公子卬の暗殺事件

 馬陵ばりょうの戦いは、深刻な傷跡を魏の国に残しました。その弱った魏に付け込んだのが、秦の衛鞅えいおうでした。


 周の顯王けんおうの二十九年(B.C.340)、衛鞅は孝公に進言します。


「秦と魏は、人にたとえるならば、腹心に病があるようなものです。魏が秦に克つのでなければ、秦が魏に克つべきです。どうしてか?魏は東方に山嶺さんれいのそびえたった天険てんけんの地を本拠として抑えています。安邑あんゆうに都して、そして河を境界としているうえに、さらに山の東に時に引っ込んで、守りの利益をほしいままにしているのです。状況が有利であれば西へ出てきて秦を侵し、調子が悪くなれば東に戻って土地を保つのです」


 魏の領地には、いわゆる函谷関かんこくかん、という要所がありました。当時、この函谷関以西の地も保持しており、さらにはそこから西へ秦の土地へ張り出した領地をも持っていました。


 秦の領地の中に、魏の領地が食い込んでいたわけです。


 そして秦に内乱があるなど、状況が有利であれば秦に侵入します。


 一方で長城を築き、自分が不利であるとその背後に戻って防衛線を守り、場合によっては東の領地とも連携し、補給を行っていました。


 秦の立場から見るとこれは腹立たしい状況で、魏から見ると、守るにやすく、攻めるも易い状況でした。


 秦はこの状況を打破するため、すでに衛鞅に命じて魏の最大の拠点、固陽こようを攻略させています。


 しかし衛鞅にとって、それだけでは不十分でした。


「ご主君の賢聖けんせいにより、国はよりどころを持ち国勢は盛んとなりました。さらには、魏は昨年斉に大敗し、諸侯からそむかれています。この機を生かして魏を伐つべきです。魏は秦を支えられず、必ず東へと徙っていくはずです。その後に黄河と山嶺の天険により、東に向かって諸侯に号令できれば、これは帝王の業のもといを固めることになりましょう」


 孝公は衛鞅の献言を入れ、これに従いました。


 孝公と衛鞅、この二人の協力があって、はじめて改革は成し遂げられたのでした。今回も、二人の息のあった決断が、秦の発展を後押ししていきます。


 衛鞅は軍を率いて魏に攻め込みました。魏は公子・ごうを大将として衛鞅をふせがせました。


 ここで衛鞅と公子卬は宴を催します。


 信じられないことですが、敵軍としてあい向かい合っていた二人なのですが、衛鞅が公子卬に「私は昔公子様と仲良くしていただきました、今ともに両国の将となりましたが、攻めあうのに忍びありません、公子様と一度お会いしてちかいを結び、兵をやめて、秦と魏の国民を安んじようではありませんか」という手紙を送ると、公子卬という人は、のこのことやってきたのです。


 これは当時の時代の、言葉を重んじる、約束を信じる美点と取るべきか、それとも、あまりにも無防備だ、と取るべきか、わかりません。


 衛鞅の方も、昔の友情を持ち出したわけですから、約束を守るべきだったのかもしれませんし、衛鞅の本心がどうだったのか、よくわかりません。


 はっきりといえるのは、公子卬が宴の最中に秦の兵によって暗殺され、それをきっかけに魏軍へとなだれ込んだ秦軍が大勝を収めたということです。『通鑑つがん』では、衛鞅が策をめぐらして、武装した兵士(甲士こうし)を伏せておいたことになっています。


 はじめに高邁こうまいな理想を語っていた衛鞅も、秦にいるうちにしてしまったのか、それとも他の誰かが仕組んだのか、それとも衛鞅という人は手段を択ばない人だったのか、よくわかりません。ただ世評では、一番最後の、手段を択ばない人物だった、という評判が定着しているようです。


 ともかく、秦は魏を破りました。魏の恵王けいおうは河西の地を秦に献上し、西の安邑から、東の大梁たいりょうへと遷都します。


 恵王は、遷都するにあたって、次のような言葉を残したといわれています。


「ああ、公叔痤こうしゅくざのいうことを、用いておけばよかった」


 公叔痤の、彼を殺しておかなければ、魏に仇をなす、という予言は、図らずも当たることになったのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る