禄があり得ましょうか。二千円を稼ぐ苦労を私達はよく理解しています。だから彼の行動が解せない。さらに不可解なことに彼は封筒に糊付けをしていた。ということはこのお金は事前に準備していたお金なのです。部屋に入ってこちらに戻ってきた時間もわずかなもので、とても財布からお金を取り出して家のどこかに閉まってある封筒を取り出してそこにお札を収めてそこからさらにまたどこかに置いてある糊を取って封をする、なんて行動をする時間はありませんでした。彼は通りがかった誰かしらに声をかけるつもりだったのは先にも述べた通りでございます。そして、この二千円も予め準備して相手に渡す心つもりをしていた訳でして、これが何とも私の感覚では解せなかったのです。対価なく手伝ってもらうのは気が引けるから自分と相手の精神衛生を慮って、気の憚らない手を講じた……とも推測できますが、行きずりの縁をえんがちょする為の手切れ金とするには少々痛い出費なのではないでしょうか。

 たしかにこれはシンプルに思考を行なえば、何ら不可解な出来事ではありません。ちょっとした善意を以て、他者を助けて相手もまた善意を形に変えて礼を為しただけに過ぎないのです。とはいえ、私はこの出来事に遭う数日前、日常の一幕を不可解な巡り合わせに変えてしまう、オカルティックな事案にも遭遇しておりまして……。これがあったからこの客観的に見れば得をした出来事に巡り合えたのではないか、と考える次第でございまして……。ええ、ええ、荒唐無稽なのは存じておりますとも。体感や神秘的な見方で縁起や因果を説くのは他者の好奇心をつつくには便利ですが危険だと心得ております。

 ただ、平凡でありふれた生活を営む中で、稀な体験に触れたものだから舞い上がっておるのやもしれません。頻繁に会う友はあなたくらいで、恋人もなく、家にこもりがちで、職場と家とを往復するだけなのですから本来は何も起こり得ないはずで、私もそれを享受していたのに、最近はそれに変化を起こされようとしている気分なのですよ。真っ黒な……ここでも黒が出てすみませんね。真っ黒なブラックコーヒーをちびちびと啜っておった所にミルクや砂糖を足されて、そうまさに自分の領域内に外物が浸透してきている気味の悪さを最近は背筋に冷やりと感じる訳です。黒、黒なのですよ。苦みばかりで他に何の味気もない黒。それが私なのに少しずつ薄められているような……。ええ、すみません。少し、疲れているのでしょう。話が逸れましたね。例の、オカルティックな事案とやらについてもお話します。これは決して冗談でもなく、紛れもない私の本心なのですが、こんな話に付き合ってくれるのはあなたくらいですから感謝していますよ? 何をきょとんとしているのですか。まったく、あなたは嫌な奴だ。


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