硝子の砂時計
井田いづ
日曜日は予定を立てる
鼻を刺激する消毒液の臭いが、昔から私はどうも苦手だった。だから可能な限り病院を避けようとして、それでも今回ばかりはちゃんと病院に行こうと思えたのは、なにか運命じみた力が働いたからじゃないだろうかとも思う。
私は採血の後の瘡蓋を絆創膏越しにゆっくりと撫でる。いくつもの検査を回されて、随分と長いこと待たされた。
「
ようやく呼ばれて、いやに離れた部屋に案内される。その先の部屋、ドアに手をかけた瞬間から嫌な予感はしていたのだ。
悲観的でもなく、楽観的でもなく、事務的に告げられた言葉のほとんどは耳を右から左へと素通りする。思わず私は「あの」と大きめに話を断ち切った。
「あの、
お尻の下で回転椅子が軋む。
己の呼吸音が嫌に大きく鼓膜を震わせていた。
まさか聞き間違いだろう、そう思いたかったのだが、先生はゆっくりと首肯した。
「その兆候が見られます。検査結果のこの数値――……縹さん、大丈夫ですか」
「だ――――いじょう、ぶ、です。多分」
私はなんとかそう答えて、視線を忙しなく部屋に走らせた。はくはくと浅い呼吸を繰り返してから、どうにか笑みを作る。
「びっくりしちゃって」
砂化症。
読んで字の如く、砂になる奇病だ。何がどうなって、人体がさらさらとした砂に変わってしまうのかはわからない。ある時突然降ってきたこの奇病は、今では決して珍しいものでもなかった。有名な人でも罹るし、初めの頃大きなニュースにもなったし、子供でも知っている。老若男女、誰しも怯える未知の病だ。
私は自分も罹る可能性があることをちゃんと知っていた。
それでもまさか自分が――という気持ちが強いのも確かだったのだ。身近にそういう人がいなかったからかもしれない。
この時の私の顔はどんなものだったのだろう。きっと随分間抜けだったと思う。語られる言葉への相槌が、全て腑抜けた声になっていたのは、自分の耳にも届いていた。
ただ予想外に私は取り乱しはしなかった。
「凡そ一週間ほどが山場です。ここから一年も進行を遅らせた人もいますから」
そう言われても心は大きくは揺れ動かないで、どちらかと言えば妙に落ち着いていた自分自身に驚いていた。いきなり突きつけられた言葉を上手く飲み込めと言うほうが無理難題だ。
首だけで相槌を打ちながらどうにかこうにか膨大な情報を頭に叩き込む。
砂化症は、ほとんど自覚症状を伴わない。
聞いたところによれば、一度罹患すれば段々と感覚を失っていき、砂になる瞬間にすら痛みを感じることはないという。内臓から、指先から、毛先から、何もかもがさらさらと崩れ落ちて、跡形も無くなってしまう奇病。まだその原理も原因もなにもかもがわからないままのそれは、遠いどこかではなく近くのどこかにあるモノとして、知識としては知っていた。
本や新聞で読んだことはあるそれを、自分に当てはめることは中々に容易ではなかった。
最期に痛みがないことを不幸中の幸いとするか、あるいは痛みこそを生きる行為の証左と捉えるならば、それを最後の最後に失ってしまうのはやはり不幸なのかもしれないけれど、私にはまだよくわからない。
事務的な対応の奥にある柔らかさは、残り時間が少ないことをいやでも突きつけてくるような気がするけれど、信じるには突然すぎる。
先生の説明に乾いた返事を返しながらも、いつの間にか病院を出て、むき出しの領収書を握りしめて歩きながらも、家に着いてからも、何度も思考を巡らせたけれど、やはり現実味がなくて、よくわからない――それだけだった。
入院治療を勧められたけれども、驚くべきことに必ずそうしろとまでは言われなかった。家に戻ってもいいと言う。私は迷ってから、一度家に帰ることにした。
だって、あと一週間しかないのだ。
来週には砂になっているかもしれない。跡形もなくなって、風に攫われて、どこか遠い場所を巡る。
「その前にやりたいこと、やらないと」
声に出してみれば更に思いは強まった。
晴天の日曜日。
家に着いた私は窓から見慣れた景色を眺めていた。何度も見た景色だ。春から初夏へと踏み出す空には、気が早いもくもくとした雲。少しだけ傾いた太陽の光が眩しくて、木々草花の青々とした姿も眩しくて、昨日までと何一つ変わらない景色のすべてがどうしてか眩しくて、すべてが真新しく芽吹いている。少しだけ開けた隙間から、青々とした香りが鼻をくすぐった。
何もかも地続きに変わりゆく中、突然に私の時間だけが止まってしまうとは、なんとも信じられなかった。それでも鼻がつんと痛むこともなければ、目尻を濡らす粒ひとつない。涙の代わりに溢れるのは焦燥感だけだった。
私は泣き叫びたいのに仕方を知らないのだろうか。
受け止めきれないと喚きたいのに術がないのだろうか。
悩むのも勿体無いくらいに私には時間が残されていなかった。だから、悲しむよりもまず最初に焦ることにしたのだと己を納得させた。最後に精一杯生きるために、急がなくてはいけないのだ。
やりたいこと。
買っておきたかったもの。
食べたいもの。
見たい景色。
聴きたい音楽。
歩きたい道。
話したい誰か。
まるでキリなく溢れてくる。書いては消して、また書いて、消してを繰り返すうちに、すでに半日が過ぎている。何からすればいいかすらわかっていないけれど、それでも、やりたいことはひとつ、決まっていた。
私は、最後まで、生きていたい。
今しか生きられないのなら、今を全力で生きてみたい。生きられる時に、生きてみたい。
月曜日から土曜日まで。
今日を除いた六日間に一週間のやりたいことを詰め込んでいく。消しては書いてを繰り返し、代替案もいくつか添えて、連絡が取れそうな友人を探しては肩を落として。
この一週間のことを聞けば、先生からは基本的には自由に過ごしても良いとの許可は出ている。驚いたのだが、確かにこれは伝染するものでもなく、ほとんどの人は最後の場所を己で選ぶために旅に出るものらしい。目一杯好きなことをしてきなさいと背中を押してもくれたのだ。服薬と検査は必要になるものの、それは私の時計を少しでも長く保たせるためなのだから仕方がない。
大学ノートいっぱいに書き殴って、消して、一通り出し終えたところで鉛筆を置いた。
窓の外は相変わらずの陽気で、時折、枝を撫でる風が空気を揺らし、光を揺らし、その度に窓硝子を通して微かな音を届けてくる。
ぼんやりと眺めているうちに、初夏に色づき始めたその空気に触れてみたくなって、つと立ち上がった。
今日の後の予定は電話を沢山して、残り時間は本を読むだけだ。少しくらいなら、と私はノートも鉛筆も置き去りに、誘われるように外に出た。
着の身着のまま外に出て、すぐに私はしまった、と首を引っ込めた。さっきは考え事をしていてすっかり感覚がなくなっていたけれど、まだ冷たさを残した風が首筋を撫でる。
初夏の空に春の風。慣れてくればこれもなかなか心地いいが、やはり少し寒かった。進むか戻るか迷ってから、やはり面倒だとそのまま歩きはじめた。どうせすぐに身体も温かくなる。鼻をくすぐる緑の薫りがくすぐったくて、私は雲を追うように何処へともなく歩みを進めていく。
しかし、案外自分は淡白にできている。
もっとこう、何か思うところはあるのかと思っていた。落ち込んで、蹲って、取り乱して、未知の病に怯えるのかと思っていた。時間が経てば我にかえってわんわんと声を枯らして泣き喚くかと――それだのに、けろりとして涙のひとつも流れていない。
「案外平気なもんだ」
口に出して仕舞えば、そんな気がする。
立ち止まるよりはマシだと、そう思うことにする。本当に時間というものはあっけないのだから、一週間なんて瞬きのうちに過ぎてしまう。
青っぽい風が背後から私を追い抜いて、遥か遠くへ吹き抜ける。私も、通りも、高いビルも、なにもかもを越えて、ツバメと競い合う。
私はそのさざめきを眺めながら、何かに誘われるように手近な公園へと足を踏み入れた。
さざめきは広がる。
空気に、植物に、動物に、人工物に、それから私の中に、波が伝わって思い思いの音を奏でる。
暫く目を閉じて聞き入っていたのだが、ふと目についた木の枝を拾ってみた。握ってみて、太さも長さもちょうど良く、手に馴染む。ざっと周りを見て、人がいないのを確認した。
「よし」
それを目の高さに上げる。目を閉じる。次の風が吹きはじめるのに合わせて思い切って振り下ろした。右に、左に、上に、下に、思いのまま振り動かす。ざわざわと葉が音を奏でて、鳥が歌って、古いブランコが軋む。
さながら自然のオーケストラ。
小さな頃に、テレビで見た指揮者に憧れてよく真似事をしていた。ちゃんと指揮棒を持ったのは、小学校の音楽コンクールで一度あるかないかくらいのもの。きっと……というよりも絶対に、その道の人から見れば出鱈目も出鱈目、言語道断な動きであるのだろうが、観客も私一人なのだ。こんな時に公園で一人何をしているのかと、つい楽しくなってきて、音が増えても構わずに私は振り続けた。
風の音が、虫の声や草花のざわめきを乗せて吹き抜ける。それをそっと包み込むような柔らかな陽光、澄んだ空気に自分の呼吸すら溶け込んで、全てが混ざりあって、一つの音楽を奏でていた。
指揮棒を右に振るえばバッタが跳ぶ。跳ねた先の草が揺れ、足元でさわさわと柔らかく歌う。左で小さな羽虫の羽の音、上には鳥の歌声、どこかで古びた遊具の奏でる金属が軋む音外れの高い音。
不思議と指揮棒に合わせるかのように音が響いていく。自然の音色、世界の色が、すうっと自分に染み込んでいくような気持ちで、満足げに余韻に浸る。
全てが重なって、高く上って、訪れるのは束の間の静寂。自分に酔いしれていた私は悠然と指揮棒を下ろした。
すかさず拍手喝采。
――拍手? 私の手は塞がっている。
それでも聞こえるぱちぱちぱちと控えめな拍手に、私は一気に現実に引き戻された。想定外のことに肩を揺らすが、そうだ、ここは公園だった。誰が通ってもおかしくはない。
ギギギ、と油を刺し忘れたブリキの人形みたいに振り向けば、拍手の主と視線が交差する。
これまた古びたパンダの遊具に凭れるように、男の人がいた。それなりに離れてはいるものの、拍手の音はよく通る。
「あ、あの、えっと」
明らかに不審な行動を見られて、私は恥ずかしさに目を白黒させた。何を言えばここから挽回できるかを咄嗟に捻り出す。というか見ていたなら咳払いして知らせるなり見なかったふりをするならしてくれてもいいんじゃないか、いやいやそれはわがままだろうけど、このいたたまれなさはどうしてくれるのか。
こちらの視線を受けて、青年はふわりと微笑んだ。笑みを浮かべられると余計にいたたまれなくなって、目線を地面に落とす。
「ごめん、驚かせたかな。素敵なことをしているのが見えたから、つい立ち寄ったのだけど」
よく通る声で、その場から彼は謝った。いえ、と蚊の鳴くように首を振る。嫌味かとも思ったが、不思議と本心から誉めてくれているような、そんな心地いい響きがあった。
「すごいね。本当にお姉さんが全部の音を操っているみたいだった。うん、確かに、ここは耳を澄ませばいろんな音がする」
「そ――そうですよね!」
私は声を張り上げた。しまった、ひっくり返った上に不必要な大声になってしまった。
「あ、あの、それでなんですけど、ど、ど」
「ど?」
「どこから、要するに、どれくらい――見られて……」
「えっと……」
今度は青年の方が黙った。困り顔で頬を掻いて、頼らない笑みを浮かべる。なんだかふわふわぐにゃぐにゃのお餅みたいな人だ。
何と答えるかを迷うように言葉を選んでから、控えめに――それでもやはりよく通る声で――続けた。
「多分、割と頭の方から、だと思う」
勝手に見ててごめん、とはにかんだ。
彼曰く、職場がこの付近なのだそうだ。買い出しのついでによくこの公園は通るのだが、珍しく先客がいる。先客がなにやら変なことをしている。それでつい、見に来たらしい。
しまったと後悔したものの後の祭り、後悔先立たずとはよく言うものだ。もっときちんと確認するとか、せめて道路からは死角になる位置でやるだとか、やりようはあったのに!
そう後悔しても、時間を巻き戻せるわけもない。
ちらと顔を見る。不意に、どこかで見た覚えがあるような気もしたのだが、イマイチピンと来ないので気のせいだろう。なにせ、名前ひとつ浮かんでこないのだ。いくら世間は狭いと言えども残り一週間でそう何度も会うまい――そう思うことでどうにか動揺を鎮めることにした。
やはりどこかであったような気がしたものの、杞憂だと振り払った。知り合いなら向こうから名を呼ぶなりするだろう。
青年は小首を傾げるように小さく頭を下げた。
「ごめん、お邪魔しちゃった。えっと、すごく素敵な演奏でした……でいいのかな」
「い、いえ、お粗末さまでございました……」
「なんだか久々に懐かしいものを思い出せた気分なんだ。ありがとう。せっかくならもう一曲くらい聴きたかったけど」
「本当にもう忘れてくださいますと……」
「ごめん! からかってるわけじゃないんだ」
それじゃあ、と青年は手を振りながら歩き出す。釣られて思わず手を振りかえす。
「まだ夜は冷えるし、お姉さんも気をつけて」
「は、はあ……あなたもお気をつけて……」
変な人だったなあ、と苦笑しかけて、いや、そもそも自分が変だったと我に返る。
深どうせ二度と会わない人だ、気にするだけ損だ。あれが自身の最初で最後の演奏だとおもえば、観客がいたのはむしろよかったんじゃないかとさえ思えてきた。
昔、ずっと小さな頃、私は音楽が好きだった。特別得意ではなかったし、なにか習い事をしていたわけでもなかったけれど、私は音楽というものが好きだった。辛い時に寄り添ってくれた音楽も、ふとした瞬間に耳にした自然音も、楽しくて歌い出した誰かの歌も、なにもかもが好きだった。最近はめっきり聴く機会もなく、周囲の音にも心をくべていなかったけれど、久しぶりに胸が高揚するのはわかる。
それを思い出せた分よかったと思うことにした。
家に戻って、お気に入りのCDを引っ張り出して、年代物のCDプレイヤーも探して、音楽を聴こう。
くるりと踵を返せば、さわさわと柔らかな音色が追ってきた。やがて夜になる空には、星が散りばめられている。淡いはずなのに眩しくて、急かされるように家路をたどった。
一日が終わるのは、あっという間だ。
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