141話 Iris
「ノーファ、さま……どう、して……?」
ジュリオの金色の瞳が、ショックと痛みで大きく見開かれていた。腹の辺りを斬りつけられたことで血が流れ、ジュリオはその場にうずくまるようにして倒れ込んだ。
傷つけた本人であるノーファは、ニッコリ微笑みながら口を開いた。
「あら、どうしたのエンゲル? 早く立ち上がって、アイリスを殺してちょうだい?」
朗らかな口調で下される言葉。笑みを崩さないノーファとは裏腹に、ジュリオは口から大量の血を吐き出した。銀白色の屋根の上に、赤黒くどろどろとした池が生まれる。立ち上がるには相当な時間が必要だった。
ジュリオが立ち上がろうとせず、ただ血を吐き出す様を見ているうちに無表情になったノーファは、翼の生えていない背中に容赦なく斧を叩きつけた。
「早くしなさい、グズ。あんな偽神も殺せないようじゃ、願いなんて叶えてあげないわよ」
枯れそうな絶叫が響き渡る中、甘い声質と真逆の冷たい言葉が浴びせられる。
アイリスは、仲間であるはずの神に斧を容赦なく振り下ろすノーファの姿を見て、無意識に立ち尽くしてしまっている。小さな身体が知らないうちに震え、抑えることも忘れている。
「なんなんじゃ、お主……狂っておる。そやつは仲間ではないのかえ?」
「あなたにわたくしを糾弾する資格なんてありませんわ。あなただって似たようなものでしょう?」
あどけない顔に陰が落ち、楕円の模様が刻まれた翠の瞳がギラギラした状態でアイリスを見据え、低いトーンで言葉を吐いた。吐き捨て終わったら、再びジュリオを見下ろして斧を叩きつける。
ジュリオの顔から伝っているのは、血だけではない。涙も血に混ざって伝い落ちていく。
「っ……いや……だ。おれ、せいいっぱい、がんばり、ますから……」
「そうよ、頑張りなさい?
ノーファは懐から、何か液体の入った小瓶を取り出した。手のひらに収まりそうなサイズの瓶の中には、深い紺色のどろどろとした液体が閉じ込められている。
血を吐きながら涙を流すジュリオの前にしゃがみこみ、瓶を封じているコルク栓を抜く。
「この薬をあげる。わたくしをがっかりさせないでね」
ジュリオの顎を片手で掴み、口に瓶を押し込んで中身を流し込んだ。瓶が空っぽになったときには、ジュリオの苦しげな表情がとても和らいでいた。それどころか、どこか恍惚とした微笑みを浮かべている。
「さあ、大嫌いな生みの親を殺しなさい。あなたの悲願を叶えなさい。それが、わたくしの願いの成就に直結するのだから」
「はい……ノーファ様」
血まみれで立ち上がったジュリオの目は、先ほどよりもかなり虚ろなものへと変貌していた。僅かな光さえ失い、泥沼の底のように暗く濁った瞳をアイリスへ向けている。
「……妾を殺すことが何を意味しているのか。わかっているのか、ジュリオ」
「うるさい。今更、手遅れだ」
狙撃銃が再び構えられ、引き金に指をかけようとしているのに、アイリスには背中を向けて武器を拾う隙すら与えられない。
「アイリス、様……杖、なんとか取れまし────っ!?」
立ち尽くしていたアイリスの意識が、カルデルトの声と銃声で現実に引き戻される。至るところが赤く滲んでいる状態のカルデルトが、アイリスの手から弾かれた杖を握って近づいてきていた。そこに、ジュリオによって腹を撃たれたのだ。
「カルデルト、血を流しすぎじゃ! そのままでは倒れるぞ!?」
「こんなところで倒れたら……後々、面倒でしょう……」
「……お主は離脱しろ。応援を呼べるかの」
「なんとか……します」
アイリスに杖を渡したカルデルトは、屋根から屋根へ飛び移っていく形で姿を消した。足元がおぼつかない状態であったが、その場から離れるだけの力ならまだ残っていた。
ノーファもジュリオも死にぞこないには執着がないようで、再び杖を構え直したアイリスだけに意識を集中させていた。
「うふふ……あなたも愚かですね。わたくしとエンゲルだけなら、自分だけで事足りると思っているのでしょう?」
「……なんじゃと?」
次の瞬間、アイリスに向かって人影が飛びかかってくる。とっさに杖で防いだそれは、紅紫色のピンだった。
杖を押し返して跳ね返し、距離をとる。虚ろな赤い瞳を見開かせながら、ピエロの少女がアイリスの前に立ちはだかった。もちろん、アイリスはそのピエロの姿をした女神のことを知っている。
「お主は……レイチェル!?」
「どう、して……ラケル……ラケルは、どこなの!!」
アイリスの言葉には耳も貸さず、正気を失ったピエロ──レイチェルはピンを魔法で飛ばしてぶつけていく。ピンが自身にぶつからぬように魔力の防壁で防ぐアイリスは、魔法でさらに追撃を仕掛けようとする。
しかし、レイチェルの動きがあまりにも素早く、詠唱の隙すら与えられない。
「くっ……もしや、こやつもお主らの仲間か!?」
「不正解です。生誕祭で広く提供された限定スイーツ……あれが大事なヒントですよ?」
「はっ────」
さらに、ジュリオも狙撃銃とともに迫ってきていることに気づく。再び引き金を引かれると思った────が、脇腹を銃身で強く殴られ、体勢を崩してしまう。
レイチェルとジュリオ、二人の神が揃ってアイリスを潰しにかかる。まともな反撃はできないとすぐに判断し、杖に光の魔力を流し込んで閃光のように暴発させる。レイチェルとジュリオが目を押さえて苦しがっているところを、氷のように冷たい目で見据えていた。
「うふふふ! ねぇアイリス、今どんな気持ちかしら!? あなたが生まれた日に、せっかく生み出した我が子にたくさん裏切られて!! さぞかし苦しいでしょうねぇ!? あはははは!!」
ノーファは星幽術を使うことは愚か、武器を手にすることもなく、ただ狂ったようにアイリスを嘲笑っていた。天使のように白く優しげな風貌で、悪魔のような黒い笑い声をためらいもなく上げている。
腹立たしく思うのが普通だった。しかし、今のアイリスは無表情だ。虚ろで底知れぬ闇に飲まれたかのように、顔には何の感情も宿っていない。
「『エレメンタル・イーリス』」
自身の視界も曖昧になっている中、杖の先端に色とりどりの魔力を束ね、真っ白な光線として四方八方に放つ。光で目が眩み、まともに動くことができなくなった二人と笑い続けるノーファの身体を、白く眩い光が貫いた。
「ぐぅっ────これは……っ!?」
色とりどりの魔力は、系統魔法にも用いる六つの属性すべての魔力であった。これらを束ねた光は万能属性の魔力となり、あらゆる敵の弱点を的確に突くことができる。ノーファにはそういった弱点は存在しないものの、小さな身体の至るところをあらゆる方向から貫かれ、光線が貫通した多くの部分から大量の血を噴き出した。
二人の神も例外ではなかった。レイチェルの腹に穴が開き、血を噴き出しながらドサッ、と音を立てて倒れた。ジュリオの身体にも同じように穴が空いている。なのに彼だけは、狙撃銃を片手で構え、天に掲げた。
「終わりに……してやる。創造叶えし銀白よ、我が命に応じ変幻せよ────!」
ジュリオの身体を包むのは、光の魔力の奔流だった。奔流が漂う周囲の物質が、銀白色の金属へと姿を変えていく。屋根が崩れかけたときに金属へと変えられた部分は溶け出して、ジュリオの背丈より大きな何かへと変形していった。
神幻術の詠唱────大規模な魔法を使われ、街がさらに壊れることを承知しつつ、アイリスもまた雨が降る空へ杖を掲げた。
「ならばこうじゃ。大いなる光よ、我が宝杖に集い顕現せよ────」
「っ!?」
神幻術には、神幻術で対抗するのが一番効果的だった。魔力をいくら消費し、街を壊してしまうことになろうとも、ここで自分が負けるよりはまだいい結果だと信じている。
ジュリオは、最高神の神幻術が自分に向かって解き放たれることを懸念する他なかった。だが、ここで詠唱を打ち止めて防御の姿勢を取ったら、アイリスにダメージを与えることがさらに難しくなる。
「我が敵を撃ち滅ぼす兵器を、今ここに顕現せし!」
「闇を裁く聖なる濁流を、我が身の前に」
詠唱を続けるうちに、ジュリオの背後に銀白色の巨大な大砲が作り出される。しかし、詠唱中のジュリオの足元に黄金の魔法陣が現れ、足を動かせなくなってしまう。アイリスの神幻術によるものだとすぐにわかったが、口を動かして魔力を操作することはまだできていた。
巨大な大砲を圧倒するレベルの魔力が、アイリスを包み込んでいる。ジュリオの足元に浮かぶ魔法陣の内側からも、アイリスを包む魔力と同じ光が溢れ出す。
神幻術が発動すれば、ジュリオの身体が無事では済まされないかもしれない。それでも、大砲へ自分の中のすべての魔力をつぎ込んだ。
「『
「『
大砲から銀白色の巨大な弾が放たれ、アイリスを吹き飛ばす────その寸前で、アイリスを包んでいた膨大な魔力が増大した。
ジュリオの足元の魔法陣から、目が焼き焦がされるほどの眩しい光が溢れ、渦を巻く。光に飲み込まれたのはジュリオだけではなく、気絶したレイチェルとノーファも同様だった。
天まで届く竜巻のように渦を巻く光が大きくなり、命だけではなく建物や道路さえも飲み込んだ。繁華街を眩しく照らす光は、降り続ける雨さえも吹き飛ばす勢いで敵を浄化していく。
────光の渦が繁華街の一部を飲み込んでいたのは、神幻術の発動から約十秒の間の出来事だった。
ジュリオの固有魔法で一時的に固まっていた屋根すらすべて砕け、金属の破片と化していた。戦闘を行っていた屋根のみではなく、その周囲の建物もほとんど全壊していた。繁華街の中でも、割と近くに位置している宮殿と戦闘位置から遠く離れた建物群は、特に目立った損傷もなく現存している。雨が止む気配はなく、未だに地面と建物たちを濡らし続けている。
銀白色の大砲も、建物と同じく砕け散っていた。戦っていた屋根のある建物があった場所には、ジュリオとレイチェル、そしてノーファが倒れている。その中で唯一動いているのは、ノーファだけだった。
白いドレスが引きちぎられ、裾がかなり焼け焦げている。四肢や腹、頭からも血を流していたが、傷はみるみるうちに再生していき、傷跡すら残らなかった。
「うふ、ふふ……さすがに痛いわね。エーテルだけでここまでの威力とは……恐れ入ったわ」
ノーファは立ち上がり、自身を傷つけた張本人の姿を探す。だが、すぐには見つけることができなかった。
なぜなら、アイリスは崩れた建物の瓦礫に挟まれ、身体を動かすこともできず倒れていたからだ。
「残念じゃったな……ノーファ。妾を動揺させようとしたんじゃろうが、別になんとも思わんわ」
アイリスもまた、頭や胴体から血を流している。不思議なことに、痛みは凄まじいものでありながら不敵な笑みを浮かべているのだ。ノーファは一瞬だけ面食らってしまうも、嘲るような笑い声を上げた。
「もしかして、子供を失いすぎて心まで失くしちゃったのかしら? あららー、かわいそうねぇ」
「デミ・ドゥームズデイ以前の妾ならば、多少は動揺したかもしれんのう。あの事件は……妾の心を麻痺させたのかもしれん。自分が生み出した神を自分の手で傷つけても、心が動かぬ」
「うふふ、あなたは最高神の座にふさわしいわ。そのくらい達観していなきゃ、世界なんて守れないもの」
残ったのは、最高神と翠の瞳を持つ観測者の少女だけだった。かつては祭りという非日常で賑わっていた街が、今は雨だけが降り注ぐ寂しい場所になっていた。
街に人気がなく、建物がいくつも壊れている。崩れ落ちた瓦礫、ところどころに点在する血だまり────アイリスは今のキャッセリアと、百年前の惨憺たる光景を無意識に重ねていた。
「そういえば……百年前の大事件。あのときに最大の裏切りがあったはずよ? わたくしたちのかつての同胞、クレー……いえ、クロウリー・シュヴァルツの方が馴染みがあるかしら?」
ノーファの口からクロウリーの名前が出た瞬間、アイリスはとてつもない違和感を覚えた。
神隠し事件の犯人である男、クレー。黒いローブに身を包んだ、黒い鎌を持つ彼のことを、アイリスは自分の目で見たわけではないが────クレーがクロウリーであるはずはないと思い込むのは必然だった。
「クレーが、クロウリーじゃと? あやつはクリムが殺したはずじゃ!」
「あら、ご存知なかったの? クロウリーは確かに
ミストリューダ────アイリスにとって馴染みのない名前だった。言い方から考えるに、何かの組織であろうことは察することができた。
「もし、それが本当だと言うなら、クリムはなぜクレーの正体を……あやつがそんなことをする理由なんて」
「そんなの知らないわ」
事件の報告書は、クロウリーが死んでからはすべてクリムが作成している。神隠し事件も同じで、クリムによって紙に書かれた事実のみをアイリスは知っている。
仮に、その事実がクリムによって意図的に隠されているとすると────アイリスが事実を知るすべは、ごくごく限られてしまう。生真面目で命令に逆らうこともほとんどないクリムが、そんな反抗的な行動をとるなど、余程の理由があるに違いなかった。
アイリスが考え込む中、ノーファは当然のように彼女を助けるわけもなく、さらに言葉を続ける。
「ユキアだったかしら? 彼女も随分とあなたを嫌っていたわ。昔、どんな会話をしたのかは知らないけど、あなたにとってあの子はエンゲル……いえ、ジュリオと同じ『失敗作』なんでしょう?」
「……何を言っておるのじゃ」
「あなたがユキアたちを『失敗作』と思っている理由、わたくしは知っているの。ジュリオはその理由を知ってしまったおかげで、あなたを信じることができなくなり、『ミストリューダ』に加担した。因果というのは本当に面白いわ」
ここまでノーファの言葉を聞いても、言いたいことが掴めなかった。何も考えず話を聞いているだけでは、脈絡のない話を延々と垂れ流されているような気分になってくるのだ。
「夢牢獄事件の犯人、ラケルは二重人格者だった。もちろん、あなたもそれを知っていて、事件を起こした方の人格を抹消させた。神を生み出すことができるあなただけができる所業……残った人格の方も、それに薄々気づいていたのでしょうね」
「……結局、何が言いたい? 無駄な問答に付き合う時間はないのじゃ」
業を煮やしたアイリスが低い声で尋ねると、深いため息が聞こえた。それからまもなく、ノーファの顔から笑顔が消えた。
「わからないのかしら? アイリス、あなたは傲慢なのよ。あなたが神と呼ぶものは、ただの贋作。あなたがやっていることは真なる神に対する冒涜なの。真なる神のお導きに従い、あなたたちに罰を下すわ」
ノーファは倒れて動かない二人の神のうち、ジュリオの腕を掴んで引っ張った。息はまだあり、生きている彼の身体を引きずり、アイリスの前へ持ってくる。
鋭い殺気が、アイリスの前方から突き刺さってくる。慌てて頭を上げたとき、何度も向けられた銃口が視界に入った。
「なっ……お主、まだ意識が……!!」
銃を構える腕すらまともに上がらず、地面に這いつくばった状態であるにもかかわらず────彼は大量の血を流し、笑いながら狙撃銃を握っていた。
「言っただろ……お前だけは、おれが殺してやるって」
────爆発音とともに、アイリスの頭と意識がぐわんと揺れた。
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