三百メートル、近くて遠い
矢口愛留
三百メートル、近くて遠い
東京スカイツリー。
空へと伸びたその大きな木は、六三四メートルの高さを誇る。我々が住む武蔵野台地。「むさし」の語呂合わせで、この高さに決まったそうだ。
そして何より、日本で一番、天に近い建造物である。私は行ったことがないが、展望デッキからの景色はきっと最高だろう。
スカイツリーは夜になると、緑や紫、赤……毎日違う色に点灯し、見る者を楽しませてくれている。てっぺんの色はその月の誕生石と同じ色になっているとテレビで言っていたのを、ふと思い出した。
スカイツリーが窓から見える部屋に越してきたのは、今から二年半ほど前である。
例年なら隅田川の花火大会が開催され、部屋の窓からもその様子が見えるはずだった。だが、新型コロナウイルスの影響により、先日開催するはずだった分も含めて、三回連続で中止となってしまった。ここに越してきてからは、残念ながら一度も見ることが出来ていない。
私が最後に花火を見たのは、今から三年も前のことだ。
三年前のその夏はあっという間に通り過ぎていってしまったが、何よりも大切な思い出として、今も心に残っている——。
***
「なあ、スカイツリーの展望デッキに、レストランがあるの知ってるか?」
ファーストフード店でポテトをつまみながら、ハルは唐突にそう言った。
「へー、そうなの?」
私もポテトをつまんで、気のない返事をする。汗をかいたから、しょっぱい物が美味しく感じる。
「俺さ、今年就職だろ? 最初のボーナスが出たら、展望デッキのレストランでユキにご馳走するって決めてるんだ」
「ふーん。でもさ、ハル、高所恐怖症じゃないの?」
「まあ、そうなんだけどさ。ユキ、一度スカイツリーの展望デッキ、行ってみたいって言ってたじゃん」
ずず、とアイスコーヒーを飲み干して、ハルは言う。
「無理して私に合わせなくてもいいんだよ。それに私、そんな高級そうなお店行ったことないから、どうしていいかわかんないよ」
「そんなの俺だってそうだよ。でもさ、一生に一回ぐらい、そういうところ行ってみたいじゃん?」
「そういうもんですかねぇー」
「そういうもんなんです」
カラカラと音を立てて、ハルはグラスの中の氷を回す。もう六時を回っているというのに、外はうんざりするほど明るい。
「ユキって、結構現実的だよな」
「そういうハルは、ロマンチストだよね」
「まあな。だからこそさ、六百……何メートルだっけ? 考えたくもないけど、一度ぐらい我らの住む、この武蔵野台地を見下ろしてみたいわけ」
「はいはい。ちなみに、展望デッキはその半分ぐらいの高さにあるんですよ。よかったですねえ、高所恐怖症くん」
「半分ぐらいってそれでも三百……、いや、やめとこう」
ハルは煙草を取り出すと、頬をすぼめて、火をつける。煙を吐き出すその横顔は好きだけど、煙草の煙は好きじゃない。
「なんかさ、ハルって子供っぽいよね。私より年上なのにさ」
「お、それ言う? ユキなんて珈琲も飲めないお子ちゃまだろ?」
「そうやって張り合うところがお子ちゃまなのー。それに私、コンビニのコーヒーなら飲めるんだから」
「ふふん、まだまだですな」
「むぅ」
私は、自分が注文したオレンジジュースを飲む。夏なんだから、爽やかなものを飲みたいのだ。放っておいてほしい。
「でさ、ユキ。受験勉強は進んでんの?」
「当たり前でしょー。今日も、さっきまでみっちり夏期講習よ」
「おーえらいえらい」
「私はかしこい子なのです。ですから塾の後に彼氏にご飯をたかっても許されるのです」
「ほほー、失礼しやした。存分に栄養をとっておくんなせえ」
「ぷっ」
私が吹き出すと、ハルも楽しそうに笑い出す。笑いながら煙草を灰皿に押しつけて、すぐさま新しい煙草に火をつけた。
「また吸うの? 肺が真っ黒になっちゃうよ?」
「いーのいーの。俺の親父もヘビースモーカーだけどまだまだ元気だし」
「えー」
「それよりさ、今度隅田川の花火大会があるだろ?」
「あー、来週だっけ?」
「俺ん家に見に来ない? 勉強が忙しいなら無理しなくてもいいけど」
「行く! 行きます!」
「即答かよ」
「花火は見たいけど、人混みはいやだし」
「ぷっ、ユキらしいな」
「だって疲れるじゃん」
「まーね。俺も人混みは苦手」
「知ってる」
ハルは、ふー、と煙を長く吐き出した。その表情は先程より少し大人びて見える。
「ユキさ、受験上手く行ったら、一人暮らしするんだろ?」
「うん。親にごねたら、いいよって」
「……ならさ、俺ん家に一緒に住まない?」
「……いいの?」
「おう。だからさ、受験頑張れよ」
「……うん!」
ハルは私を家まで送ると、駅ではなく谷中の方向へ歩いていった。お気に入りの珈琲店で、いつものにがーい珈琲を買って帰るのだろう。
***
こうしてスカイツリーを見ていると、懐かしい思い出が蘇ってくる。窓からはすっかり秋めいた風が吹き込んできて、静かにカーテンを揺らす。
三年前の隅田川花火大会は、この部屋から見た。ハルは夜空に咲き誇る色とりどりの花を見て、眩しそうにしていたっけ。次の開催は、いつになるだろうか。
向かい側の椅子は、年がら年中煙をくゆらせるハルの定位置だった。
一緒に住むようになってからは煙草を控えてほしくて、ライターや灰皿を何度も隠した。けれどなぜかすぐに見つかってしまって、「仕方ないやつだな」と頭を小突かれるのだった。
ハルは、結局、煙草をやめなかった。
この黄昏の時間に窓から見える景色は、あまり好きではない。
もう少しして、夜になれば、スカイツリーがライトアップする。ちかちかと明滅する光を見ていると、ハルが近くで瞬きをしているみたいに感じる。
この部屋には、幸せが詰まっている。私はこれからもずっと、この部屋で暮らしていくだろう。
あの夏の思い出を、抱えて。
***
けれど。
あの夏はもう、遠く過ぎ去っていった。
それでも毎日、朝は来る。
私はひとり京成線に乗り、日暮里駅で下車する。駅を出て、緩やかな坂道をのんびりと歩いてゆく。
穏やかな秋晴れで、半袖で歩くにはほんの少しだけ肌寒い。
谷中にある小さな専門店で、テイクアウトの珈琲をふたつ買う。その場で焙煎している珈琲は、非常に香ばしく、抜けるような良い香りだ。
けれど、その珈琲はお子さま舌の私にはひどく苦い。コンビニのコーヒーの方が飲みやすいし、値段だってずっと安い。
それでも私は、これからもその店で珈琲を買うだろう。
年に一度、穏やかな秋晴れの日に。
先程買った珈琲と、コンビニで買った花を手に、ひと気のないその道を歩く。
谷中にある広大な霊園。
木々に囲まれた静かなゆりかごで、沢山の人が眠っている。
私は、静かに珈琲を置き、花を手向けた。
——ハル。
君がここにきてから、もう二年経ったね。
展望デッキからの景色は、まだ見れてないんだ。
三百何メートルから望む景色に、君はいない。三百メートルじゃ、君の元には届かない。けど、地上にいるより少しは君に近いかな?
それから私、珈琲だけじゃなくて、にがーいビールだって飲めるようになったんだよ。
次に生まれてくるときに、私がそばにいられたら、また珈琲を買いに来ようね。今度は量り売りで豆を買うの。下手くそかもしれないけど、私が珈琲を淹れてあげる。
それで、一緒の部屋で、花火を見よう。
今ならわかる。
君は、私の前ではわざと子供っぽく振る舞ってくれてたんだよね?
私が背伸びをして、君がかがんでくれてたから、同じものが見えてたんだよね。
そうそう、それから、もう煙草は吸わないで。
私、煙草だけはあんまり好きじゃなかったんだ。
ありがとう。
たったひとりの、大切なひと。
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