異世界転〇~携帯販売のブラック企業からおさらばしたら、何でこうなった?~

日々 幸人

プロローグ 【転職サイトの求人詳細は一番大事な部分が抜けてるか、だいたい嘘】


『こんな世界、クソだ――』


 蝉の声が響く夜の住宅街を一人の男が歩いている。つま先を引きずるような足取りとくたびれた表情は、男がどれだけの疲労を蓄積しているのかを物語っていた。


 定刻を大幅に過ぎてから職場を後にし、終電へと間一髪乗り込み、残暑ながら駆けた身体には熱がこもる。額にびっしりと汗をかく。乱れた息を車内で整えながらも席には座らず、立ったまま最寄り駅を待つ男。理由は実に単純なもので、座って万が一にでも眠ってしまえば、自身が起きることなく終点までたどり着いてしまうことがわかっていたからだ。疲れを癒すことが許されるのは自室の年中敷きっぱなしの布団の上のみである。


 最寄駅についてしまえば、家への帰路はほんの五分程度のもの。


『もう少し……』


 疲弊した身体を鼓舞するように男は呟く。男は自分以外には誰もいない夜の道に、どことない安心感を覚えた。


 人と関わること、それは仕事であろうとプライベートであろうと大なり小なりのストレスをはらんでいる。人で救われることもあるが、そもそも苦しむ原因自体、人が起因することの方が多い。接客業という職は、特に人と接することそのものが仕事にである。つまり接客業に就いているものは、他業種に就いているものよりも人によるストレスの影響を受けやすい。

 

 男が勤務する会社は携帯通信機器の販売代理店、俗に言う携帯ショップの運営を行う会社だった。ただ、その内情はブラック企業と呼ぶには十分過ぎていた。接客とは名ばかりに明らかに狂った数値のノルマを課し、客への営業は詐欺まがいの方法で行うことを強要する会社。それらが出来ない人間への上司からの誹謗中傷、罵詈雑言は店内に流れるBGMのように毎日インカムを通して四六時中聞かされていた。


 残業代もみなし残業という形で基本給に含まれてはいるものの、業界の中でも給与は最低水準を大きく下回っている。会社全体の業績が悪い、という理由から賞与は男が入社してから一度として支払われていない。休日は在宅で会議資料に研修資料、報告書などを一日中作る日で、全く仕事に携わらない日など、男にはもう数年以上無かった。


 男の同期入社に、年下の女性社員がいた。彼女は屈託ない笑顔を浮かべる快活な女性で、最初の一年は劣悪な環境ながらお互いに励まし合って切磋琢磨していた。だが、いつ頃からか女性社員は微笑み一つ浮かべなくなり、日に日に頬はこけ、綺麗だった唇が渇いていった。


 ――そして、彼女はいなくなった。




『ん、そういや今日って何曜日だったっけ?』


 重たくなった腕を持ち上げ、胸ポケットに入れてあるスマートフォンを取り出し、画面をつける。


【0:33 2020/8/29 Friday】

 

『あぁ、明日金曜なのか。いや、もう今日か……ははっ』


 男の口から乾いた笑いが零れる。充血したままの目に生気は無かった。


『フライデーなら俺もフライしちゃってもいいかなぁ。あれ? フライの綴りってどんなのだったっけ?』


 男は、スマートフォンの中の翻訳アプリを起動して、"翔ぶ"と入れて英訳ボタンを押した。


【日本語 翔ぶ → 英語 fly】


『あー、アールじゃなくてエルか』


 男の指が、画面に意図せず触れる。


【英語 fly → 日本語 飛ぶ】


『……翻訳アプリって、こういうのあるよな。前にそんなクレームもあったっけな』


 単音の通知音が鳴り、画面には新着メールの文字。男はこんな時間に何のメールだと、疑問に思いつつも目の前に見えてきた家の中へと急いだ。六畳一間の小さなアパートの305号室が男の部屋。


 鍵を財布の中から取り出し、なるべく静かにドアを開閉する。建付けの悪いこのアパートは少し乱雑にドアを開閉するだけで、両隣にも音と振動が伝わり、後日のご近所トラブルへと発展してしまう。


 部屋に入るなり、ネクタイを下駄箱の上にカバンを廊下の隅に置き、手慣れたルーティーンのように身に着けたものを外していく。スマートフォンのアラームが6:30にセットされていることを確認すると男は糸が切れた人形のように、長年敷きっぱなしでへたってしまった布団の上に倒れた。



――――――――――――



けたたましいアラーム音が六畳の部屋に響き渡る。反射的に男は意識も不確かに手を伸ばし、手さぐりにスマートフォンを手に取り画面を見ることなく、アラームを止めた。身体に染み付いた習慣は時にどんな反射反応よりも的確に行動を操作する良い例であった。


 まだ休息を求める身体の要望を無視して男は上半身を起こし、立ち上がった。台所の冷蔵庫から開封済みの業務用アイスコーヒーの紙パックを取り出し、コップに注ぐでもなくそのまま口をつけて飲んだ。口内いっぱいに広がる苦みと鼻につくどこか薬品臭いコーヒーの香りで男の脳が一気に覚醒状態へと導かれる。


 昨晩から着たままでいたカッターシャツと下着といくつかの衣服を洗濯機の中に放り込み、洗剤を目分量で注ぎ洗濯機のスイッチを入れると、自身は浴室へと進み、昨晩の汚れを注ぎ落す。



 風呂から出ると、再び男は冷蔵庫から業務用アイスコーヒーを取り出し、同じように飲み、床に座り込んだ。スマートフォンの画面を開くと新着メール有の文字が目に飛び込んできた。


『そういえば、昨日というか帰宅前に何か来てたな』



差出人【anotherlife-support@different-wld.com】 

件名 【求人のお知らせ】

本文 【今の仕事がつらい、しんどい、生きる気力がない。そんなあなたに朗報です。......】



 通知を押して中を開くと、それは転職サイトからのメールのようだった。しかし、男にはこのメールが届く覚えがなかった。転職が叶うものならしたい、と心中に願望はあれど、転職をするにも書類選考があり、面接がある。書類を用意し、推敲する時間、面接対策を練り、志望する企業の情報を集める。そんなことを行う時間が男には圧倒的に足りなかった。だから、男は転職サイトの類に登録をしたことがこれまで一度として無かった。


『スパムかなぁ。でもまさにこんな感じなんだよなぁ』



【ついに報われる時が来ました。】



『随分と宗教じみた書き方だ』


 理由は特になく、文章を鵜呑みに出来るほど純粋でもない。ただ何となく気まぐれに男はメールを読み進めていった。



【接客経験有、ワークライフバランスを整えたい方へ。

書類選考無し、面接はたった5分の電話面談のみ。

社会保険完備(雇用・労災・健康・厚生年金)、

交通費全額支給、家賃全額補助、研修制度有、契約社員登用、月給……】



『おい、待て待て待て。なんだよ、この好条件のオンパレード。契約社員なのは引っかかるけど、月給なんかこれだと色々引かれても手取りが今の総支給額超えるぞ。いや、一回落ち着こう』


 男はまだ湿る髪をタオルで拭きながら、画面の文字を脳内で繰り返し反復した。誰がどう見ても、男にこれほど適した条件は無い。


『そもそも書類選考無しの電話面談のみ、ってめちゃくちゃ怪しい。そうだ、これはスパムなんだから、好条件で当たり前だ』



【そして、このメールを最後までお読み頂いた貴方様へ。

この文を読んでから、3分以内に弊社の採用担当からお電話致します。

もし、人生を変えたい。やり直したい。現状を抜け出したい。

――幸せになりたい、と望むなら、この電話に出てください。株式会社ディフェレントワールド】



『馬鹿々々しい嘘だ。番号なんか登録もしてないのにわかるわけがない』


 男は、窓に視線をやる。薄いカーテン越しにでもわかるほど、外は曇天の雲行きで、彼のこれまでの人生を映すような薄暗い世界が窓の外に広がっている。電話に一つ出るだけで、こんな日々は終わるのだろうか。そんなことが出来るなら、もう一度希望を持っても良いのだろうか、男の中で叫び声のような感情の濁流が溢れる。


『……変えたいに、決まってるだろ。こんなクソみたいな世界』


 男の言葉が口から零れだした瞬間、彼のスマートフォンに着信が来た。



【着信:株式会社ディフェレントワールド 採用担当】



 登録されていないはずの番号からの着信。しかし、画面にはしっかりとメールに記載があった社名が表示されていた。男は驚きのあまり画面を凝視する。普通じゃない、こんなことはあり得ないと男は恐怖と期待を抱いた。


 そして、ゆっくりとその電話に応答した。


『もしもし』


≪もしもし、お忙しいところありがとうございます。こちら株式会社ディフェレントワールドの採用担当のアリアと申します。お電話口の方は壮馬 佑真(そうま ゆうま)様でお間違い無かったでしょうか?≫


『はい。そうです』


≪……随分とお疲れのご様子で。これまでに大変ご苦労されてたのですね≫


 電話越しのアリアの声は落ち着いた女性で、声音はとても柔らかく、何気ない定型文のような言葉にも関わらず、壮馬の目頭は熱くなった。


『まぁ、俗に言うブラックなとこで働いていまして』


≪でしたら、今回のお話は壮馬様のお力になれると思います。電話面談、とは記載致しましたが、こちらから壮馬様にお伺いすることは一つだけです。今を変えたいと思いますか?≫


『当たり前ですよ。朝は八時に出社しなきゃ行けないから毎日六時半には起きて、夜は二十四時近くまで働いて、終電に毎日走り込んでは家に着いたら何をするでもなく布団に突っ伏して寝る。新機種の発売が近づくと泊りがけで徹夜の作業に、休みなんて一日中電話が鳴って休める時間も無くて……こんな日々、何の為に生きてるのかすらわからない。変えたいことしか無いですよ』


 壮馬の声は震えていた。ずっと心に抱えていても、言葉にして来なかったものが溢れていく。アリアは何を言うでもなく、静かに壮馬の話を聞いていた。


≪では、その願い叶えましょう。弊社で貴方を内定とします。細かな勤務条件は歩実書面で別途送付いたしますのでご確認下さい≫


『え、じゃ、じゃあ今の会社に辞職表出さないと』


 壮馬の脳裏に以前、退職しようとして恫喝されていた社員の姿がフラッシュバックする。手が震え、声に怯えが出る。長く人は虐げられると、反抗する意思というものが思考の根底が刈り取られてしまう。例に漏れず、壮馬もそうであった。


 変えたい、と口にしたものの心身が恐怖に支配されていく壮馬。電話越しの話に乗るなら、今の会社を辞めるというプロセスは必須であり、乗り越えるべきものだ。それらを理解した上で、行動に移せる気が壮馬はしなかった。


≪壮馬様、ご安心下さい。現職の企業への壮馬様の退職手続きはこちらで代行させて頂きます。もう一切、そちらの企業とは関わり合いになる必要はございません≫


『ほん、とうに?』


≪ええ、本当です。だから壮馬様、今はごゆっくりとお休み下さい。長い間、お疲れさまでした≫


『え、ありがとうござ……い、ま……す』


 アリアの声が遠くなっていき、何とかお礼を、と壮馬は言葉を絞り出した。壮馬の意識はゆっくりと深い眠りに落ちていった。壮馬にとって何年ぶりかの純粋な眠りであった。



――――――――――――



  目に刺さるような白い光がかすかに開いた瞼の隙間から注ぎ込んできた。睡眠からの目覚めなんだと覚醒から数秒とかからずに理解した。それほどまでに頭にかかった靄が取れた気分だった。寝起き特有の身体の重さはあるが、心はとても晴れやかで良い気持ちだ。


『そっか、寝るってこんな感じだっけか』

『そうですよ。おはようございます』

『あぁ、うん。おはよう』


 聞こえてきた声に返事はしたが、って、ちょっと待ってくれ――。


『……誰?』


 あまりの驚きに一気に身体を起こすと、そこには絵に描いたような金髪の美女が立っていた。人工的な染毛剤では決して出せないであろう純金のようなきらめきを携えている。


『そんな急に起き上がったら身体に悪いですよ。まぁ、でも混乱されるのも仕方ありませんね。自己紹介から致しましょうか。お初にお目にかかります。株式会社ディフェレントワールドの採用担当アリアです。お電話でも話させて頂いたのですが、覚えていらっしゃいますでしょうか?』

『えっと、はい。改めまして壮馬 佑真です。じゃなくて、何で俺の部屋に』

『いくつかお話はあるのですが、まずは周りを見てください』


 彼女の言葉に俺はあたりを見渡した。壁は一面真っ白で、全体が黄ばみ、ところどころ壁紙がはがれているあのボロアパートの自室でないことを理解した。


『なるほど。え、ここどこ?』

『弊社の仮眠室ですよ。誠に勝手ではございますが、あのお電話の後から三日経ってもご連絡が付きませんでしたので、壮馬様のご自宅に伺いました。すると、部屋でスヤスヤとお休みされていたので、こちらにお運びさせていただきました』

『それはお手数おかけしました。じゃなくて、なんでここに連れてきたのかもだけど、家の鍵は?』

『弊社の技術力で開けました』

 

 嫌な予感がしてきた。俺にはわかる。長年ブラックの沼に漬かっていたからこそ感じ取れる気配だ。そもそもプライベートに当人の意思関係なく介入してくる会社は間違いなく黒いものである。


『それ技術も何もただのピッキング……』

『いえ、鍵穴の中にも一切の傷を残してません。ただのピッキングと同じにされては困ります』

『誇らしげに語ってるけど、普通に犯罪じゃねえか!』

『しかしながら、私共が向かわなければ孤独死コースでしたよ?』

『それはどういう……?』

『壮馬様の部屋に着いた段階で、睡眠というよりは栄養不足と過労で昏睡状態に近い状態でございまして、点滴等を行って、やっと先ほど目が覚めたのですよ』


 アリア、という彼女が言っていることが真実だという証拠は無い。ただ確かに長年ずっと身体にまとわりついていた気怠さや偏頭痛も感じない。少なくとも寝る前の自分が栄養管理を出来ていたわけもなく、普通に寝ただけで回復したとは思えない。


『それは、申し訳ない。ありがとうございます』

『大丈夫ですよ。目覚めたらいきなり見知らぬ所だったことに警戒心を抱くのは生物として当然の反応です』


 ブラック企業で蝕まれていたのは、身体だけじゃなくて心もだったのかもしれない。疑うことばかりになってしまっていた自分が少し恥ずかしくなる。


『……ん、三日経ってからの点滴で今って、俺はいったい何日眠ってたんですか』

『何日だと思います?』


 アリアが微笑みながら、クイズです、とでも続きそうなおどけた雰囲気で言う。


『四日ぐらいですかね』

『それで、ですね壮馬様。お身体の具合はいかがですか?』

『え、何日だったんですか』


 アリアの無言の笑顔(圧)で、この話はここで終わりとなった。なんで、それ隠す必要ある?


『ま、まだ寝起きって感じはしますけど、かなり好調です。それこそ何年ぶりだろってぐらいに』

『それは良かったです。でしたら早速ですが、勤務条件についてのお話をさせて頂きます』

『あ、はい。こんなベッドの上から失礼します』

『気になさらないで下さい。まず、基本給は三十万にその他実績に応じてインセンティブのご用意もありますし、賞与も年二回の支給予定です』

『待ってください。基本給三十万、って本当なんですか』

『えぇ、手当も込みになりますが』


 高卒、資格なしの人間への待遇としては破格すぎる好条件。メールの中のアイキャッチなだけで本当にそのまま適用されるなんて、予想外すぎる。


『ちなみに手当って?』

『勤務地が少々今のお住まいからは離れてますので、転勤手当のようなものですね。あ、でもご安心ください。住居はこちらでご用意しますのと、食費に関しても全額支給致します』

『至れり尽くせりですね』

『ただし、契約社員として今回は三か月更新の雇用とさせて頂きます。原則、こちらから再更新をお断りすることはありませんが、勤務態度や素行不良は都度、厳重注意とさせて頂きます』

『ちなみに正社員登用の見込みは、ありますか?』

『はい。もちろん御座いますよ。ただそれらの条件は再更新を一度でもされた後にご案内させて頂きます』


 基本給は正直、前職の二倍近くある。これにインセンティブに賞与(ボーナス)もあって、住宅補助に食費補助、年収も倍ぐらいになるんじゃないか、これ。美味すぎる話だ。これ、まだ夢なんじゃないか?


『半信半疑、という顔をされてますが、壮馬様。まだ業務内容お聞きになられてないのに油断してていいんですか?』


 彼女は笑みを浮かべながら、意地悪そうな口調で言った。


『あっ、そうでした』

『壮馬様のお仕事は、なんと携帯ショップの店長でございます』

『あー』


 なるほどね。店長ならこの基本給も納得だ。むしろ少ないぐらいだけど、その他の待遇考えれば、まぁ悪くはないか。


『管理職の仕事に携わってはいましたけど、店長経験は無いんですけど大丈夫ですかね』


 そう俺は、本社とのオンライン会議には出席しなかったぐらいで、その他の店長、副店長が本来すべき業務の大半を押し付けられていた。


『ええ。店長というと言っても基本的には携帯電話がほぼ普及してない場所なので、月に一件契約があればってぐらいですのでご安心下さい。スタッフも壮馬様以外いませんので、基本の発注などの処理はこちらで受け持ちます』

『月に一件って、一体どこなんですか。離島とか田舎の村ですか』


 都心部のショップなら多ければ、月に数百件は契約は出る。町はずれの小さなショップでも月に数十件以上は出るのに。というか、そんな場所でこの待遇は、再び嫌な予感が――。


『というか、いせ……外国ですね』

『今、何か言いかけ――『とても言語が簡単な国なので、今日から一か月の間、私と語学研修です』


 俺の言葉を大きく遮り、そう言うと彼女はにっこりと微笑んだ。まるでそれ以上聞くなと言わんばかりの先ほど同じ笑顔(圧)。俺の嫌な予感は大的中。海外って嘘でしょ。


 それから一か月はこの仮眠室が自室兼研修の部屋となった。金髪美女のアリアと二人っきりとか何かロマンスが、なんていうお花畑な俺の幻想は初日の10分で打ち砕かれた。


 いくつかわかったことがある。彼女ことアリアは、普段は丁寧で、たまに悪戯心もある可愛らしい女性だ。後、とても良い匂いがする。花の香りなのだろうけど、花に詳しくない俺は何の花かはわからない。そんな彼女だが、いざ研修に入ると、まず声から熱が消える。表情も真顔となり、あの柔らかな笑みを浮かべる女性と同一人物とは思えない。氷の女王モードと俺は名付けた。


 同じ質問や同じミスを犯すと、淡々とその原因や要因を理論的に問い詰められる。ただ怒声で騒ぎ立てるだけだったブラック上司の罵声が屁のように思えた。……本気で怖かった。研修後の通常アリアと話すときの優しい雰囲気が飴と鞭の良い塩梅になっていた。


 それにしても、彼女の研修は本当に洗練されたものだった。研修前、人に教えるのは得意ではないと本人談だったが、高校生の時、英語の成績が赤点回避ギリギリだった俺が一か月で本当に別言語を修得出来たのだから。まず、厳しくはあるが言葉の意味や成り立ちの説明も交えつつ、言葉の置き換えが上手で不思議なほど頭にスッと入ってきた。まぁ、それでも小テストでミスがあるあたり自分の記憶力の衰えを実感してしまう。


 ――そう、研修はとても順調で問題は無かった。聞き慣れない言語も学んでみれば、実にあっさりと身についた。一つ気になったのは、あまりにも聞き慣れなさ過ぎた、ということだ。アンダース語、とアリアは言った。そんな言語の名前を俺は今まで一度も聞いたことがない。

 

 もちろん俺が世界各国の言語を熟知しているわけじゃない。だから、知らない言語があっても特別おかしいことではない。それでも、長く携帯販売という職業について海外旅行や外国人のお客さんを応対する中で、翻訳アプリや言語設定の操作も数えきれないほど行ってきた。その中で、このアンダース語の字体や響きに似たものに触れた記憶が一切ない。


 そして、俺はこのアンダース語がこの世界の言葉では無いと確信する瞬間があった。それはアリアとの対話練習の際に、彼女とアンダース語用いて、ごくありきたりで自然な挨拶を交わした時だった。


 あまりにも自然にその言葉と彼女の風貌がかみ合っていた。アリアを初めて見た時から、どこか馴染みのある既視感を覚えていた。だからこそ彼女の口からアンダース語が発せられた時、俺は直観したのである。アリアの外見は、ファンタジーの中のエルフそのものだ、と。特徴的な長耳こそ見当たらないが、ゲームやアニメ、漫画の中で幾度となく見たエルフに酷似していた。

 まさかでもないが、俺の転職先ってもしかして……。


『相馬様、どうかされましたか?』

『いや、今日もアリアは可愛いなと』

『そうですか、ありがとうございます。といいますか、壮馬様は随分と陽気な人柄になられましたね』

『こんな美人と毎日話すのに、憂鬱な顔をしていても勿体ないからさ』

『そうですね。本来の壮馬様の人格は今のような感じなのかもしれませんね』


 ニコッと微笑み、今日も俺の軽口は実に軽快に流されていく。一か月毎日もやり取りしていれば、敬語も外れて(向こうは外してくれないけど)、こんな風に何気ない会話にも親近感がにじみ出るものだ。


『さて、いよいよですけど、ご準備は大丈夫ですか』

『ビシバシとアリア先生にご指導ご鞭撻頂いたおかげで言葉で困ることは無さそう』

『それは頑張った甲斐がありました』

『で、勤務地と新居への移動はどうやって行くの?』

『えっと、そうですね。こほん、荷物はそれで全てですか?』

『質問に質問で返すのはナンセン……はい、これで全部です』


 再びの軽いジョークのつもりだったが、一瞬で彼女の表情が氷のように凍てついたのを確認し、俺はすぐに軌道修正を図る。


『じゃあ、このまま行ってもらいますね』


 アリアはそう言うと、アンダース語とも異なる不思議な呪文のようなものを詠唱する。途端に俺の足元半径二メートル程に発光する魔法陣が浮かび上がってきた。


『いやまぁ、もう薄々感じてたんでね。ええ、ええ驚きませんとも。これっぽっちもね。そういうことですね、はい』

『本当に聡明な方で助かります』

『嘘ですよ。驚かないわけないじゃないですか、いくらなんでも家から離れてるとかじゃないでしょ!』


 そう、予想は大的中。俺が今から行くのは海外なんかじゃなく――。


『大丈夫ですよ。ちょーーっと次元の壁を超えるだけで……普通に、あの、何です? 剣と魔法のファンタジー、みたいな』

『ずいぶん説明へたくそになりましたね!』

『あ、はははー、まぁ悪いとこではありませんし、嘘ついてないですよ。あ、後細かいことはカバンの中にこっそり仕込んだ業務用スマートフォンにマニュアルアプリ入れてますので、そちらをご覧ください』

『笑い方がもうキャラ崩壊もいいとこだし、変なところでちゃんと企業してるのもなんでなんだよ』


 身体の芯に熱を感じる。不思議な感覚だ。もうじき自分はこの世界から消えるのだと直感する。


『最後にもう一つ、もし、万が一、向こうで危ないことがあったら【xxxx】と唱えてください』

『不安になること最後に言わないでくれます!? それと危険がある可能性は事前に通達が必要だと思うん――』

『それでは、いってらっしゃいませー』


 言葉半ばに俺の全身大きな光の束に飲み込まれていった。

 敢えて察してはいたものの、言葉にはしなかった。言語化した時に人は初めて現実を受け止められるとも言うからだ。つまりはそういうことなのだろう。



 俺はどうやら異世界転生ならぬ異世界転職を果たしたようだった――。







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