才と徳

 さて趙氏、魏氏、韓氏の三つの氏族が、智伯(智襄子)の敗北によって興ったことを前章で見ました。すぐさまこれが各氏の独立につながったわけではありません。


 しかしこの智伯と三氏の戦いは大きな分かれ目になりました。この戦いについて、司馬光は二つの論考を残しておりますので、まず智伯の才と徳の話について、彼の論を紹介しておきます。


 こなれてないかもしれないので、難しければ飛ばしていただければ。



 さて臣光が申し上げたいと思います。


 智伯が亡んだ理由とは、才が德に勝ったからにございます。


 そもそも才と德は異なるもので、世俗のものはこのちがいをよく弁じ分けることができません。この才と徳のちがいに通ずるものがあればそのものを賢人ともうします。この才と徳を弁じ分けることができない、それこそが有用の人を失う理由なのです。


 そもそも聰察そうさつ強毅きょうき(聡明で、強力な力をもつこと)を才といい、正直中和(真っ直ぐで、適切であること)を德と申します。才は、德のもとでであって、德は、才を率いる(コントロールする・帥)ものなのです。


 江南の雲夢うんぼうに生じる竹は、天下にそのつよさを知られます。そうではあるものの簡単に曲がったりしなったりできず、羽根を括りつけたりもできません、だから堅すぎて使えずなかなか実用に立たないのです。

 呉と韓の間にある棠溪どうけいの金属は、天下の利器として知られていました。そうであるのに溶かしたり、型にはめることがなかなかできず、砥いだり磨いたりもなかなかできず、だから強い武器を撃ってつくるのに適さないとされました。

 才が過ぎるものは、実用に立たないのです。


 だから才と徳をことごとく兼ねつくしたものを「聖人」と呼び、才德すべてないものを「愚人」というのです。


 德が才に勝っているものを「君子」といい、才が德に勝っているものを「小人」というのです。


 だいたい有用の人を登用するためには、仮に聖人を得ることができなければ、君子とともにし、小人を登用するよりは、愚人を登用したほうがいいのです。


 どうしてでしょうか?


 君子は才を用いて善を施し、小人は才を用いて惡を施します。才を頼んで善をなす者は、善が至らないということがないでしょう。才を頼んで惡をなす者は、惡もまたその人を好んでやってこないことはないのです。


 愚人は不善をしようとしても、智恵が十分ではなく、力もできないで、例えるならば乳狗(子犬)の人にじゃれるようなもので、人もこれを制御することができます。


 小人は智恵はその奸智を遂げるに足らないということはなく、勇はその暴力をふるうに足らないことはないのです。これは虎に翼をあたえるようなものです。その害たるやどうして多くないといえるでしょう。


 だから德とは人の厳に敬うもので、才とは人の愛するものです。愛されるものには親しみやすく、嚴なるものは疎まれやすい。だからこそ賢察するものだけが多く才あるものを蔽って德のあるものをのこすことができるのです。


 古昔より以來、国の乱臣、家を敗る子孫とは、才があまりあって德が足らないもので、そのために国や家を転覆の憂き目にあわすことが多いのです。


 これはどうして智伯のことだけでしょうか!


 だから国を治めるものや家をおさめるものは才德の程度を審らかに熟知し、才と徳のどちらを先にしているかを知っておくべきで、そうであってはじめて人の賢愚について憂うことがなくなることができるのです!



 能力を使うには、モラルがいる。適切にそれを使う基準がいる。そのことについては、次の章でも出てくるのですが、司馬光の主張は胸に響きます。


 意訳で、ごまかしたところもあるかもしれません。しかし司馬光が最終的に智伯の事件について述べている意見とは、このようなものです。 参考になれば。

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