秦の孝公、『伯』となる

 ここでしばし、桂陵けいりょうの戦いから馬陵ばりょうの戦いまでの、各国の情勢を整理しておきたいと思います。


 まずえいが公から侯へその地位を落としたことは、先に述べました。


 魏は桂陵の戦いに敗れた後、積極的に外交を行います。


 邯鄲かんたんを趙に戻すことにし、その際に、趙と同盟を結びます。そして秦とも会合をもって、好誼こうぎを結びます。


 三晉さんしんのうち、趙ではせっかく魏と同盟を結んだのに、君主である成侯せいこうこうじ、公子のせつと太子がその位を争い、紲が敗れ韓へと逃げだします。


 また成侯の跡を粛侯しゅくこうが継いだのですが、また公子のはんが邯鄲を襲撃し、成功せずに敗死します。


 趙の国はしばらく荒れた展開が続くようです。


 斉の国は大夫たいふが殺されることがあり、の国でも代替わりが起こったりして、やや安定を欠いたようです。


 唯一勢力を伸ばしていたのが、韓と、秦でした。


 韓は申不害しんふがいのもとで、秦は衛鞅えいおうのもとで改革を進めます。


 特にこれまで未開の後進国として、中原の国々から後れを取ってきた秦は、一気にその遅れを克服し、むしろ先進の法治国家としてその姿を現してきます。


 その成果が、はくへの任命でした。


 周の顯王けんおうの二十五年(B.C.344)、諸侯が京師けいし洛陽らくよう)に集まります。続く二十六年(B.C.343)、秦の孝公が推薦され、『はく』という地位に就きます。


 中国の歴史上の聖人、文王ぶんおうの子、武王ぶおうの兄弟、周公しゅうこう召公しょうこうの兄弟がいたといわれる地位で、天下を東西に二つに分け、それぞれが伯として諸侯の長となったとされます。


 他に『通鑑つがん』の注は九伯きゅうはくというものを挙げており、これは古代中国の伝説の区分である九州の長をあらわすのかもしれません。


 ともかく、昔の伝説の聖人が就いたような地位に、孝公は就いたわけです。

 秦は公子の少官しょうかん(官名か?)を派遣し、軍隊()をつらね、諸侯の使者を集めて周王に拝謁はいえつします。


 これらは、秦の力を諸侯に誇示する一つの契機になったはずです。


 秦は、戦国の雄として、ここにその地位を現してきたのです。

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