The beautiful canvas
桑野健人
1
目も眩むような喧騒が群れをなす鼬鼠鮫のように襲来する大都市から少し離れた河川敷を、私は歩いていた。私は囂然とした世界を嫌悪した。電車、繁華街、オフィス街でさえ居るだけで吐気を催す。だが静謐は消失した訳ではない。大都市がゴミ処理場のようにあらゆる狂騒を集めた結果、都市と郊外を分け隔てる河川に敷かれた鉄橋の下にはかえってより多くの静寂が蛍のように寄り添っている。私はそういうのが好きだ。人は私のことを人間嫌いなのだと言うがそれはあまりに安直な分析である。私は人は好きだ。唯、鰯のように群れて傲然になったヒト=社会構造を嫌悪するだけだ。
「この世は愚者が回すものだよ」
と、十年前に会ったホームレスの爺が言っていた。私は彼こそが愚者の象徴だと思った(その頃の私はまだまともな生活をしていた。少なくとも夜更に河川敷を彷徨くことはなかった)から、彼を除外している分群集は賢いと思った。しかし爺は私の軽蔑の眼差しをものともせずに続けた。私は彼を言論の内に捻じ伏せてやろうと黙って聞いたのだった。
「鰯はカジキに群れを攪乱されると先頭が闇雲にカジキに突っ込んでも後続はそれに従うそうだ。人間も同じだと思わんか?人は他人が動くと自分も動くように出来ておる。それは本能なんだよ。大事なのは、それが動物的であることなんだな。神の仮装をした倨傲な猿どもは安易に動くもう一匹の猿に釣られて踊らされてるなんて考えないんだよ、実に愚かだとは思わんかね、お嬢さん、聞いとるだろ、返事しておくれよ」
私はその爺がFXで金を溶かしたか、詐欺師に罹って会社を潰したか、バブル期倒産勢か、はたまた実際はパチンコでスッただけなのにパチ屋に騙されたと妄想を膨らませる類なのだろうと思った、いずれにしろ厄介だ。
「猿でも良いじゃないですか、美味しい飯食って馬鹿みたいに子供作って、その子の高校の卒業式で殊勝に涙を流すんですよ」
爺は乱雑に生えた醜悪な髭をひくひく動かして
「嬢さんは対抗しないのかね、その素質はあるように思うが」
と宣ったので、
「
と言ってやったら爺は歯の無い口で気色悪く呵呵大笑したのだった。実際社会は愚者が回しているし、私は雑草を食わねばならぬ程の底辺を蛆のように蠢いている。
私は川の匂いをかぎながら河口の方まで歩いてみることにした。歩きながら私はこれまでの失敗を懺悔し、水泡になって霧消するのを想像する。我が人生における最大の失敗は画家としての才能が私には備わっているのだと驕ったこと。おかげで三十路手前まで夢にしがみついてしまった、それこそ蛆のように。当初貰っていた仕事は私の才能を飼い殺しにするものだと本気で信じた、後半は信じたかったと言っても良いだろうがね。杜撰な対応に辟易した相手から容赦なく打ち切りを食らった。私はその頃から群集を嫌悪するようになった。歩く人がみな鰯の頭をしていた。勝手に生臭く感じ、勝手に道端で嘔吐して周囲の嗤笑を掻っ攫った。しかしそれも世界との手切だと思えば悪くない。私は黄色い吐瀉物を拭いながら思った。「1984」でも「洪水はわが魂に及び」でも挿絵を描けそうなくらいのイメージを頂いたのだから。私は自分を惨めだとは思わない。誰しも着地点があって、偶々私は蚯蚓みたいな生活がそれだっただけなのだから。それでも良いと思わないか?蚯蚓には蚯蚓の世界があり、鰯には鰯の世界がある。大事なのは互いに自らの世界を逸脱しないことだ。特に我々は喰われるからね。
背の高い葦に川は隠されて音だけが整然と流れていた。丘の上の電灯で僅かに道が照らされていた。私は間も無くブーツが泥を被るのを感じた。昨日は雨だった。増水こそすぐに退いたけれど、いつまで経っても私の世界は泥濘ばかりだった。季節は冬で世間では行事に忙しかった。暗鬱にLEDが光輝き、私は耳だけでなく目も塞いで襤褸い部屋の隅に閉じこもった。私の活動は夜からだった。私は服装だけは途方もなく気を遣った。大学生の頃に羽織っていたコートを清潔に使い続けた。百貨店で買ったブーツも履いたし、子供の頃に親から貰ったマフラーも首に巻いた。こんな裕福そうな服の女が雑草を採りに行くなんて誰も思わないだろう。
今日はクリスマスイブだった。私は晩御飯を止して河口まで歩こうと思ったのだ。何かしらの欣快が待ち受けている気がしたのだ。私は無神論者であったが、今日は恩寵なるものを信じてみる気になった。吐く息は白く天に遡上した。私は私の身体を通ったその天使のような吐息が神を導いてくれる姿を想像した。やがてそれは煙突から煙が出ているのにそこへ飛び込む間抜けなサンタクロースのイメージに変わった。子供の頃は従兄弟たちと暖房の良く効いた広間で駆け回った。私と結婚する予定だった二つ上の従兄弟は大学時代に交通事故で呆気なく死んだ。どうせ死ぬなら世界の残滓から愚者と罵られようが、白痴な権力者に踊らされながらも幸せを掴むほうがよっぽど良いと、燦々と輝く太陽のような笑みを浮かべた彼の遺影に拝みながら思った。
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